今回のブルーシャトル・プロデュースの挑戦は「歴史もの」なのだが、単純に歴史ネタでエンタメするのではない。激しい戦いを2時間半にわたり、延々ととめどなく見せていく。その圧倒的なダンス・パフォーマンスを通して戦乱の世の無常を表現する。
だが、ストーリーはここでは「あってなきが如し」だ。大体、これは誰もがよく知っているお話なのだから、つまらない説明なんかはいらない。もちろん、ストーリーテラーである大塚さんは、この史実を元にして、そこに大胆な脚色を可能にする。あっと驚くようなストーリーの面白さも用意している。
だが、それすらも小細工だ、と思う。松田岳(もちろん主人公の真田幸村だ!)と田渕法明(なんと徳川家康と淀君の二役。しかも、わざと瞬間での衣装も含む大胆な早変りを何度となく繰り返し見せてくれる)を中心とした役者たちの肉体の躍動の前では、つまらないお話の仕掛けなんて無意味だとばかりに、細かいことには拘らない。
2幕構成で、2時間半(10分間の休憩はこれだけの運動量だから、必要最小限の休養だろう)、ほぼ全員が舞台の上で出ずっぱりで、さまざまな役をこなしていく。このアンサンブルの妙が彼らの芝居の活力だ。役者陣は、主役を支えるのではなく、舞台全体を支える。
今回テーマにしたのは「扇子」だ。いつも小道具として様々なアイテムを用意するのだが、刀の代わりに扇子でそれを表現する。当然想像するような優雅さと、それを裏切るような激しさ。赤い扇子が迸る血しぶきを思わせるのも、予定の範囲内だろう。衣装は黒をベースにしたのも、扇子の赤を際立たせるための仕掛けだ。ポスター、パンフでは赤の衣装に身を包んだ役者たちが舞台ではそれを使わない。それってとても大胆で贅沢だ。だが、そういう部分もブルーシャトル・プロデュースのよさだ。表層的なきらびやかなだけのものではなく、舞台全体を細部まで計算して作りあげていく。
細部にまで、作、演出、照明を担当した大塚雅史さんならではの繊細さと大胆さが際立つ。彼らはただの商業演劇ではなく、自分たちの表現を目指す。これは芝居ではなく、ブルーシャトル・プロデュースだ、と宣言できる。そんな作品を常に目指す。
だが、ストーリーはここでは「あってなきが如し」だ。大体、これは誰もがよく知っているお話なのだから、つまらない説明なんかはいらない。もちろん、ストーリーテラーである大塚さんは、この史実を元にして、そこに大胆な脚色を可能にする。あっと驚くようなストーリーの面白さも用意している。
だが、それすらも小細工だ、と思う。松田岳(もちろん主人公の真田幸村だ!)と田渕法明(なんと徳川家康と淀君の二役。しかも、わざと瞬間での衣装も含む大胆な早変りを何度となく繰り返し見せてくれる)を中心とした役者たちの肉体の躍動の前では、つまらないお話の仕掛けなんて無意味だとばかりに、細かいことには拘らない。
2幕構成で、2時間半(10分間の休憩はこれだけの運動量だから、必要最小限の休養だろう)、ほぼ全員が舞台の上で出ずっぱりで、さまざまな役をこなしていく。このアンサンブルの妙が彼らの芝居の活力だ。役者陣は、主役を支えるのではなく、舞台全体を支える。
今回テーマにしたのは「扇子」だ。いつも小道具として様々なアイテムを用意するのだが、刀の代わりに扇子でそれを表現する。当然想像するような優雅さと、それを裏切るような激しさ。赤い扇子が迸る血しぶきを思わせるのも、予定の範囲内だろう。衣装は黒をベースにしたのも、扇子の赤を際立たせるための仕掛けだ。ポスター、パンフでは赤の衣装に身を包んだ役者たちが舞台ではそれを使わない。それってとても大胆で贅沢だ。だが、そういう部分もブルーシャトル・プロデュースのよさだ。表層的なきらびやかなだけのものではなく、舞台全体を細部まで計算して作りあげていく。
細部にまで、作、演出、照明を担当した大塚雅史さんならではの繊細さと大胆さが際立つ。彼らはただの商業演劇ではなく、自分たちの表現を目指す。これは芝居ではなく、ブルーシャトル・プロデュースだ、と宣言できる。そんな作品を常に目指す。