パリ、北京を舞台にして放浪する魂の恋愛ドラマを見せる。『天安門、恋人たち』『スプリング・フィーバー』のロウ・イエ監督最新作。今までもそうだったが、今回も決して好きな映画ではない。だが、目をそらせない。
主人公の女はバカだ。セックスをどんなに重ねても愛には届かない、という映画のコピーそのままの内容で、それが切ない想いになるのではなく、こいつほんとうにバカ女だな、としか思わない。それはいろんな男と関係を持つ女だから、というわけではない。そういうのは人それぞれだし、別になんとも思わないけど、愛に対して、とても自堕落に見えるのが嫌なのだ。
だらしない女というわけではない。自分の気持ちに正直なのかもしれない。だが、相手の気持ちをあまり考えていない。それは男に関しても言える。というか、この男のほうがずっとえげつない。傷心の彼女(パリまで恋人を追ってやってきたのに、まるで相手は迷惑そうで逃げられる)と出逢って、つきまとって、食事をする。その後、すぐにレイプする。そんなぁ! と思う。だが、それからが凄い。
そして、彼女はそのままその男と付き合うのだ。ありですか、そういうのって。大学に通ったり、通訳の仕事をしたりして、結構自由に生きているようだ。あっちこっちに恋人がいて、でも、決して幸せそうではない。北京に戻って結婚するラストも、なんだかなぁ、と思う。いろんなことに諦めた。心を殺してただ静かに生きるだけでいい。そう思ったのか。
どこにも、自分の居場所がない。彼女の心の空洞を埋めることはできない。パリの町をさすらうように生きる。旅人の視点ではなく、生活者の視点でもない。誰でもないような、ここにいる必要のないような邪魔者。ふらふらして、漂う。行き場のない孤独な存在。
身分違いの恋ってよくあるけど、これはそういうパターンの定石を踏まない。この映画の主人公たちである教養ある中国人の女と、定職を持たない日雇労働者のフランス人の男は、お互いを理解しあえない。でも、お互いを求め合う。住む世界の違いだけではない。
全体的に、観念的な話と言うわけではないけど、頭で作ったような映画だ。なんかしっくりこない。見ていて、いろんな意味でいらいらさせられる。もちろん感情移入を拒否しているという一面はある。誰にも共感できない。だが、それは最初からそう描こうとしているのだから、そこをどうこういう問題ではない。この作品に漂う空気のようなものには、心魅かれる。それだけに、何かが足りないのが、気になる。
主人公の女はバカだ。セックスをどんなに重ねても愛には届かない、という映画のコピーそのままの内容で、それが切ない想いになるのではなく、こいつほんとうにバカ女だな、としか思わない。それはいろんな男と関係を持つ女だから、というわけではない。そういうのは人それぞれだし、別になんとも思わないけど、愛に対して、とても自堕落に見えるのが嫌なのだ。
だらしない女というわけではない。自分の気持ちに正直なのかもしれない。だが、相手の気持ちをあまり考えていない。それは男に関しても言える。というか、この男のほうがずっとえげつない。傷心の彼女(パリまで恋人を追ってやってきたのに、まるで相手は迷惑そうで逃げられる)と出逢って、つきまとって、食事をする。その後、すぐにレイプする。そんなぁ! と思う。だが、それからが凄い。
そして、彼女はそのままその男と付き合うのだ。ありですか、そういうのって。大学に通ったり、通訳の仕事をしたりして、結構自由に生きているようだ。あっちこっちに恋人がいて、でも、決して幸せそうではない。北京に戻って結婚するラストも、なんだかなぁ、と思う。いろんなことに諦めた。心を殺してただ静かに生きるだけでいい。そう思ったのか。
どこにも、自分の居場所がない。彼女の心の空洞を埋めることはできない。パリの町をさすらうように生きる。旅人の視点ではなく、生活者の視点でもない。誰でもないような、ここにいる必要のないような邪魔者。ふらふらして、漂う。行き場のない孤独な存在。
身分違いの恋ってよくあるけど、これはそういうパターンの定石を踏まない。この映画の主人公たちである教養ある中国人の女と、定職を持たない日雇労働者のフランス人の男は、お互いを理解しあえない。でも、お互いを求め合う。住む世界の違いだけではない。
全体的に、観念的な話と言うわけではないけど、頭で作ったような映画だ。なんかしっくりこない。見ていて、いろんな意味でいらいらさせられる。もちろん感情移入を拒否しているという一面はある。誰にも共感できない。だが、それは最初からそう描こうとしているのだから、そこをどうこういう問題ではない。この作品に漂う空気のようなものには、心魅かれる。それだけに、何かが足りないのが、気になる。