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映画・演劇のレビュー

ブルーシャトルプロデュース『壬生狼』

2014-01-18 23:12:22 | 演劇
 昨年の『ゼロファイター』に続き、今回も象徴的なダンスで全編を彩るスタイルに固執した。派手なアクションをふんだんに取り込んだダンスシーンでゼロ戦によるドッグファイトを表現し、ドラマ部分を最小限に抑えながら、死に赴く若者たちの生きざまを描いた。今回はまた、いつものように木刀を使った剣劇アクションだ。派手な殺陣をダンスと融合させ、さらに洗練度を高めた。しかも上演時間の目標を90分に設定して、新撰組の志士たちの若き日にスポットを当てる。作、演出の大塚雅史さんは、この作品で、このスタイルを使ってスピード感をさらに高める表現を極めるつもりだったのだろう。

 だが、その結果ドラマ部分の弱さが露呈した。もちろんそんなことは最初からわかりきっていたことなのだが、そこに目を瞑るのではなく、それでも彼らの暴走自身がこの作品のドラマとなる、と踏んだはずなのだ。だが、失敗する。若い役者たちの演技には、タメがないからどうしても流されることになる。しかも、これだけ段取りに縛られるのだ。不可能だろう。

 断片としてのエピソードの羅列になったのもつらい。クライマックスの池田屋事件へと時系列で並ぶエピソードはただの串団子でしかない。お決まりのストーリーをなぞる。みんな知っていることを知っているままみせても芸がない。これではダイジェストにしかならない。全体の8割ほどがダンスシーンで構成される作品において、ドラマ性の希薄さを嘆いてみたところで詮無い話なのかもしれないけど、でも、そこはベテランの大塚さんなのだから、なんとか手を打つべきだった。若き志士たちの情熱が時代の波に飲み込まれてどうなっていくのか、そこに確固たる作者の視点が欲しい。ぶれない視点さえあれば役者たちはついてくるはずだ。

 芝居自体も中心を土方歳三に設定したはずなのに、彼だけを不動のセンターにして最後まで見せるわけではなく、視点が揺れまくる。たった90分(実際は100分になってしまったが)の勢いだけで見せる芝居なのに、その視点の揺れはよくない。あれもこれもと、役者たちにそれぞれの見せ場を用意する必要があったのだろうが、アクションはドラマに従属するべきだ。そういう意味では今回は松田岳だけのための芝居でよかったのではないか。

 田渕法明演じる沖田総司や、青木威の近藤勇が魅力的であるのは、十分理解した上で、それでもあれもこれも描くわけにはいかなかったはずなのだ。せめて、視点を2人くらいにとどめたなら、まだ、全体の構成がうまく出来ただろう。総花的な芝居はこの企画では無理。スタイル、方法論と、実際のドラマとは芝居の両輪だ。バランス感覚はこの場合とても大事なことだった。

 個人的には破滅的な生き方をする芹沢鴨(土倉有貴)が魅力的に描かれてあるので、彼と土方を対比させながら全体をまとめて欲しかった。


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1 コメント

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よくみてらっしゃる (yoshihara)
2014-01-19 08:47:34
おそらく自分と同じ回を見たのでしょう。
私は今回が初めてだったのですが、この感想にはまったく同意です。
また、演出が照明畑の人だと聞いていたので、今回(毎回か?)の演出は創意工夫というより、ただプライドからくるものからとかんじました。
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