生理的に不快な気分にさせられる映画だ。今回に限らず塚本映画は今までもそうだったが、今回は最後まで日常をベースにして作られているから余計にキツイ。主人公が女性であり、しかも、鉄の塊になるとか、そんな話ではないから、重い。デジタルによる生々しい映像は見ていて、厳しいし、刺々しい。自傷行為、暴力、錯乱行動、描かれる内容のひとつひとつが、ヒロインである琴子だけではなく、僕たち観客も、恐怖に叩き込む。
たったひとりで幼い赤ちゃんを育てることのプレッシャーの中で、現実と虚構、妄想のバランスを崩してしまう。ひとりの人間が2人に見えてしまい、妄想である内面の声を語る人間が、彼女を襲ってくるという幻想を見る。これではもうとてもじゃないが普通に生活することなんかできない。
それでなくても、赤ん坊を抱えて、毎日が不安だ。しかも、ひとりである。子供は当然、いつも泣き叫んでいる。誰も助けてはくれない。ただそれだけで育児ノイローゼになっても不思議ではない。映画は彼女を、どこまでもとことん追い詰めていく。行き場を奪っていく。
そんな彼女に愛情を抱き、彼女を助けようとする不思議な男が現れる。バスの中で聞いた彼女の歌声に心動かされたと言う。彼はストーカーのように彼女につきまとう。最初は恐怖を感じる。だが、徐々に彼の優しさが本物なのではないか、と思えて来る。ここからラブストーリーになるのかと一瞬思わせる。もちろん一瞬である。そんなはずはないからだ。
彼女は彼を受け入れる。そして、彼に暴力の限りを尽くす。血まみれの彼の顔はすごい。ここまでやるってなんだか、と思う。自分を傷つけるだけでは飽き足らず彼を痛めつける。だが、彼は殴られても、どんな惨い仕打ちを受けても、そんな彼女を丸ごと包み込む。塚本普也自身が演じるこの田中という優しい男の存在が、なぜかとても怖い。彼はマゾなのか。あんなにボコボコにされて、それでも抵抗することなく、彼女を愛する。やがて、彼女は心の平安を取り戻す。しかし、その瞬間、田中は姿を消す。
映画はどこまで彼女を追い詰めれば気が済むのか。どこまでいっても終わりはない。心を壊してしまった彼女は最後は精神病院に収容されることとなる。そんな彼女を見舞いに来る今では小学生になった息子の姿がラストで描かれる。それを救いとするか? でも、それさえ彼女の見た幻に思えてならない。
シンガーソングライターのCoccoを主演に迎えて、極限にまでひとりの女を追い詰めていくこの映画のグロテスクさと、美しさを、どう受け止めればいいのか。映画は、今という時代を生きることの困難さを見事に照射する。
たったひとりで幼い赤ちゃんを育てることのプレッシャーの中で、現実と虚構、妄想のバランスを崩してしまう。ひとりの人間が2人に見えてしまい、妄想である内面の声を語る人間が、彼女を襲ってくるという幻想を見る。これではもうとてもじゃないが普通に生活することなんかできない。
それでなくても、赤ん坊を抱えて、毎日が不安だ。しかも、ひとりである。子供は当然、いつも泣き叫んでいる。誰も助けてはくれない。ただそれだけで育児ノイローゼになっても不思議ではない。映画は彼女を、どこまでもとことん追い詰めていく。行き場を奪っていく。
そんな彼女に愛情を抱き、彼女を助けようとする不思議な男が現れる。バスの中で聞いた彼女の歌声に心動かされたと言う。彼はストーカーのように彼女につきまとう。最初は恐怖を感じる。だが、徐々に彼の優しさが本物なのではないか、と思えて来る。ここからラブストーリーになるのかと一瞬思わせる。もちろん一瞬である。そんなはずはないからだ。
彼女は彼を受け入れる。そして、彼に暴力の限りを尽くす。血まみれの彼の顔はすごい。ここまでやるってなんだか、と思う。自分を傷つけるだけでは飽き足らず彼を痛めつける。だが、彼は殴られても、どんな惨い仕打ちを受けても、そんな彼女を丸ごと包み込む。塚本普也自身が演じるこの田中という優しい男の存在が、なぜかとても怖い。彼はマゾなのか。あんなにボコボコにされて、それでも抵抗することなく、彼女を愛する。やがて、彼女は心の平安を取り戻す。しかし、その瞬間、田中は姿を消す。
映画はどこまで彼女を追い詰めれば気が済むのか。どこまでいっても終わりはない。心を壊してしまった彼女は最後は精神病院に収容されることとなる。そんな彼女を見舞いに来る今では小学生になった息子の姿がラストで描かれる。それを救いとするか? でも、それさえ彼女の見た幻に思えてならない。
シンガーソングライターのCoccoを主演に迎えて、極限にまでひとりの女を追い詰めていくこの映画のグロテスクさと、美しさを、どう受け止めればいいのか。映画は、今という時代を生きることの困難さを見事に照射する。