奥田瑛二監督が私財を投げ打って挑んだ作品、というか、彼はいつもそんな風にして自分で映画を作っているから、これは今に始まったことではない。今の時代、こんなふうにして妥協することなく、自分の手で映画作りができるなんて、とても幸せなことだ。でも、その見返りは大きい。もっと商業ベースに乗る簡単な映画を作ればいいのに、不器用な彼にはそんなことは出来ない。というか、するつもりもない。何を作る場合でも彼のアプローチは同じだ。
今回、3・11を映画にする。だが、直接震災や津波を映画にするのではない。被災地出身の男女が主人公。別々の場所で生きるふたりのそれぞれの3・11以降、以前を通して、普通に生きることを描く。どこにでもあるような、誰でもあるような、男女の場合。それを丹念に描きいていく。これは別に3・11を絡めなくても成立するような映画だ。だが、それを敢えて3・11を絡めて見せることにこの映画に意義がある。被災地から遠く離れた東京で(必ずしも「遠く」というわけでもないのだが、)その後の1年間をどう過ごしたのか。そして、1年後初めて被災した故郷に降り立ち、何を思うのか。映画は何ひとつ語らない。語らないからこそ、胸に痛い。
今、どうしても、この映画を撮りたかった。まるで、奥田瑛二がデビューした頃、(70年代終わりの頃)の青春映画のような映画だ。藤田敏八の『もっとしなやかにもっとしたたかに』を想起させる。そんな古いタイプの映画である。だが、そんな時代と今とだって変わらない。いつの時代にあっても社会の底辺で、もがきながら生きている若者はいる。これはそんな彼らに向けての奥田監督からのメッセージなのだ。
今回、3・11を映画にする。だが、直接震災や津波を映画にするのではない。被災地出身の男女が主人公。別々の場所で生きるふたりのそれぞれの3・11以降、以前を通して、普通に生きることを描く。どこにでもあるような、誰でもあるような、男女の場合。それを丹念に描きいていく。これは別に3・11を絡めなくても成立するような映画だ。だが、それを敢えて3・11を絡めて見せることにこの映画に意義がある。被災地から遠く離れた東京で(必ずしも「遠く」というわけでもないのだが、)その後の1年間をどう過ごしたのか。そして、1年後初めて被災した故郷に降り立ち、何を思うのか。映画は何ひとつ語らない。語らないからこそ、胸に痛い。
今、どうしても、この映画を撮りたかった。まるで、奥田瑛二がデビューした頃、(70年代終わりの頃)の青春映画のような映画だ。藤田敏八の『もっとしなやかにもっとしたたかに』を想起させる。そんな古いタイプの映画である。だが、そんな時代と今とだって変わらない。いつの時代にあっても社会の底辺で、もがきながら生きている若者はいる。これはそんな彼らに向けての奥田監督からのメッセージなのだ。