アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の自伝的映画。あのフェリーニの『8 1/2』を想起させるような、これもまた壮大なドラマだ。Netflixお得意の巨匠に自由に手掛けさせ映画祭(本作は第79回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品である)で賞を狙うという大作アート映画。もちろん劇場公開後、すぐに配信公開するという必殺パターンの作品。
この幻想的なドラマはリアルな現実と陸続きになっている。イニャリトウ自身をモデルにしたような主人公の帰郷が描かれる。だがお話は単純ではないし、わざと混迷させるような作り方をする。観客である僕たちはこのわけのわからない映画に戸惑うばかりだ。でも冒頭の飛び跳ねる影をいつまでも追い続ける映像の美しさ、パーティーのシーンでのすさまじいばかりの無意味な長回しの躍動感。そんなものに魅了される。
混迷続きのお話は先が見えないだけではなく、無意味と背中合わせ。笑うしかないような展開も随所に。トイレでもう死んでいる父親に会うシーンではなぜか主人公の体のサイズが小さくなる。戯画されて描くメキシコとアメリカの戦争。国境を越えてくる難民たち。未来と過去、現実と妄想が交錯する。混沌としたイメージが横溢する。電車の中でビニール袋から買ってきた魚を落とした瞬間、車内が水で溢れる。そこを泳ぎながら離した魚を捜す。やがて車内だったはずなのに家の中になり、水だらけの部屋に。終盤では砂だらけの部屋で呆然とするシーンもある。部屋から扉を開けると外ではいきなり戦争が始まったり。自由奔放なイメージの連鎖。やりたい放題。ラストで再び電車の中のシーンになるのだが、彼が死んでいたことに誰も気づかなかった、とか。アメリカを拠点にしてそこで家族と暮らしているのに、アメリカ人だとは認められない。世界的に有名な映画監督であるのに、入国審査で引っ掛かり、怒りを抑えられない、とか。描かれる切れ切れのシーンには一貫したドラマ性はない。
主人公はロスを拠点にして活躍するメキシコ人有名ジャーナリストでドキュメンタリー映画製作者。彼が国際的な賞を受賞して母国に凱旋する旅の過程でさまざまな想いが交錯するそのスケッチ、というような枠に収めるしかないような映画だ、自由自在に飛躍するイメージを出来上がった枠内に収めることなく2時間40分、好きなように並べた。こんな奔放な映画を作る機会を与えられ、彼は怒りながら楽しんでいる。現実の不条理には怒り、こんな映画を可能としたNetflixには感謝。そんな感じか。彼の提示したこのイメージの世界に魅了される。でも、なんだかやりすぎのような気も。初期の傑作『アモーレス・ペロス』以来の母国メキシコロケ作品らしい。原点に返った彼の第2章がこの後始まる。