直木賞を受賞した前作『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』の続編が早々に書かれて刊行されていた。今回は短編連作のスタイルで、主人公は6つのエピソードで変わっていくのだが、読み終えたときの感触は、長編を読んだ気分だし、これは確かに長編小説である。
今回の実質主人公は、近松半二の娘である。だが、そのおきみは最後まで主人公として登場することなく、脇役に甘んじるのだ。最後の最後でやっと彼女がお話のセンターに立つ。でも、そのエピソード(『硯』)だけ、エピローグ扱いでほかのエピソードと較べるとかなり短い。でも、そこが今回の狙いでもある。ミステリー仕立てで彼女の想いを周囲の群像劇の中からあぶりだす。実に見事な構成だ。これは前作を超える傑作である。
最初は平三郎の語りで始まる。なんでも器用にこなす彼が近松半二の『妹背山婦女庭訓』を見て感じたことがお話の始まりとなる。操浄瑠璃に魅了された人たちの物語だ。次は徳蔵の話。そして、近松半二が死んだという語りで始まる3話目は半二と同じように浄瑠璃作家である菅専助のエピソードになる。ここで幻の作家近松加作(おきみ、である!)がお話の前面に出てくる。このへんの筋立てが見事だ。彼女の浄瑠璃への屈折した想いがお話の核心に据えられている。
3話目の最後で菅専助が死ぬシーンは圧巻である。だが、さらに4話目の最後で平三郎の死が描かれるのだが、ここはもっと凄い。この小説はいくつもの「死」を描きながら、そこに込められた「生」への想いが根底にある。生きることの意味を教えてくれるのだ。自分が夢中になり、追いかけるもの(彼らにとってはそれが浄瑠璃である)とどう向き合い、何を成すか。生きる意味はそこにある。有名になることとか、お金になるとか、そんな些末な話ではない。この世に生を受け、思う存分「遊ぶ」こと。
遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ。