この尋常ならざる暗さをひきずったまま、最後までフラットな芝居を作る。初めて稲田真理さんの芝居を見たのだが、この持続する緊張感に完全にノックアウトされた。
感情はギリギリまで、高まるが、境界線を超えない。その直前で踏みとどまる。この手の芝居(まぁ、映画でも小説でも同じだろうが)は、クライマックスにカタストロフィーがあるというのが、スタンダードなパターンなのだが、この作品はその轍を踏まない。抑えに抑えて、臨界点の一歩手前で収束する。だから、ストレスの溜まる芝居である。
だが、そこが作者の狙いでもある。本当なら我慢が出来なくなり、噴出するところなのだが、主人公の彼だけではなく、台本(稲田真理)も演出(赤星正徳)も、しっかりと耐える。狂気に駆られた巡査の身悶えする姿を妄想と現実の狭間をリアルの地平から、サディスティクに見せる。シュールなタッチは排除する。そこに逃げると作品がぶれるからだ。
海辺の田舎町。ひとりの巡査(豊田真吾)の正義感。彼を取り巻く平穏な日常。徐々に病んでいく心。派出所を中心にして、そこにやってくる同じように病んだ人々。それを、この巡査を巡る4人の男女に象徴させる。養殖の資金がなくて、困っている夫婦。町会議員選に出馬する男。彼の恋人。彼らと彼らに関わる巡査を通して、この小さな町の、よどんで停滞した空気が描かれる。巡回に回る彼の背後にあるこの町のうらぶれた風景が、4人の男女との関わりを通して見えてくる。彼らだけではなく、そんな風景の背後にうごめくたくさんの見えない人たちの想いまでもが、見え隠れする気がする。巡査の煩悶。心が軋んでくる。彼がどんどん病んでいくのは、この気分のせいだ。
陰鬱な空気、張りつめた感情。破裂寸前でキリキリする痛みに耐えながら、平穏な心を保ち続け、日常の繰り返しの中、生きている。この芝居は、敢えて観客にカタルシスを与えない。それは傲慢ではなく、作者の誠実さだ。痛みを共有する覚悟を強いることでもある。あなたはこの暗さと正面から向き合えるか。
感情はギリギリまで、高まるが、境界線を超えない。その直前で踏みとどまる。この手の芝居(まぁ、映画でも小説でも同じだろうが)は、クライマックスにカタストロフィーがあるというのが、スタンダードなパターンなのだが、この作品はその轍を踏まない。抑えに抑えて、臨界点の一歩手前で収束する。だから、ストレスの溜まる芝居である。
だが、そこが作者の狙いでもある。本当なら我慢が出来なくなり、噴出するところなのだが、主人公の彼だけではなく、台本(稲田真理)も演出(赤星正徳)も、しっかりと耐える。狂気に駆られた巡査の身悶えする姿を妄想と現実の狭間をリアルの地平から、サディスティクに見せる。シュールなタッチは排除する。そこに逃げると作品がぶれるからだ。
海辺の田舎町。ひとりの巡査(豊田真吾)の正義感。彼を取り巻く平穏な日常。徐々に病んでいく心。派出所を中心にして、そこにやってくる同じように病んだ人々。それを、この巡査を巡る4人の男女に象徴させる。養殖の資金がなくて、困っている夫婦。町会議員選に出馬する男。彼の恋人。彼らと彼らに関わる巡査を通して、この小さな町の、よどんで停滞した空気が描かれる。巡回に回る彼の背後にあるこの町のうらぶれた風景が、4人の男女との関わりを通して見えてくる。彼らだけではなく、そんな風景の背後にうごめくたくさんの見えない人たちの想いまでもが、見え隠れする気がする。巡査の煩悶。心が軋んでくる。彼がどんどん病んでいくのは、この気分のせいだ。
陰鬱な空気、張りつめた感情。破裂寸前でキリキリする痛みに耐えながら、平穏な心を保ち続け、日常の繰り返しの中、生きている。この芝居は、敢えて観客にカタルシスを与えない。それは傲慢ではなく、作者の誠実さだ。痛みを共有する覚悟を強いることでもある。あなたはこの暗さと正面から向き合えるか。