さらに旅の後半、舞台を高雄から台北に移したところから、この作品に。川端の中編である。初めてこれを読む。唖然とする。こんな変態小説を川端康成は書いていたのか。『掌の小説』も大概だけどこれは短編集ではなく一応長編小説である。怒濤の変態男の話。トルコ風呂で湯女に醜い足を晒すところから始まる。彼の恋愛遍歴が描かれる。
まず彼は女子高生のストーカーで、家まで平気で追いかけて来る。彼はその女子高生の通う高校の教師で、脅してその生徒と付き合って、それがバレて学校を追われて、なのに懲りない彼はまた他の女のストーカーをして、彼女が落としたバッグを拾う。そこには20万(自体は昭和30年代)が入っていて、やがて泥棒もして、もう何がなんだかわからない。
幼なじみの女の子への想い。ストーカーをしたふたりの女。この3人だけではなく、さらには綺麗な若い女(知り合いの恋人)を追いかけていく。ただの女好きの変態男なのだが、それを弁護するでもなく、ちゃんと気味の悪い男として描きつつも、彼の行状を否定するのではない。ラストの40女は母親をイメージさせる。自分が捨てた子供は捨てられた過去の自分で、美しいイメージの母と醜い幻想の母の間で揺れ動く。
タイトルの『みずうみ』に象徴される母親。幻想と現実は確固として、そこにある。混然としてるわけではなく、厳然と明確にそこにある。だからこれは幻想小説ではない。
10日間の旅に川端の2冊持っていき、きっちり読み切った。旅先の読書は少し普段と違うから、特別。そして今回の川端康成は、かなりの刺激物だった。今の僕は基本新作を読むが、もちろんこれは新作じゃないけど、新鮮。こんなにも呆れた話なのに、何故か美しい。
旅から帰ってから、最後はもう一度『掌の小説』をパラパラと読み返した。初めにある『日向』という作品がベストだった。人の顔を見てしまう癖はどこから来るのかを考える。目の見えない祖父が明るい方向を見ていたこと。好きになった娘を見つめてしまうこと。昔と今が交錯して、謎が溶けていく。
変態小説だけど、美しい恋愛小説である『みずうみ』の謎も溶けていく。