私見感の第四回公演だ。今回は「実践」公演と銘打たれる。これはようやく本番だ、と思わせるネーミングだ。だから、これだけは見逃せないと思った。「実験」「仮定」「試行」と続いて、ようやく、今回は「実践」である。先の2作品の(1作目は未見)その先には何があるのか、彼らの本気を見せてもらう。
正直言って、やられた、と思う。前作を見た時、惜しいな、と思った。スタイリッシュで、確かにおしゃれな作品だけど、これでは中身がない、と思った。でも、それは敢えてそういう空疎さを狙っているのではないか、とも思った。かなり微妙なところだ。ウイングカップの審査会の時にも、その辺が争点になったのだが、僕は彼らのスタイルがただの「見せ方」だけの問題ではなく、もっと確固とした意思にようにも見えた。
繰り返しが、力を持ちえない。ただのスタイルでしかない。そうは思えなかった。では、それによって何をどう伝えようとするのか。あの作品は、そこが弱いことも事実だ。ウイングカップで最優秀賞を獲った後、この作品で何をしてくれたのか、そこが今回の楽しみだった。期待通り彼らは実によくやってくれた。
より過激にスタイリッシュに作劇する。今回はなんと客席と舞台との境目なんかない。役者は客席で、通路で、演じる。時には客にもなる。観客の何人かは、サクラでビデオやスマホで映像を記録している。今回は最初に「ぜひ、この芝居を映像として記録してください」という案内が流れる。映画館で始まる前に流れる「映画泥棒」のコマーシャルのパロディで、ぜひ芝居を撮影して欲しいと訴える。もちろん、それは冗談ではなく、そこが芝居自身とちゃんと連動するようになっている。実にうまい仕掛けだ。
男は「戦争の映画」を撮っていた。ドキュメンタリー映画だ。その取材で千羽鶴を折る女性に取材する。芝居が始まる前から彼女は客席で千羽鶴を折っていた。ちょうど、たまたまだが、僕の席の横に彼女がいた。僕が席に着く前から、へんな客のように彼女はそこにいたので、おかしいな、と思っていたがやはり役者だった。(芝居が始まっても鶴を折っているのですからね)
今ある日常の風景としてのコンビニが描かれる。かつての出来事としての戦争をテーマにして映画を作る戦争を知らない若者。ここに提示されていく幾つものイメージは、戦争と平和というテーマへと収斂されていくように見えるけど、実はそうではない。
ここに描かれるのは、イメージとしての戦争だ。戦後を語る千羽鶴の女にカメラを向けながら、その若い映画監督は、何も見ていない。「千語」の台詞で「戦後」を語るなんていうふざけた言葉遊びが横溢する。無意味とも思える繰り返しと言葉遊びは、私見感の芝居の特徴だ。それが、今回は最初から無力なものに見えるように作られている。自分たちのスタイルが機能しないような世界を体現する。確信犯的行為である。無力であることの意味を描くようにみえる。その空疎さが作品の目指すところだ。前作で感じた部分を見事に再現し、その先をこの作品は描こうとする。
映画『出口のない海』や『永遠の0(ゼロ)』を下敷きにしたエピソードは、あまりに安易で底の浅さを呈する。しかし、果たしてそうか。僕たちの知る戦争なんてそんなものだ。体験していないのだから、わかる術はない。映画による疑似体験なんか意味を為さない。しかし、それでも若い映画監督はカメラを向ける。この作品はそこにその存在意義を見出す。わからないことから目を逸らすな。ちゃんとみつめるべきだ。たとえ、それは浅はかな行為であろうとも。回天や零戦を通してステレオタイプの戦争を描き、その先を見つめる。コンビニで「ホープ」や「ピース」を売る若い店員たち。彼らを糾弾するのではない。ここに至って、作、演出の緑川岳良さんのスタイルがようやくはっきり見えてきた気がした。
正直言って、やられた、と思う。前作を見た時、惜しいな、と思った。スタイリッシュで、確かにおしゃれな作品だけど、これでは中身がない、と思った。でも、それは敢えてそういう空疎さを狙っているのではないか、とも思った。かなり微妙なところだ。ウイングカップの審査会の時にも、その辺が争点になったのだが、僕は彼らのスタイルがただの「見せ方」だけの問題ではなく、もっと確固とした意思にようにも見えた。
繰り返しが、力を持ちえない。ただのスタイルでしかない。そうは思えなかった。では、それによって何をどう伝えようとするのか。あの作品は、そこが弱いことも事実だ。ウイングカップで最優秀賞を獲った後、この作品で何をしてくれたのか、そこが今回の楽しみだった。期待通り彼らは実によくやってくれた。
より過激にスタイリッシュに作劇する。今回はなんと客席と舞台との境目なんかない。役者は客席で、通路で、演じる。時には客にもなる。観客の何人かは、サクラでビデオやスマホで映像を記録している。今回は最初に「ぜひ、この芝居を映像として記録してください」という案内が流れる。映画館で始まる前に流れる「映画泥棒」のコマーシャルのパロディで、ぜひ芝居を撮影して欲しいと訴える。もちろん、それは冗談ではなく、そこが芝居自身とちゃんと連動するようになっている。実にうまい仕掛けだ。
男は「戦争の映画」を撮っていた。ドキュメンタリー映画だ。その取材で千羽鶴を折る女性に取材する。芝居が始まる前から彼女は客席で千羽鶴を折っていた。ちょうど、たまたまだが、僕の席の横に彼女がいた。僕が席に着く前から、へんな客のように彼女はそこにいたので、おかしいな、と思っていたがやはり役者だった。(芝居が始まっても鶴を折っているのですからね)
今ある日常の風景としてのコンビニが描かれる。かつての出来事としての戦争をテーマにして映画を作る戦争を知らない若者。ここに提示されていく幾つものイメージは、戦争と平和というテーマへと収斂されていくように見えるけど、実はそうではない。
ここに描かれるのは、イメージとしての戦争だ。戦後を語る千羽鶴の女にカメラを向けながら、その若い映画監督は、何も見ていない。「千語」の台詞で「戦後」を語るなんていうふざけた言葉遊びが横溢する。無意味とも思える繰り返しと言葉遊びは、私見感の芝居の特徴だ。それが、今回は最初から無力なものに見えるように作られている。自分たちのスタイルが機能しないような世界を体現する。確信犯的行為である。無力であることの意味を描くようにみえる。その空疎さが作品の目指すところだ。前作で感じた部分を見事に再現し、その先をこの作品は描こうとする。
映画『出口のない海』や『永遠の0(ゼロ)』を下敷きにしたエピソードは、あまりに安易で底の浅さを呈する。しかし、果たしてそうか。僕たちの知る戦争なんてそんなものだ。体験していないのだから、わかる術はない。映画による疑似体験なんか意味を為さない。しかし、それでも若い映画監督はカメラを向ける。この作品はそこにその存在意義を見出す。わからないことから目を逸らすな。ちゃんとみつめるべきだ。たとえ、それは浅はかな行為であろうとも。回天や零戦を通してステレオタイプの戦争を描き、その先を見つめる。コンビニで「ホープ」や「ピース」を売る若い店員たち。彼らを糾弾するのではない。ここに至って、作、演出の緑川岳良さんのスタイルがようやくはっきり見えてきた気がした。