この映画の凄さは、十代後半という特権的な時間の中で、その幸福を自らの手で失ってしまう少女の再生の物語として、タイムワープという仕掛けを持ってきたことにある。こんなややこしい手続きを取らなくても、男の子二人と女の子による三角関係のラブストーリーなんて、いくらでも作れる。しかし、あえてこの愛しい時間を見せるためにはこういう設定が必要だったのである。
本当に見せたかったのは、放課後3人がキャッチボールをするという毎日繰り返されるなんでもない日常のスケッチだけであり、そこにある幸福に気付きもしなかった少女の悔恨を描くことにある。
いつか人は死んでしまうという当然のことを考えもしないで、人は毎日を生きている。16歳の少女なら尚更の事だ。映画はそんな少女が自分の死を体験するところから始まる。けれども、本当に死んでしまったりはしない。死んでしまうと映画は終わってしまう。臨死体験を通して、その瞬間から彼女は時をかけることになる。そして、彼女が一番身近にいて誰よりも大切な人を失ってしまうまでの物語が描かれる。
現実の世界では、時は繰り返したりはしない。いまこの瞬間も一瞬の後には過去のものになってしまう。だからこそ、この時間を大切にしなくてはいけないのだ。そんな当たり前の事を細田守監督は、本気で映画として見せようとする。その純粋さがとても眩しい。
本当に見せたかったのは、放課後3人がキャッチボールをするという毎日繰り返されるなんでもない日常のスケッチだけであり、そこにある幸福に気付きもしなかった少女の悔恨を描くことにある。
いつか人は死んでしまうという当然のことを考えもしないで、人は毎日を生きている。16歳の少女なら尚更の事だ。映画はそんな少女が自分の死を体験するところから始まる。けれども、本当に死んでしまったりはしない。死んでしまうと映画は終わってしまう。臨死体験を通して、その瞬間から彼女は時をかけることになる。そして、彼女が一番身近にいて誰よりも大切な人を失ってしまうまでの物語が描かれる。
現実の世界では、時は繰り返したりはしない。いまこの瞬間も一瞬の後には過去のものになってしまう。だからこそ、この時間を大切にしなくてはいけないのだ。そんな当たり前の事を細田守監督は、本気で映画として見せようとする。その純粋さがとても眩しい。