なぜ、今こういう映画が作られるのであろうか。単純に泣ける映画を観客に提示するのが目的なのか。『世界の中心で愛を叫ぶ』の大ヒット以降、散々泣けるラブストーリーが量産されヒットしてきた。そして、次はプラトニックな恋愛を更に突き詰めて兄と妹の純愛ものが観客のニーズに合うとでも思ったのか。
血のつながりのない兄と妹の話なので、恋愛の方向にもストーリーを持って行くことができたのだが、この映画は全くそういう方向には興味を抱かず、ひたすらお互いに相手の事を純粋にいたわり、相手の幸せを願うことのみに終始していく姿を描く。ある意味であまりに単純でクラシカルな映画だと思う。しかし、そういう慎ましさを描くことで時代の気分をすくい取ろうとしているのか。映画を見ているうちに疑問ばかりが頭に浮かんでくる。それくらいにこの企画には謎が多いのだ。
土井裕泰監督は、劇場デビュー作『いま、会いにゆきます』で死んでしまった妻が夫と息子のところに帰ってくるというファンタジーを見せてくれたが、今改めて考えてみると、あの映画は安易にブームに乗ったものではなく、家族のあり方についてのひとつの提案として理解することも出来る。土井監督の中には、ひっそりと慎ましく自分達の宇宙の中で自閉していく家族というイメージがあったのかもしれない。それを前作はファンタジーとして見せ、今回はリアリズムの文体の中で徹底的に他者を排除した自分達だけの家族の物語として見せようとする。
しかし、後半その世界は壊れていく。大学進学を期に、妹は一人暮らしを始める。とても健全な成長と自立を描いた後、映画はクライマックスに突入していくことになる。
この映画は、リアリズムの衣装をまとったもうひとつのファンタジーなのかもしれない。失われてしまった美しい愛を現代によみがえらせることで、もう一度今を生きる我々のあり方を見つめなおそうとする試みなのだろうか。こんなふうに考えると、この二作品が共通する多くのイメージを有していることに気付く。
今、こういう映画が作られることは興味深い。もしこれがヒットしたならば、観客はこの映画の何を支持したのか、とても知りたい。今僕たちが家族のあり方に関して何を求めているのかを考えるひとつの大きなきっかけになり得る。
血のつながりのない兄と妹の話なので、恋愛の方向にもストーリーを持って行くことができたのだが、この映画は全くそういう方向には興味を抱かず、ひたすらお互いに相手の事を純粋にいたわり、相手の幸せを願うことのみに終始していく姿を描く。ある意味であまりに単純でクラシカルな映画だと思う。しかし、そういう慎ましさを描くことで時代の気分をすくい取ろうとしているのか。映画を見ているうちに疑問ばかりが頭に浮かんでくる。それくらいにこの企画には謎が多いのだ。
土井裕泰監督は、劇場デビュー作『いま、会いにゆきます』で死んでしまった妻が夫と息子のところに帰ってくるというファンタジーを見せてくれたが、今改めて考えてみると、あの映画は安易にブームに乗ったものではなく、家族のあり方についてのひとつの提案として理解することも出来る。土井監督の中には、ひっそりと慎ましく自分達の宇宙の中で自閉していく家族というイメージがあったのかもしれない。それを前作はファンタジーとして見せ、今回はリアリズムの文体の中で徹底的に他者を排除した自分達だけの家族の物語として見せようとする。
しかし、後半その世界は壊れていく。大学進学を期に、妹は一人暮らしを始める。とても健全な成長と自立を描いた後、映画はクライマックスに突入していくことになる。
この映画は、リアリズムの衣装をまとったもうひとつのファンタジーなのかもしれない。失われてしまった美しい愛を現代によみがえらせることで、もう一度今を生きる我々のあり方を見つめなおそうとする試みなのだろうか。こんなふうに考えると、この二作品が共通する多くのイメージを有していることに気付く。
今、こういう映画が作られることは興味深い。もしこれがヒットしたならば、観客はこの映画の何を支持したのか、とても知りたい。今僕たちが家族のあり方に関して何を求めているのかを考えるひとつの大きなきっかけになり得る。