『花のあと』の中西健二監督のデビュー作である。昨年劇場公開された時は暗そうなので見なかったのだが、あの傑作『花のあと』を見てしまった以上遡ってこれを見ないわけにはいかないと思った。予想通りの映画だった。
ただ、ここではまだ『花のあと』のような明確な形を成し得てはいない。中西監督らしさは、ほんの片鱗を感じさせる程度だ。
しっかり主人公を見据えて、そこから目を逸らさないのは彼らしい。主人公が無口で(吃音という設定だから当然なのかもしれないが)偏屈。自分の強い意志を曲げることはない。その結果子どもたちを傷つけることも厭わない。もちろんわざと傷つけるような行為をして挑発するわけではない。彼らが自分たちがしたことの善悪をたyんと理解するため、事実と向き合わせるためだ。くだらない反省文を書かせてそれで手打ちにするような方法は認めない。彼のまっすぐな姿勢は『花のあと』の北川景子と同じだ。
阿部寛の臨時教師は子どもたちをしっかり見据えて、この教室から彼らが追い出した少年を追いつめたものを見つめていこうとする。全く揺らぐことはない。それは自分に自信があるからではない。正しいと思ったからとことん突き詰めていこうとする。それだけのことなのだ。
でも、それがどれほどの困難を伴う行為であるかは考えるまでもない。もちろん彼が絶対的に正しいというわけではない。頑固すぎて周りが迷惑する。でも、彼は自分を曲げない。中西監督の姿勢は見事なまでに一貫している。そういう意味でも彼が作ったこの2本の映画はまるで双子のように見える。
極端にクローズアップが多いことも、主人公が一途なことも、視野の狭さも、ことごとく同じだ。ここまで自分印をしっかりと刻印できる映画監督って珍しい。
ただ、ここではまだ『花のあと』のような明確な形を成し得てはいない。中西監督らしさは、ほんの片鱗を感じさせる程度だ。
しっかり主人公を見据えて、そこから目を逸らさないのは彼らしい。主人公が無口で(吃音という設定だから当然なのかもしれないが)偏屈。自分の強い意志を曲げることはない。その結果子どもたちを傷つけることも厭わない。もちろんわざと傷つけるような行為をして挑発するわけではない。彼らが自分たちがしたことの善悪をたyんと理解するため、事実と向き合わせるためだ。くだらない反省文を書かせてそれで手打ちにするような方法は認めない。彼のまっすぐな姿勢は『花のあと』の北川景子と同じだ。
阿部寛の臨時教師は子どもたちをしっかり見据えて、この教室から彼らが追い出した少年を追いつめたものを見つめていこうとする。全く揺らぐことはない。それは自分に自信があるからではない。正しいと思ったからとことん突き詰めていこうとする。それだけのことなのだ。
でも、それがどれほどの困難を伴う行為であるかは考えるまでもない。もちろん彼が絶対的に正しいというわけではない。頑固すぎて周りが迷惑する。でも、彼は自分を曲げない。中西監督の姿勢は見事なまでに一貫している。そういう意味でも彼が作ったこの2本の映画はまるで双子のように見える。
極端にクローズアップが多いことも、主人公が一途なことも、視野の狭さも、ことごとく同じだ。ここまで自分印をしっかりと刻印できる映画監督って珍しい。