横山拓也さんと組んだ『えだにく』以降、上田一軒さんの演出は変わったのではないか。今回、久々にスクエアを見て、そんなことを思った。以前のような無理がなくなった気がしたのだ。自分たちの作っているものはコメディだから、というくくりなんかもう気にしない。作りたいものを作るだけ。それをコメディと呼ぶのなら自由にどうぞ、って感じだ。彼は『えだにく』のとき、その不思議な空間(でもそれは彼らにとってはただの日常の空間だ)をとても自然に見せた。あの感じが今回もある。
自分たちのスタイルを頑なに守ってその中で様々な挑戦をする、そんなバランスのいい芝居を作り、だんだんメジャーな集団になってしまったスクエアだが、メンバーが8人になって、制約とか縛りからも自由になって、なんだかとてものびのび芝居と取り組んでいる気がする。見ていて以前よりも楽しい。
だが、それは単純でわかりやすい芝居である、ということを意味するわけではない。それどころか、今回の作品が提示する問題は重い。答えだって出ないまま観客を置き去りにする。見終えたときには、いろんなことを考えさせられて、帰宅する足取りは重くなるほどだ。でも、それは嫌な気分だ、とかいうのではない。それどころか、心地よい。これは笑って終わりというただのコメディではないからだ。でも芝居自体は重くはならない。
胡散臭い宗教団体の話なのか、と思わせておいて、実はそうではない。愛想のいい笑顔で手を差し伸べるから、なんだかそこには裏があるのではないか、と勘ぐってしまう。だが、そうではない。彼らはただ善意の人たちなのだ。それでもなんか信じきれない。そんなところから始まる。
自殺しようとしていた男がたまたまやって来た友人や、なぜかやってくる隣人に説得され、自己破産して、再出発を図り、ここに来るまでのプロローグは、男の狭い部屋の中で見せる。シチュエーションコメディの段取り。そこからパネルを外すと広いセット(階段があって3階まで上がれる)が現れるのは圧巻だ。(美術は柴田隆弘)ここから本題に入る。その見せ方はとてもわかりやすく単純。
でもお話は単純ではない。
ここで描かれる共同体は宗教と紙一重だ。社会から疎外されて、行き場をなくした人たちが、一緒に助け合い、農業を通して生きていく希望を見出していく。疑似家族となり、社会から隔世し、自然の中、自給自足で暮らす。だが、だんだん集団を維持していくことに破綻が生じてくる。それはこの主人公が素直な疑問を提示したことによる。
誰もがここは「何か」おかしいと気づいてはいた。でも、気付かないふりをして、やり過ごしてきた。もっと自然にここで暮らせたらいい。無理せずに、でも、わがままを言うのではなく。そんなバランス感覚が必要だったことに気付く。怪しげな宗教団体ではなく、純粋に生きるための選択だった。だが、それがいつの間にか、へんな宗教になることもある。
お父さん、お母さんと呼んで、家族ごっこを受け入れていた。だが、そんな甘えに寄り添うだけでは生きていけないことに、気付く。では、どうするのか。その答えは今はまだない。これからなのだ。そんなに簡単に答えが出るのなら誰も悩まない。ゆっくり考えればいい。ここには時間がある。
この世界はどこか歪で何かがおかしい。だから疎外される弱者は生きづらい。でも、やり方を考えて、少しずつ自分たちのやり方を浸透させていけば、生き残ることは可能だ。そのための第一歩が描かれる。
自分たちのスタイルを頑なに守ってその中で様々な挑戦をする、そんなバランスのいい芝居を作り、だんだんメジャーな集団になってしまったスクエアだが、メンバーが8人になって、制約とか縛りからも自由になって、なんだかとてものびのび芝居と取り組んでいる気がする。見ていて以前よりも楽しい。
だが、それは単純でわかりやすい芝居である、ということを意味するわけではない。それどころか、今回の作品が提示する問題は重い。答えだって出ないまま観客を置き去りにする。見終えたときには、いろんなことを考えさせられて、帰宅する足取りは重くなるほどだ。でも、それは嫌な気分だ、とかいうのではない。それどころか、心地よい。これは笑って終わりというただのコメディではないからだ。でも芝居自体は重くはならない。
胡散臭い宗教団体の話なのか、と思わせておいて、実はそうではない。愛想のいい笑顔で手を差し伸べるから、なんだかそこには裏があるのではないか、と勘ぐってしまう。だが、そうではない。彼らはただ善意の人たちなのだ。それでもなんか信じきれない。そんなところから始まる。
自殺しようとしていた男がたまたまやって来た友人や、なぜかやってくる隣人に説得され、自己破産して、再出発を図り、ここに来るまでのプロローグは、男の狭い部屋の中で見せる。シチュエーションコメディの段取り。そこからパネルを外すと広いセット(階段があって3階まで上がれる)が現れるのは圧巻だ。(美術は柴田隆弘)ここから本題に入る。その見せ方はとてもわかりやすく単純。
でもお話は単純ではない。
ここで描かれる共同体は宗教と紙一重だ。社会から疎外されて、行き場をなくした人たちが、一緒に助け合い、農業を通して生きていく希望を見出していく。疑似家族となり、社会から隔世し、自然の中、自給自足で暮らす。だが、だんだん集団を維持していくことに破綻が生じてくる。それはこの主人公が素直な疑問を提示したことによる。
誰もがここは「何か」おかしいと気づいてはいた。でも、気付かないふりをして、やり過ごしてきた。もっと自然にここで暮らせたらいい。無理せずに、でも、わがままを言うのではなく。そんなバランス感覚が必要だったことに気付く。怪しげな宗教団体ではなく、純粋に生きるための選択だった。だが、それがいつの間にか、へんな宗教になることもある。
お父さん、お母さんと呼んで、家族ごっこを受け入れていた。だが、そんな甘えに寄り添うだけでは生きていけないことに、気付く。では、どうするのか。その答えは今はまだない。これからなのだ。そんなに簡単に答えが出るのなら誰も悩まない。ゆっくり考えればいい。ここには時間がある。
この世界はどこか歪で何かがおかしい。だから疎外される弱者は生きづらい。でも、やり方を考えて、少しずつ自分たちのやり方を浸透させていけば、生き残ることは可能だ。そのための第一歩が描かれる。