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映画・演劇のレビュー

ショウダウン『リストリアの魔導書』

2013-05-19 23:11:49 | 演劇
 林遊眠とナツメクニオの到達点『ウインドミルバレー 最後の3日間』の上演から、まだ5カ月ほどしか経っていないのに、こんなにも短いインターバルで3部作の完結編となる本作が上演される。しかも、『ウインドミルバレー 最後の3日間』の再演と2本立公演だ。前回あの傑作を見逃した人にとってはこれは僥報ではなかろうか。この2本を連続で見ることが出来るのである。だが、林遊民にとってはとんでもない試練となる。だが、そんなこと覚悟の上での挑戦だったはずだ。

 僕は今回は新作であるこの作品の1回目の上演を見た。さすがに土曜日の朝11時からの公演で、彼女の本来の持ち味を出し切ることは難しかったようだ。だが、この無謀な挑戦を目撃出来てよかった。ドキドキしながら舞台を見た。林遊眠と同じように僕たち観客も緊張してステージを見守る。安定感のない舞台になった。一人芝居は本当にコンディションの調整が難しい。始まってしまったら、もう止まらない。しかも、すべてを自分の力でセーブしなくてはならない。誰も助けてはくれない。この物語の主人公と一緒で、彼女がヒダリアを演じるだけでなく、ヒダリアは彼女となる。そんな一体感が舞台で表現できたならよかった。前作はそれを可能とした。

 だが、今回は林遊眠の問題ではなく、台本の構成も含めて、そこには至らない。作品自体も3部作の完結編というよりも、スピンオフといった感じで、スケールの大きな前作とは違って小さくまとまっている、という印象だ。これは伝説の始まりであり、おとぎ話なのだ、というスタンス。それはそれで悪くはない。しかし、語り手と主人公たちとの視点がまじりあってしまって、混乱しているのは問題だ。ヒダリアの視点だけからシンプルに見せてもよかったのではないか。せめて全体の統一感が欲しい。

 リストリアの魔導署の秘密を巡るお話は、ヒダリアという少女の成長物語として、小さく、でもきちんと完結していくべきだったのだが、先にも書いた視点のぶれから、作品全体をぼんやりしたものにしてしまった。スケールの大きな話なのだが、それを敢えて小さくまとめるべきだった。おとぎ話というパッケージングから、そういうアプローチがなされたはずなのに、構成の曖昧さとも相俟って作品自体も中途半端なものとなった。ヒダリアの目からすべてが描かれたほうが林遊眠も演じやすかったはずだし、僕たち観客も感情移入しやすかった。それより何より作品の方向性がそうすることで明確になったはずなのだ。前作の成功があったからあの路線のまま作ったのだろうが、今回はアプローチを変えもっとシンプルなものにするべきだったのではないか。惜しい。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2013-05-20 03:28:22
林遊民さんではなく、林遊眠さんでは…。
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