「たんじょうかい」というタイトルは「短(編)上(演)会」を縮めたものだと、アクタートークで筒井さんが言っていたけど、誰もそんなことに気付くわけがない。誰もが「誕生会」だと思い込んでいるはず。大体そんな誤解を招くことを見越してこのいたずらなタイトルをつけたはずだ。じゃぁ、その誤解から何を見せようと企んだのか、と考えてしまうけど、きっと何も考えてない。
そんなあっけらかんとしたところが、ドラカンの魅力なのだ。意味なんかいらないし、もし、必要なら、後からついてくる、というスタンス。今回の3本、3人の劇作家というのも、全く意図的ではない。たぶん。でも、結果的にはとても刺激的な選択だった。それもまた、きっと予定通りなのだろう。
最初のサリng作品(『スカートにバター』)をとてもオーソドックスに演出する筒井さんの真面目さに驚く。冒険せず手堅く見せる。とても丁寧にじっくりとこの夫婦の姿を描く。テンポのなさは意図的だ。2人の間に出来た距離感がなんとも切ない。
続く中村賢司作品『床の新聞』は、この作品の持つ怖さをほんの少し薄める。筒井さんらしい。4人がそれぞれ目と目を合わさないという演出は彼らの心情を伝えるよりも、この作品のルールのようになっていて、描かれる内容が幾分軽く伝わる。そのへんが筒井さんらしい。役者たちが静止したままの状態になる部分も同じだ。
3本目の深津篤史作品(『コイナカデアル。』)は、なんだか筒井さんのオリジナルではないか、と思わせるくらいに、ストーリーに脈絡がなく、よくわからない。でも、とてもへんでおもしろい。深津さんは筒井さんのために書き下ろしたのではないか、と思うくらいだ。これを見ていると、ドラカンらしくて、なんだかほっとする。先の2本はとてもよく出来ているのに居心地が悪い。それに対してこれは破天荒なのに、とてものびのびしている。そんな気がした。
いずれにしても真面目な筒井さんは今回とても気を使って繊細なタッチで3本の他者による台本を舞台化する。全く傾向の違うものに見えて、いずれも家族とその関係性というものをテーマにするから連作にも見えてくる。お誕生会というイニシエーション、祝祭的空間をこれらのドラマに重ねることもできる。2時間という上演時間は少し長いけど、わざと時間を引き延ばして見せているから仕方ない。筒井さんの今回の意図は、そんなゆるやかな時間のなかでこそ、実現されるタイプのものなのだ。お話が大切なのではなく、日常のなかにあるほんの少しの心のすれ違い、距離、それを3つの作品の中で見せてくれた。
そんなあっけらかんとしたところが、ドラカンの魅力なのだ。意味なんかいらないし、もし、必要なら、後からついてくる、というスタンス。今回の3本、3人の劇作家というのも、全く意図的ではない。たぶん。でも、結果的にはとても刺激的な選択だった。それもまた、きっと予定通りなのだろう。
最初のサリng作品(『スカートにバター』)をとてもオーソドックスに演出する筒井さんの真面目さに驚く。冒険せず手堅く見せる。とても丁寧にじっくりとこの夫婦の姿を描く。テンポのなさは意図的だ。2人の間に出来た距離感がなんとも切ない。
続く中村賢司作品『床の新聞』は、この作品の持つ怖さをほんの少し薄める。筒井さんらしい。4人がそれぞれ目と目を合わさないという演出は彼らの心情を伝えるよりも、この作品のルールのようになっていて、描かれる内容が幾分軽く伝わる。そのへんが筒井さんらしい。役者たちが静止したままの状態になる部分も同じだ。
3本目の深津篤史作品(『コイナカデアル。』)は、なんだか筒井さんのオリジナルではないか、と思わせるくらいに、ストーリーに脈絡がなく、よくわからない。でも、とてもへんでおもしろい。深津さんは筒井さんのために書き下ろしたのではないか、と思うくらいだ。これを見ていると、ドラカンらしくて、なんだかほっとする。先の2本はとてもよく出来ているのに居心地が悪い。それに対してこれは破天荒なのに、とてものびのびしている。そんな気がした。
いずれにしても真面目な筒井さんは今回とても気を使って繊細なタッチで3本の他者による台本を舞台化する。全く傾向の違うものに見えて、いずれも家族とその関係性というものをテーマにするから連作にも見えてくる。お誕生会というイニシエーション、祝祭的空間をこれらのドラマに重ねることもできる。2時間という上演時間は少し長いけど、わざと時間を引き延ばして見せているから仕方ない。筒井さんの今回の意図は、そんなゆるやかな時間のなかでこそ、実現されるタイプのものなのだ。お話が大切なのではなく、日常のなかにあるほんの少しの心のすれ違い、距離、それを3つの作品の中で見せてくれた。