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湯本香樹実の久々の新作だ。今回はなんとファンタジーである。とはいえほのぼのした小説ではない。とても切なく厳しい。
3年前に行方不明になったまま、消息の知れない夫が帰ってくる。彼は海で死んでしまったらしい。死んでしまった彼が離れ離れになっていたこの3年間の時間を辿る旅に彼女を連れて行く。
なぜ彼が死んでしまったのか、をたどるのではない。ただ、そこから、彼が今の生活を捨てて何を求めたのか、が微かに知ることとなる。彼女を棄てて、人生を棄てて、何処に行こうとしたのか。彼女が知らない彼が明らかになる。それは彼女は彼の消息を求めて彼が残したものを通して彼の知らなかった側面を知ることで見えてきたものである。リアルに考えるとそういうこととなるが、小説は死者となった彼が彼女を連れて旅で出会った人たちとの日々を遡ることで、見える彼の知らざる側面にポイントを置く。
新聞屋のオヤジを手伝いながら新聞配達として過ごした時間や、中華料理屋で餃子をまいていた時間や、農業をしながら近隣の子どもたちの先生をしていたこと。彼が本来の自分を偽り、かりそめの時間を送る日々をもう一度2人で追体験していく。こういう生き方も確かのあり得たのかもしれない、と思う。歯科医師として、静かに暮らした本当の日々の方が、もしかしたら偽りの日々でしかなかったとしたら、自分たちの人生の方が幻なのかもしれない。
愛しあっていた、と確信を持って言える、と信じた。だが、彼は職場の看護婦と関係を持っていたし、誘われるまま他の女とも、付き合っていたようだ。それは確かな背信行為である。だが、それが自分を愛してないという証拠にはならない。彼の何を知っていたというのか。本当は何も知らなかったのかもしれない。だから、行方不明になってからの日々をもう一度今度は2人で辿ることで、彼らは本当の愛を確かめることとなる。
彼は彼女を愛した。だから、こうして死んでからも還って来て、一緒の時間を過ごそうとする。「なにものも分かつことのできない愛がある。時も、死さえも。」という帯のコピーは意味深だ。こういう形の愛ってどう理解すればいいのだろうか。彼女の独り善がりの幻想として、処理してもおかしくはない。だいたい死者が帰ってきたりはしない。だが、タダの幻想小説として読むのはこの作品の意図に反する。この幻は確かな現実なのだ。彼の想いは生死を越えて彼女の魂に届く。この旅はただの幻想ではない。
人と人との結びつきはなんとも儚い幻のようなものだ。何を拠り所にすればよいかも心許ない。愛されている、なんて幻想でしかない。愛していることですら、信じ切れるものではないのだから。自分の心すらわからない人が他人の心を理解することは不可能だ。だが、人は信ずる、と言う。幻を信じておめでたい人生を生きろ。厭世的にしか物事を考えられない人間にはわからないだろう。愛ってのはただの幻想でしかない。だが、人はその幻想に縋りつく。寂しいから、と言いきってしまうとちょっとなんだかなぁ、とも思うが、まぁ、そんなものだろう。
3年前に行方不明になったまま、消息の知れない夫が帰ってくる。彼は海で死んでしまったらしい。死んでしまった彼が離れ離れになっていたこの3年間の時間を辿る旅に彼女を連れて行く。
なぜ彼が死んでしまったのか、をたどるのではない。ただ、そこから、彼が今の生活を捨てて何を求めたのか、が微かに知ることとなる。彼女を棄てて、人生を棄てて、何処に行こうとしたのか。彼女が知らない彼が明らかになる。それは彼女は彼の消息を求めて彼が残したものを通して彼の知らなかった側面を知ることで見えてきたものである。リアルに考えるとそういうこととなるが、小説は死者となった彼が彼女を連れて旅で出会った人たちとの日々を遡ることで、見える彼の知らざる側面にポイントを置く。
新聞屋のオヤジを手伝いながら新聞配達として過ごした時間や、中華料理屋で餃子をまいていた時間や、農業をしながら近隣の子どもたちの先生をしていたこと。彼が本来の自分を偽り、かりそめの時間を送る日々をもう一度2人で追体験していく。こういう生き方も確かのあり得たのかもしれない、と思う。歯科医師として、静かに暮らした本当の日々の方が、もしかしたら偽りの日々でしかなかったとしたら、自分たちの人生の方が幻なのかもしれない。
愛しあっていた、と確信を持って言える、と信じた。だが、彼は職場の看護婦と関係を持っていたし、誘われるまま他の女とも、付き合っていたようだ。それは確かな背信行為である。だが、それが自分を愛してないという証拠にはならない。彼の何を知っていたというのか。本当は何も知らなかったのかもしれない。だから、行方不明になってからの日々をもう一度今度は2人で辿ることで、彼らは本当の愛を確かめることとなる。
彼は彼女を愛した。だから、こうして死んでからも還って来て、一緒の時間を過ごそうとする。「なにものも分かつことのできない愛がある。時も、死さえも。」という帯のコピーは意味深だ。こういう形の愛ってどう理解すればいいのだろうか。彼女の独り善がりの幻想として、処理してもおかしくはない。だいたい死者が帰ってきたりはしない。だが、タダの幻想小説として読むのはこの作品の意図に反する。この幻は確かな現実なのだ。彼の想いは生死を越えて彼女の魂に届く。この旅はただの幻想ではない。
人と人との結びつきはなんとも儚い幻のようなものだ。何を拠り所にすればよいかも心許ない。愛されている、なんて幻想でしかない。愛していることですら、信じ切れるものではないのだから。自分の心すらわからない人が他人の心を理解することは不可能だ。だが、人は信ずる、と言う。幻を信じておめでたい人生を生きろ。厭世的にしか物事を考えられない人間にはわからないだろう。愛ってのはただの幻想でしかない。だが、人はその幻想に縋りつく。寂しいから、と言いきってしまうとちょっとなんだかなぁ、とも思うが、まぁ、そんなものだろう。