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映画・演劇のレビュー

衆愚芝居『ブサイクの村』

2014-07-28 19:49:42 | 演劇
これは見たい、と思った。この題材(ブサイク)を、鈴木さんがどういうアプローチで見せてくれるのか、興味津々、劇場に向かう。

それにしても、実に大胆なタイトルだ。このタイトルとあのチラシに魅かれた。あの変顔のイラストの不気味さ。これはちょっと普通じゃないと思わせるインパクトがある。最初はこれが鈴木さんの作品であることに気付かす、手に取った。でも、少しして、「なんだ、鈴木さんじゃないか、」とわかる。ともにょ企画の鈴木友隆の作、演出である。もうその時点でこれがこの夏一番期待できる作品であることは疑う余地もない。

2時間の大作である。各所からたくさんの役者を集めてきてのプロデュース作品だ。

今回のハイライトは先にも書いたが、このタイトルだ。この設定をどう生かすか。その時の一番の問題点は、ブサイクをどう尽きつめるのかにある。哲学的なドラマなんかになればいい、と期待した。しかし、その期待は裏切られる。彼は、ブサイクの対極に美人を置く、という方法を採用した。いくらなんでもこれはちょっと安易すぎたのではないか。そのわかりやすさが作品の力となればいいのだが、そうはならない。美人とブサイクの間には大きな差はない。ちょっとした造作の違いでしかない。だが、そこには大きな溝があることも事実だ。お話はそういうところから始まる。はずだった。だが、そうはならない。

だが、問題点はそこだけではなく、今回の作品は、いつものともにょでの鈴木作品とはいささか趣が異なるところにある。というか、「いささか」ではなく、かなり違う。まず、このわかりやすさ。図式的で、ドラマに奥行きがない。どうして、こんなふうになったのだろうか。「ブサイク村」対「美人村」の戦い。そこに用心棒が雇われる。なんだかこれでは『七人の侍』ではないか。というか、わざと、こうしたのか? プロデュース公演のパターンによくあるケースだ。メンバーはいろいろなところからの寄せ集めだから、なかなか意思統一がとれない。その結果、妥協せざる得なくなる。そういうことなのか。

「ブサイク」という概念を根底から覆すだけの「何か」をここに期待した。単純にブサイクばかりがいる村ではなく、まぁ、最初はそこから出発して、それが思いもしない次元へと変換していく様を期待したのだ。なのに、そうはならない。ここには美人なんていらない。ブサイクをどんどん突き詰めていけばどこに行きつくのか。それが、見たかったのは、僕のわがままか。『七人の侍』ではなく、『地獄の黙示録』が見たかった。

 いつものシュールか作風は影を潜めて、単純な図式を踏む。美人であることが、ブサイクであることに勝る。そんな当たり前の話を聞きたいのではない。

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