太陽族の岩崎正裕さんによる『ぼちぼちいこか』の新作が上演される。そう聞くだけでワクワクさせられ、興奮は抑えられない。何度となく姿を変え上演されてきたこのシリーズの意義は、「この町」で生きる人々の哀歓を通して、僕たちがここからどこに向かって行こうとしているのかを確かめる、というところにある。これは自分たちの現状を確認する作業なのだ。だから、今回の芝居も、2010年という不安の時代に生きる今の自分たちの立ち位置を見定め、ここからどこに行こうとするのかを、示してくれる。
もちろんそんな大袈裟なものでなくてもいい。新世界、釜ヶ崎周辺で、慎ましく生きる人々の姿を通して、名もなく貧しく美しい人たちと出会う、ただそれだけでいい。オリジナルの『ぼちぼちいこか』は通天閣で上演された。その後、街頭劇として、大阪の町を彷徨いながら3カ所上演されたり、続編がウイングフィールドで上演されたりしてきた。今回、『外伝』として、新たなるエピソードが披露される。今、あの時の気分がどう変貌しているのかを芝居の中から確認する。
町はどんどん姿を変えていく。寂れた町であった「新世界」は今では観光地と化し、たくさんの外国人が訪れる名所となった。それは往時の賑わいを取り戻した、というわけではない。何かがいびつにゆがめられ、そのうら寂しい繁栄を支えている。この芝居の終盤で、若い2人が通天閣の上からこの町を見下ろすシーンが切ない。何かが変わってしまった。それは表面的にはいいことのように見える。だが、それは砂上の楼閣にすぎない。
この芝居はひとりの女の子、風香(山口晶子)が西成というワンダーランドに自ら入り込んで、そこを彷徨う姿を描くファンタジーだ。岩崎さんはこういう切り口でしか、今の『ぼちぼちいこか』を作れなかった。この町で生きる労働者たちの側から描くのではなく、外側から「姿の見えない彼ら」を描く。そういう形でしか、今、という時代は描けない。現実の事件を下敷きにして、そこをもうひとつの中心にする。ボランティアの女性が包丁で背中を刺されて、半身不随となる。犯人は捕まることなく時効を迎える。この事実を核には設定しない。
自分からここで迷子となり、ここで暮らす人たちの生活の中に入り込もうとした少女(と言っても、彼女はもう20歳を越えている大人なのだが)と、彼女を捜し求める父親、花井(工藤俊作)。主人公は彼らだ。そして、この外枠はファンタジーのはずなのに、いつまでたってもそこからイメージさせるような話は展開していかない。廃線となった軌道上で、夜中に焚き火をする父親と、彼の仲間の交わす会話。そこから話は外へと広がっていかないからだ。これではまるでディスカッション劇のようだ。
要するに、ここにはストーリー性のあるわかりやすいドラマはない。だから、観客は大いに戸惑うことになる。まるで堅牢な壁が立ちはだかって、その中に入ることを拒むようだ。立ち入り禁止のフェンスの中に入って、そこを拠点にして娘を捜す父親のドラマなのに、芝居はここから1歩も先に進むことが出来ない。これはただひたすら同じ場所で停滞したままのドラマだ。だから、ここにはカタルシスがない。興奮もない。ただもやもやするばかりだ。
ラストで娘は父親の元に戻ってくる。2人は抱き合うのだが、それがなぜか空々しい。これがハッピーエンドなんかではないことは岩崎さん自身が十二分に知っている。ここには夢も希望もない。「新世界」などと名付けられながら、いつのまにか、ここはふきだまりになった。そして今、再び活況を取り戻したこの町から、追い出されていく人々がいる。
未来には希望がある。閉塞した時代だからこそ、希望の歌は必要だ。岩崎さんはラストで声高にそれを叫ぶ。ここにはすべてわかった上で、それでもここで生きなければならないという覚悟が示される。西成暴動についても触れられる。バットマン鳴岡が幻のように立ち現れるシーンもある。だが、それらはこの芝居の中で、幻想として一瞬示されるだけで、このドラマを形作るものではない。阪神大震災と神戸の港湾労働者による争議を描いた『往くも還るも』とは全くタッチが違う。今回は現実とも幻想とも全くコミットしない作劇に終始する。このもどかしさが今の岩崎さんの気分なのだろう。彼らのことは何も書けないでいる岩崎さんの無念がとても正直に描かれている。この芝居は本来主人公であったはずの風香の物語でも、表面上の主人公である花井の物語でもない。ここには描かれないこの町で生きる労働者たちの物語なのだ。岩崎さんはそのことをしっかりと認識した上で、この物語を作ろうとしているから、核心にはまるで到達しない芝居となる。だが、このもどかしさこそが、この作品が本来描きたかったものである。訳知り顔で、上っ面だけの彼らの悲哀を描かれたって、納得のいくものにはならない。それならいっそ描かないという描き方もある。そういうことなのだ。だから、当然大槻の妻(佐々木淳子)を刺した男も登場することはない。
ラストで、少女の父親である花井が、娘が家出するきっかけになったトリヤマ(木村保)と向き合うシーンの緊張感のなさも凄い。安易な方向には絶対話を持っていかないのだ。どこに向けてこの怒りの拳を振り上げればいいのか、わからない。だから、握りしめたまま、行き場をなくしてしまう。自分たちが生きていくための方法が見えない。国家権力の横暴に怒りの矛先を向けられるのなら、まだわかりやすい。だが、この国も疲弊している。そんな時代の中で、我々はどこにむかって歩いていくのか。それすらわからない。だが、僕等はぼちぼち歩いていくしかないのだろう。
もちろんそんな大袈裟なものでなくてもいい。新世界、釜ヶ崎周辺で、慎ましく生きる人々の姿を通して、名もなく貧しく美しい人たちと出会う、ただそれだけでいい。オリジナルの『ぼちぼちいこか』は通天閣で上演された。その後、街頭劇として、大阪の町を彷徨いながら3カ所上演されたり、続編がウイングフィールドで上演されたりしてきた。今回、『外伝』として、新たなるエピソードが披露される。今、あの時の気分がどう変貌しているのかを芝居の中から確認する。
町はどんどん姿を変えていく。寂れた町であった「新世界」は今では観光地と化し、たくさんの外国人が訪れる名所となった。それは往時の賑わいを取り戻した、というわけではない。何かがいびつにゆがめられ、そのうら寂しい繁栄を支えている。この芝居の終盤で、若い2人が通天閣の上からこの町を見下ろすシーンが切ない。何かが変わってしまった。それは表面的にはいいことのように見える。だが、それは砂上の楼閣にすぎない。
この芝居はひとりの女の子、風香(山口晶子)が西成というワンダーランドに自ら入り込んで、そこを彷徨う姿を描くファンタジーだ。岩崎さんはこういう切り口でしか、今の『ぼちぼちいこか』を作れなかった。この町で生きる労働者たちの側から描くのではなく、外側から「姿の見えない彼ら」を描く。そういう形でしか、今、という時代は描けない。現実の事件を下敷きにして、そこをもうひとつの中心にする。ボランティアの女性が包丁で背中を刺されて、半身不随となる。犯人は捕まることなく時効を迎える。この事実を核には設定しない。
自分からここで迷子となり、ここで暮らす人たちの生活の中に入り込もうとした少女(と言っても、彼女はもう20歳を越えている大人なのだが)と、彼女を捜し求める父親、花井(工藤俊作)。主人公は彼らだ。そして、この外枠はファンタジーのはずなのに、いつまでたってもそこからイメージさせるような話は展開していかない。廃線となった軌道上で、夜中に焚き火をする父親と、彼の仲間の交わす会話。そこから話は外へと広がっていかないからだ。これではまるでディスカッション劇のようだ。
要するに、ここにはストーリー性のあるわかりやすいドラマはない。だから、観客は大いに戸惑うことになる。まるで堅牢な壁が立ちはだかって、その中に入ることを拒むようだ。立ち入り禁止のフェンスの中に入って、そこを拠点にして娘を捜す父親のドラマなのに、芝居はここから1歩も先に進むことが出来ない。これはただひたすら同じ場所で停滞したままのドラマだ。だから、ここにはカタルシスがない。興奮もない。ただもやもやするばかりだ。
ラストで娘は父親の元に戻ってくる。2人は抱き合うのだが、それがなぜか空々しい。これがハッピーエンドなんかではないことは岩崎さん自身が十二分に知っている。ここには夢も希望もない。「新世界」などと名付けられながら、いつのまにか、ここはふきだまりになった。そして今、再び活況を取り戻したこの町から、追い出されていく人々がいる。
未来には希望がある。閉塞した時代だからこそ、希望の歌は必要だ。岩崎さんはラストで声高にそれを叫ぶ。ここにはすべてわかった上で、それでもここで生きなければならないという覚悟が示される。西成暴動についても触れられる。バットマン鳴岡が幻のように立ち現れるシーンもある。だが、それらはこの芝居の中で、幻想として一瞬示されるだけで、このドラマを形作るものではない。阪神大震災と神戸の港湾労働者による争議を描いた『往くも還るも』とは全くタッチが違う。今回は現実とも幻想とも全くコミットしない作劇に終始する。このもどかしさが今の岩崎さんの気分なのだろう。彼らのことは何も書けないでいる岩崎さんの無念がとても正直に描かれている。この芝居は本来主人公であったはずの風香の物語でも、表面上の主人公である花井の物語でもない。ここには描かれないこの町で生きる労働者たちの物語なのだ。岩崎さんはそのことをしっかりと認識した上で、この物語を作ろうとしているから、核心にはまるで到達しない芝居となる。だが、このもどかしさこそが、この作品が本来描きたかったものである。訳知り顔で、上っ面だけの彼らの悲哀を描かれたって、納得のいくものにはならない。それならいっそ描かないという描き方もある。そういうことなのだ。だから、当然大槻の妻(佐々木淳子)を刺した男も登場することはない。
ラストで、少女の父親である花井が、娘が家出するきっかけになったトリヤマ(木村保)と向き合うシーンの緊張感のなさも凄い。安易な方向には絶対話を持っていかないのだ。どこに向けてこの怒りの拳を振り上げればいいのか、わからない。だから、握りしめたまま、行き場をなくしてしまう。自分たちが生きていくための方法が見えない。国家権力の横暴に怒りの矛先を向けられるのなら、まだわかりやすい。だが、この国も疲弊している。そんな時代の中で、我々はどこにむかって歩いていくのか。それすらわからない。だが、僕等はぼちぼち歩いていくしかないのだろう。