遊劇体のよる泉鏡花シリーズの第7作。今回は会場に国立文楽劇場を選んだ。公演会場は小ホールだが、こういうちゃんとした客席を持つ常設ホールでの上演はこのシリーズでは初めてだ。小劇場での公演から離れて、古典芸能の本場であるこの場所で、しかも、歌舞伎のスタイルに徹したオーソドックスな舞台作りである。(『多神教』のケースもあるが、あれは常設劇場とはちょっと違うと思う)
これは、今までの実験的な要素も含む大胆な演出とは違う。もちろん今までもキタモトさんは、擬古文の台本を原文そのままに改稿することなく忠実に見せてきた。だが、そこには視覚的にキタモトさんの施す仕掛けが用意され、毎回その思いもしない演出が僕たちを魅惑した。だが、今回は普通の劇場舞台で正攻法による見せ方でラストまで押し切る。
オリジナル戯曲のお話の世界を忠実に再現する。もちろん舞台美術はできるだけ簡潔にして、装置も最小限にとどめる。しかし、抽象的な美術ではなく具体的でオーソドックスな空間を用意する。役者たちは皆正面を向いてせりふを語る。見事な口跡で、難しいせりふを述べる。それは耳に心地よい。当然のことだが、とてもよく訓練されている。気持ちがいい。
話自体は、難解ではない。戦国の世を女が生き延びるために何が必要か、それが描かれることとなる。男の論理と、女の論理がぶつかる。そのダイナミズムが終盤の怒濤の展開だ。男を受け入れるしかないことが、女の弱さにはならない。ここでも鏡花の描く女性は神々しい。生き延びるためには身を犠牲にする、ということを肯定するように見せながら、どんな状況にあろうとも、穢れない。
序盤の、蛇を茶漬にして、食べてしまうという豪快なエピソードがタイトルになっているが、そんな豪快な男が、簡単に殺され、でも、彼が彼女を守ることになる。男たちは彼女にひざまずく。もちろんこれはフェミニズムではない。男とか、女とか、そんなものの垣根を取り払い、戦国の世を(それは僕たちが今直面する困難な現実も含めて、だ)「ただ、生きる」(それがどれだけ大変なことか!)ために何が出来るのか、何が必要なのかを問う。2時間10分の上演時間があっという間だった。
これは、今までの実験的な要素も含む大胆な演出とは違う。もちろん今までもキタモトさんは、擬古文の台本を原文そのままに改稿することなく忠実に見せてきた。だが、そこには視覚的にキタモトさんの施す仕掛けが用意され、毎回その思いもしない演出が僕たちを魅惑した。だが、今回は普通の劇場舞台で正攻法による見せ方でラストまで押し切る。
オリジナル戯曲のお話の世界を忠実に再現する。もちろん舞台美術はできるだけ簡潔にして、装置も最小限にとどめる。しかし、抽象的な美術ではなく具体的でオーソドックスな空間を用意する。役者たちは皆正面を向いてせりふを語る。見事な口跡で、難しいせりふを述べる。それは耳に心地よい。当然のことだが、とてもよく訓練されている。気持ちがいい。
話自体は、難解ではない。戦国の世を女が生き延びるために何が必要か、それが描かれることとなる。男の論理と、女の論理がぶつかる。そのダイナミズムが終盤の怒濤の展開だ。男を受け入れるしかないことが、女の弱さにはならない。ここでも鏡花の描く女性は神々しい。生き延びるためには身を犠牲にする、ということを肯定するように見せながら、どんな状況にあろうとも、穢れない。
序盤の、蛇を茶漬にして、食べてしまうという豪快なエピソードがタイトルになっているが、そんな豪快な男が、簡単に殺され、でも、彼が彼女を守ることになる。男たちは彼女にひざまずく。もちろんこれはフェミニズムではない。男とか、女とか、そんなものの垣根を取り払い、戦国の世を(それは僕たちが今直面する困難な現実も含めて、だ)「ただ、生きる」(それがどれだけ大変なことか!)ために何が出来るのか、何が必要なのかを問う。2時間10分の上演時間があっという間だった。