短編小説の映画化は足し算することの魅力にある。なのに、この作品は短編から、さらに引き算することで1本の映画を作り上げる。大胆にもほどがある。ほとんど説明がない。それどころか、もう少し説明すべきところすら、故意に省いている。そうすることで、映画の中に、果てしなく余白が生まれる。
登場人物も少ない。ほぼ、主人公(佐藤浩市、本田翼)の2人のみ。彼らの数日の描写に終始する。タイトルまでは(結構長い)主人公と彼が死なせた恋人(尾野真千子)との話だし。当然そこにいるのは彼らだけ。現実の描写なのに、結果としては象徴としての駅(釧路駅)が何度となく描かれるのもお話をリアルではなくさせる一因だ。
こんなに少ない登場人物なのに、その背後のドラマをほとんど掘り出さないで、現在の目の前の描写に終始する。しかも、一見すると、どうでもいいようなディテールのみである。しかし、それがいろんなことを想像させていく。観客が勝手に想像することによって、こんなに奥行きのある世界を指し示すことになる。大胆すぎて怖いくらいだが、敢えて台本(長谷川康夫)も、演出(篠原哲雄)もそこに終始する。それこそがこの映画の目的なのだ。
裁判での出会いの後、主人公2人の3度の会合(彼女からの訪問)を描く。最初は朝彼女が訪ねてくる。お礼を言いに来て、恋人を捜してほしいと依頼するが、彼は請け合わない。ザンギを食べるシーンはここにある。2度目は傘を返しに来るシーン。イクラを持ってくる。3度目は、お別れにくるシーン。実家まで車で送ることになる。突然熱を出して病院に連れていったり、実家が廃屋になっていて、そこで逃亡中の恋人が死にかけていたり、それぞれ事件があるけど、その3度だけである。最後の駅に見送りに行くシーンも含めてもいいけど、(そうすると、4回)
ドラマチックではある。こんなこと普通ない。50代後半の男と、20代の若い女。親子ほどの年の差がある。ふたりに恋心が芽生えるはずもない。だが、弱り切った心が出会い、ほんの少し寄り添う。この一瞬の出会いと別れの物語を通して、2人は再生していく。もう生きる望みもなく、死んだように生きてきた男と、これから死んだように生きようと思っていた女。
ほんの少ししか登場しない周囲の人たちとのスケッチもいい。ここでもメインのお話と同じだ。説明はない。彼らの関係は単純だからすぐにわかるけど、その背後に広がるドラマは一切描かない。それでいいという潔さだ。
1時間51分というそれなりの長さの中で、これだけしか情報を提示しないで、基本、ふたりの姿を見せるだけで成り立たせてしまう。この大胆な試みは確かに成功している。これを受け入れられない観客もいるだろうが、構わない。