いつもの彼らの芝居とはかなりタッチの違ったものを目指した最新作。昨年の前作『classic』で今までの集大成を果たした今、再スタートは、かって彼らがそれを破壊するための標的とした《物語》というもの。そこに立ち返り芝居を作る。しかし、普通の芝居を目指すのではない。梶原さんの中に今ある《物語》はどんなものなのか。それに答えるための作品である。
芝居におけるストーリーは、自分たちの内面世界を構築するための方便でしかないから、どうしても面白おかしいドラマを語ることに腐心する気はさらさらなく、いきなり核心を突いてくるような作劇をしてしまう。その結果ドラマとしての面白さは生まれない。前半が退屈するのはそのためだ。同じところを低回して前に進まない。
2つのストーリーが交錯する。ひとつは、祭りを執り行うことを喜びとする男ジコ(林裕介)の物語。2人の男達とタコという頭の弱い女は彼を慕い彼の喜ぶ祭りを作ろうとする。しかし、少しずつ祭りはエスカレートしていく中で、本来の喜びからかけ離れて行く。みんなのための祭りが、いつのまにか、自分のエゴのためになり、人々の心は離れていく。
もうひとつのストーリーは、幻の海の化け物を求めて船に乗るカシラ(日向祥志)とその仲間たちの話。かってたくさんの仲間をその化け物に殺された復讐のため彼は漁に出る。しかし、今の仲間たちは、カシラを尊敬するから、彼が化け物を倒してしまったらもう、海に出なくなるのではないかと恐れる。今ある毎日が彼らには幸福でカシラと海に出る日々が永遠に続くことを望んでいる。
この2つの話は相似形をなす。それぞれが、4人一組で物語を展開すること(うち1人は女性が入っている。)という形だけの問題ではなく、主人公が目に見えないものに取りつかれていて、徐々に狂気に陥っていくのを、周囲がなんとか引き止めていこうとする、という構造も含めて、まるで合わせ鏡のように描かれる。そして、クライマックスは当然この2人の話が一つに重なり合うことになる。2人の主人公はそれぞれが自らの心の中にいる敵と向き合うことになるのだ。
これは、失われてしまった世界をもう一度取り戻そうとする物語である。かって世界は幸福な形で調和を保っていた。しかし、いつの日にか世界は壊れてしまっていた。もちろんそれは漁船団が化け物に襲われた嵐の日からであり、祭りを行うことでみんなの心がひとつになった日からである。この2つの事件が世界の終わりと始まりの記憶で、そこからこの芝居は始まり、終わる。
ジコが今までずっと傍にいて彼を見守り続けたタコの存在を強く意識するとき、芝居はクライマックスに突入する。ジコの祭りをタコが否定した時、ジコは「自己」となり、タコは「他己」となる。この2人がお互いを理解し、抱き合う時、カシラは化け物と出会い槍をその大蛸(タコ)に向ける。カシラと、ジコが、タコを挟んで対峙し刀を交わすシーンは感動的だ。抱き合うことで大蛸となった自己と他己がカシラの前に立ちはだかる。
これぞ自由派DNAの芝居の独壇場だ。観念の世界が視覚化され、ドラマとして再構築されるスペクタクル。これだけで泣ける。
今回は入り口にストーリーラインの明確な物語を用意したはずなのに、結局はいつもに世界に落ち着く。それがとても見ていて安心するし、そうでなくては、なんて思ってしまうのがおかしい。梶原さんの芝居には、普通の意味での物語はない。まず世界観があり、内面世界の象徴的人物が動き出しその世界のあり方を語る。だから設定は変わるとも、いつも同じ梶原ワールドが繰り返される。そこでは、テーマをどう展開させていくかが何よりも大切なのである。こういうタイプの芝居は他にはなかなかない。
今回、祭りのシーンを作るため20人近いエキストラキャストを動員して、人海戦術を展開した。視覚的に楽しませようという試みだ。もちろん、そんなことをしても本質はなんら変わらない。何をしてもいつも同じだ。それが心地よい。
芝居におけるストーリーは、自分たちの内面世界を構築するための方便でしかないから、どうしても面白おかしいドラマを語ることに腐心する気はさらさらなく、いきなり核心を突いてくるような作劇をしてしまう。その結果ドラマとしての面白さは生まれない。前半が退屈するのはそのためだ。同じところを低回して前に進まない。
2つのストーリーが交錯する。ひとつは、祭りを執り行うことを喜びとする男ジコ(林裕介)の物語。2人の男達とタコという頭の弱い女は彼を慕い彼の喜ぶ祭りを作ろうとする。しかし、少しずつ祭りはエスカレートしていく中で、本来の喜びからかけ離れて行く。みんなのための祭りが、いつのまにか、自分のエゴのためになり、人々の心は離れていく。
もうひとつのストーリーは、幻の海の化け物を求めて船に乗るカシラ(日向祥志)とその仲間たちの話。かってたくさんの仲間をその化け物に殺された復讐のため彼は漁に出る。しかし、今の仲間たちは、カシラを尊敬するから、彼が化け物を倒してしまったらもう、海に出なくなるのではないかと恐れる。今ある毎日が彼らには幸福でカシラと海に出る日々が永遠に続くことを望んでいる。
この2つの話は相似形をなす。それぞれが、4人一組で物語を展開すること(うち1人は女性が入っている。)という形だけの問題ではなく、主人公が目に見えないものに取りつかれていて、徐々に狂気に陥っていくのを、周囲がなんとか引き止めていこうとする、という構造も含めて、まるで合わせ鏡のように描かれる。そして、クライマックスは当然この2人の話が一つに重なり合うことになる。2人の主人公はそれぞれが自らの心の中にいる敵と向き合うことになるのだ。
これは、失われてしまった世界をもう一度取り戻そうとする物語である。かって世界は幸福な形で調和を保っていた。しかし、いつの日にか世界は壊れてしまっていた。もちろんそれは漁船団が化け物に襲われた嵐の日からであり、祭りを行うことでみんなの心がひとつになった日からである。この2つの事件が世界の終わりと始まりの記憶で、そこからこの芝居は始まり、終わる。
ジコが今までずっと傍にいて彼を見守り続けたタコの存在を強く意識するとき、芝居はクライマックスに突入する。ジコの祭りをタコが否定した時、ジコは「自己」となり、タコは「他己」となる。この2人がお互いを理解し、抱き合う時、カシラは化け物と出会い槍をその大蛸(タコ)に向ける。カシラと、ジコが、タコを挟んで対峙し刀を交わすシーンは感動的だ。抱き合うことで大蛸となった自己と他己がカシラの前に立ちはだかる。
これぞ自由派DNAの芝居の独壇場だ。観念の世界が視覚化され、ドラマとして再構築されるスペクタクル。これだけで泣ける。
今回は入り口にストーリーラインの明確な物語を用意したはずなのに、結局はいつもに世界に落ち着く。それがとても見ていて安心するし、そうでなくては、なんて思ってしまうのがおかしい。梶原さんの芝居には、普通の意味での物語はない。まず世界観があり、内面世界の象徴的人物が動き出しその世界のあり方を語る。だから設定は変わるとも、いつも同じ梶原ワールドが繰り返される。そこでは、テーマをどう展開させていくかが何よりも大切なのである。こういうタイプの芝居は他にはなかなかない。
今回、祭りのシーンを作るため20人近いエキストラキャストを動員して、人海戦術を展開した。視覚的に楽しませようという試みだ。もちろん、そんなことをしても本質はなんら変わらない。何をしてもいつも同じだ。それが心地よい。