『CASSHERN』を見た時は、映画の出来にがっかりさせられたが、彼の遣り方は決して間違ってはいなかった。あれだけのビジュアルを駆使して奇跡の映像体験を観客に提示することが出来たのだ。なのに玉砕してしまったのは、ストーリーの展開させ方にある。オリジナルストーリーは問題ない。あの世界観を見事に映像化した手腕は買う。だがあの世界を突き動かしていくだけの台本のまとまりに欠いたということが失敗の原因だ。その点は紀里谷和利監督自身も認めている。
だから今回はきちんとそこに手を加えた。目の付け所も描ききった世界観も正しかったのだから、あの映画での遣り方をさらに推し進めたならCGだらけのペラペラ映画だなんて誰にも言わさない世界を見せることは可能だ。これは紀里谷監督2度目の挑戦である。
あっと驚くストーリーと手に汗握るアクション。すさまじいイメージの洪水。ビジュアルの充実は前作を軽く凌ぐ。時代劇とは思えない斬新な衣装も含め、CG映画のアクションにはうんざりの僕をうならせることに成功した。正直これは凄いと思った。もちろん細部に関しては問題は山盛りである。ストーリーだって穴だらけだ。だけれども細かいことなんかこの際関係ない。大切なのは基本ラインにミスがない、ということなのだ。YESかNOかと二者択一で言うならばこれはYESと言える。そこが大事なのだ。娯楽大活劇としてのツボをこの映画はきちんと踏まえている。中途半端な妥協はしない。言い訳もしない。持てるすべての力を注いで倒れるまで走りきった。そんな爽快感がある。それだけでいい。
こういう荒唐無稽の限りを尽くしたむちゃくちゃなストーリーである。歴史的な事実なんてどうでもいい。でも、それはこの映画がいい加減をしているというのではない。歴史なんか捻じ曲げてもいいから自分たちの見たい真実をここに示そうとするのだ。
信長を殺した極悪人豊臣秀吉(奥田瑛二)を倒すために五右衛門(江口洋介)は死力を尽くして戦う。天下の大泥棒の名を欲しいままにした自由人であるはずの彼が自分が愛した女、茶々(広末涼子)のために命を懸けて戦うのだ。これはあの『ルパン3世 カリオストロの城』を髣髴させるアクションメロドラマでもある。五右衛門と霧隠才蔵(大沢たかお)との友情を横糸にして、力尽きるまで全力で走り続ける。そんな映画だ。
終盤これでもかこれでもかとエスカレートするのはちょっとしつこい。どんでん返しは必要だが、あまり遣りすぎるとうんんざりだ。おなかたっぷりになるのはまずい。それでもあの定番の幕切れは、やはり心地よい。なんて清々しい幕切れであろうか。
だから今回はきちんとそこに手を加えた。目の付け所も描ききった世界観も正しかったのだから、あの映画での遣り方をさらに推し進めたならCGだらけのペラペラ映画だなんて誰にも言わさない世界を見せることは可能だ。これは紀里谷監督2度目の挑戦である。
あっと驚くストーリーと手に汗握るアクション。すさまじいイメージの洪水。ビジュアルの充実は前作を軽く凌ぐ。時代劇とは思えない斬新な衣装も含め、CG映画のアクションにはうんざりの僕をうならせることに成功した。正直これは凄いと思った。もちろん細部に関しては問題は山盛りである。ストーリーだって穴だらけだ。だけれども細かいことなんかこの際関係ない。大切なのは基本ラインにミスがない、ということなのだ。YESかNOかと二者択一で言うならばこれはYESと言える。そこが大事なのだ。娯楽大活劇としてのツボをこの映画はきちんと踏まえている。中途半端な妥協はしない。言い訳もしない。持てるすべての力を注いで倒れるまで走りきった。そんな爽快感がある。それだけでいい。
こういう荒唐無稽の限りを尽くしたむちゃくちゃなストーリーである。歴史的な事実なんてどうでもいい。でも、それはこの映画がいい加減をしているというのではない。歴史なんか捻じ曲げてもいいから自分たちの見たい真実をここに示そうとするのだ。
信長を殺した極悪人豊臣秀吉(奥田瑛二)を倒すために五右衛門(江口洋介)は死力を尽くして戦う。天下の大泥棒の名を欲しいままにした自由人であるはずの彼が自分が愛した女、茶々(広末涼子)のために命を懸けて戦うのだ。これはあの『ルパン3世 カリオストロの城』を髣髴させるアクションメロドラマでもある。五右衛門と霧隠才蔵(大沢たかお)との友情を横糸にして、力尽きるまで全力で走り続ける。そんな映画だ。
終盤これでもかこれでもかとエスカレートするのはちょっとしつこい。どんでん返しは必要だが、あまり遣りすぎるとうんんざりだ。おなかたっぷりになるのはまずい。それでもあの定番の幕切れは、やはり心地よい。なんて清々しい幕切れであろうか。