13歳の天才ピアニスト(成海璃子)と落ちこぼれ音大生(松山ケンイチ)の心の交流を描く。ラブストーリーではない。お互いに好意を抱いているけれど、それを恋と呼ぶにはあまりに幼い。成海璃子は13歳とは思えないくらいに大人っぽいけど、(最初は15歳くらいだと思った)まだ、13歳だと言われると、こんな13歳も確かにあるだろうと、納得する。(これはたぶん3年くらい前の映画であるから、実年齢でも彼女はまだ13歳か14歳くらいだろう)クラスメートで、彼女に憧れる男の子は、彼女より10センチ以上背が低くて、小学生みたいに子供っぽい。2人が話をしているシーンはなんだかリアルだったりする。
主人公の2人は偶然池で出会う。ボートに乗って自然の音を聞いていた時、彼女と出会う。出会ったときの2人はまだ「何もの」でもない。彼(ワオ、という名前だ。「和音」と書く)は音大合格を目指す浪人生で、自力でピアノの練習をしている。決して上手くはない。彼女(うた、という名前だ)はただの中学生で、ただし、こちらはとてもピアノが上手い。
やがて、彼は奇跡と、努力と、彼女の助けによって、大学に合格してしまう。しかも、主席で入学を決めたらしい。でも、大学に入ってから、入試の日の演奏は、まぐれだったのか、と教授に言われる。あれは彼女の応援があって初めて出来た奇跡のパフォ-マンスであり、1回こっきりのフロックだった。だから、彼は大学で苦労する。
うたは来日した有名なピアニストの前で、ピアノを弾き、彼から高い評価を受け、演奏会の当日体調不良の彼に変わって、オーケストラをバックにして、代演をこなす。(ありえない展開だ!)名もない、ただの中学生の少女は一夜にして、マスコミの寵児となる(はずだ。だが、そんなことは描かれない)実は彼女の父親は日本を代表する(ことになるはずだった)新鋭のピアニストだった、のだが、耳が聞こえなくなり、若くして事故死する。(自殺だったのかもしれない)彼女もまた父と同じように、やがて、耳が聞こえなくなるようだ。
わざわざこんなにも長々とストーリーを書いたのには理由がある。この映画の魅力が上手くことばでは言い表せないからだ。でも、だから、ストーリーを書くって、やり方がおかしくないか、と言われそうだが、そうではない。この作品の空気を伝えるためにはこのやり方が一番だと思う。このへんな話が、この映画をリードする。それを淡々と見せていく。
映画としては決して上手いとは言えない。緊張感が持続できてないし、少女の中にある硬質で他を寄せ付けない自分だけの世界が描き切れてない。そんな彼女の心の中に裸足のまま自然体で入ってしまうワオの無邪気さと、彼の平凡さゆえの輝きが伝わりきらない。小さくて弱い2つの魂が寄り添うことでこの世にはないような美しいメロディーを奏でる。その瞬間を切り取り損ねている。この俗な世界(それは悪い意味ではない)の中で、きちんと嵌り込んで普通に生きながらも、ほんの少しそこからはみ出していく。そんな日常が描かれる。だがこれは「天才ピアニストの少女の孤独」なんていうわかりやすい枠組みを拒否する。この世界に違和感を感じている。だけど、ここで生きている。ただ普通に、この世界で、息をして、泣いて、笑って、生活している。自分は特別な存在ではないから。ただ普通にありのまま生きる少女と彼女を見守る青年の時間を静かに見つめる。ただそれだけの映画である。このストーリーから想像されるような特別がここにはない。そのことがなんだかとても不思議でおもしろい。映画としては欠陥商品なのかもしれないが、このなんとも言い難い歪さが、僕にはなんだか面白く思えた。原作は漫画らしい。世の中には本当にいろんなものがある。
主人公の2人は偶然池で出会う。ボートに乗って自然の音を聞いていた時、彼女と出会う。出会ったときの2人はまだ「何もの」でもない。彼(ワオ、という名前だ。「和音」と書く)は音大合格を目指す浪人生で、自力でピアノの練習をしている。決して上手くはない。彼女(うた、という名前だ)はただの中学生で、ただし、こちらはとてもピアノが上手い。
やがて、彼は奇跡と、努力と、彼女の助けによって、大学に合格してしまう。しかも、主席で入学を決めたらしい。でも、大学に入ってから、入試の日の演奏は、まぐれだったのか、と教授に言われる。あれは彼女の応援があって初めて出来た奇跡のパフォ-マンスであり、1回こっきりのフロックだった。だから、彼は大学で苦労する。
うたは来日した有名なピアニストの前で、ピアノを弾き、彼から高い評価を受け、演奏会の当日体調不良の彼に変わって、オーケストラをバックにして、代演をこなす。(ありえない展開だ!)名もない、ただの中学生の少女は一夜にして、マスコミの寵児となる(はずだ。だが、そんなことは描かれない)実は彼女の父親は日本を代表する(ことになるはずだった)新鋭のピアニストだった、のだが、耳が聞こえなくなり、若くして事故死する。(自殺だったのかもしれない)彼女もまた父と同じように、やがて、耳が聞こえなくなるようだ。
わざわざこんなにも長々とストーリーを書いたのには理由がある。この映画の魅力が上手くことばでは言い表せないからだ。でも、だから、ストーリーを書くって、やり方がおかしくないか、と言われそうだが、そうではない。この作品の空気を伝えるためにはこのやり方が一番だと思う。このへんな話が、この映画をリードする。それを淡々と見せていく。
映画としては決して上手いとは言えない。緊張感が持続できてないし、少女の中にある硬質で他を寄せ付けない自分だけの世界が描き切れてない。そんな彼女の心の中に裸足のまま自然体で入ってしまうワオの無邪気さと、彼の平凡さゆえの輝きが伝わりきらない。小さくて弱い2つの魂が寄り添うことでこの世にはないような美しいメロディーを奏でる。その瞬間を切り取り損ねている。この俗な世界(それは悪い意味ではない)の中で、きちんと嵌り込んで普通に生きながらも、ほんの少しそこからはみ出していく。そんな日常が描かれる。だがこれは「天才ピアニストの少女の孤独」なんていうわかりやすい枠組みを拒否する。この世界に違和感を感じている。だけど、ここで生きている。ただ普通に、この世界で、息をして、泣いて、笑って、生活している。自分は特別な存在ではないから。ただ普通にありのまま生きる少女と彼女を見守る青年の時間を静かに見つめる。ただそれだけの映画である。このストーリーから想像されるような特別がここにはない。そのことがなんだかとても不思議でおもしろい。映画としては欠陥商品なのかもしれないが、このなんとも言い難い歪さが、僕にはなんだか面白く思えた。原作は漫画らしい。世の中には本当にいろんなものがある。