このサブタイトルは頂けない。せめて『敗れざる者たち』にして欲しかった。だが、それってやはり沢木耕太郎を連想せざる得ないから、ちょっとまずいし。まら、もうサブタイトルなんかいらない、と強く出ることもできないのは、この映画のセールス上の弱さだろう。いくらイーストウッドの新作だからといえ、興行上の弱さは否めない。彼のネームバリューだけでは、映画はヒットしない。しかもなんだか彼らしくない題材だし。ということで日本の映画会社はこういう歯切れの悪い副題を付ける。仕方ないことだ。だが、もうその時点で負け試合である。ここからは売り切る自信のなさ、しか感じられない。まぁ、そんなことはイーストウッドには預かり知らぬことだろう。
映画は期待にたがわぬ作品だ、さすがイーストウッドである、とそんなふうに言いたいのは山々だが、なんだか乗りきれない。つまらないわけではない。良く出来た感動作だ。だが、これがイーストウッドである必要性はない。まぁ、そんなものはどうでもいいこと、のはずなのだが、なぜイーストウッドがこの素材に拘るのかが見えてこないのはやはり気になる。職人としてこの感動娯楽巨編を手掛けた、としか見えない。それがいけないのか、と言われると返す言葉はない。だが、僕には物足りなかったのも事実だ。
ビレ・アウグストの『マンデラの名もない看守』という先行する作品がある。同じようにマンデラを描くのだが、彼が27年間監獄に閉じ込められていた時間を中心にした映画なので、重なるものはない。だいたいテーマも違う。比較はナンセンスであることは重々承知だ。でも、あの作品のような感動がここにはない。この映画の主人公はマンデラでなくてもよかったのではないか、とすら思う。それってまずくないか。実話の重さがここにはない。ここに出てくるイケイケのマンデラは、なんだか実話の主人公には見えない。絶対不可能と思われたラグビーワールドカップ優勝を成し遂げたのは誰なのか。この映画にはヒーローが不在だ。マット・デイモン演じるキャプテンの力ではない。ならば、南アフリカのすべての人たちの後押しがあったからか、と言われると、それもなぁ、と思う。ましてや、マンデラの信じる力だ、なんて言えない。
これはマンデラの政治的手腕を描く映画ではない。ではスポーツものか、と言われると、それもなぁ、と思う。要するにこの映画には核がないのだ。描きたいことはあるのだろうが、どこに焦点を絞って見せようとするのかが見えない。だからなんだか居心地の悪い映画になったのだ。
モーガン・フリーマンは確かに上手い。だが、それすら、この映画に於いてはただのウエルメイドと化している。スポーツを通して世界は一つになるだなんて、冗談でしかない。そんなメッセージはいらない。サッカーとラグビーを比較する場面からスタートしたとき、ちょっとドキドキした。紳士のスポーツ、ラグビーの綺麗なグランドで練習する南ア代表チームと、道路を隔てた黒人の子供たちが遊ぶでこぼこの空き地でなされている草サッカー。その間をマンデラの乗る車は走っていく。1990年、マンデラが解放された日の情景である。この出発点での対立の図式が簡単に両者の融合としてのラグビーワールドカップへと収斂していく。今年のサッカーワールドカップ開催を控えたこの国を舞台にして、この映画をつくる意義はそんな簡単なことではないはずだ。今、イーストウッドがこの映画を通して訴えかけるものは何か、それが知りたい。なのに、なんだか当たり障りのない映画を見せられて、僕はなんか納得いかない。
映画は期待にたがわぬ作品だ、さすがイーストウッドである、とそんなふうに言いたいのは山々だが、なんだか乗りきれない。つまらないわけではない。良く出来た感動作だ。だが、これがイーストウッドである必要性はない。まぁ、そんなものはどうでもいいこと、のはずなのだが、なぜイーストウッドがこの素材に拘るのかが見えてこないのはやはり気になる。職人としてこの感動娯楽巨編を手掛けた、としか見えない。それがいけないのか、と言われると返す言葉はない。だが、僕には物足りなかったのも事実だ。
ビレ・アウグストの『マンデラの名もない看守』という先行する作品がある。同じようにマンデラを描くのだが、彼が27年間監獄に閉じ込められていた時間を中心にした映画なので、重なるものはない。だいたいテーマも違う。比較はナンセンスであることは重々承知だ。でも、あの作品のような感動がここにはない。この映画の主人公はマンデラでなくてもよかったのではないか、とすら思う。それってまずくないか。実話の重さがここにはない。ここに出てくるイケイケのマンデラは、なんだか実話の主人公には見えない。絶対不可能と思われたラグビーワールドカップ優勝を成し遂げたのは誰なのか。この映画にはヒーローが不在だ。マット・デイモン演じるキャプテンの力ではない。ならば、南アフリカのすべての人たちの後押しがあったからか、と言われると、それもなぁ、と思う。ましてや、マンデラの信じる力だ、なんて言えない。
これはマンデラの政治的手腕を描く映画ではない。ではスポーツものか、と言われると、それもなぁ、と思う。要するにこの映画には核がないのだ。描きたいことはあるのだろうが、どこに焦点を絞って見せようとするのかが見えない。だからなんだか居心地の悪い映画になったのだ。
モーガン・フリーマンは確かに上手い。だが、それすら、この映画に於いてはただのウエルメイドと化している。スポーツを通して世界は一つになるだなんて、冗談でしかない。そんなメッセージはいらない。サッカーとラグビーを比較する場面からスタートしたとき、ちょっとドキドキした。紳士のスポーツ、ラグビーの綺麗なグランドで練習する南ア代表チームと、道路を隔てた黒人の子供たちが遊ぶでこぼこの空き地でなされている草サッカー。その間をマンデラの乗る車は走っていく。1990年、マンデラが解放された日の情景である。この出発点での対立の図式が簡単に両者の融合としてのラグビーワールドカップへと収斂していく。今年のサッカーワールドカップ開催を控えたこの国を舞台にして、この映画をつくる意義はそんな簡単なことではないはずだ。今、イーストウッドがこの映画を通して訴えかけるものは何か、それが知りたい。なのに、なんだか当たり障りのない映画を見せられて、僕はなんか納得いかない。