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映画・演劇のレビュー

『春が来れば』

2006-12-06 20:47:22 | 映画
 2本、今年公開された映画で見逃していたものがある。(もちろんそれ以外でも見てない映画がないとは言わないが)どうしても見たかったのに諸事情で見れず悔しい思いをしてた。それが、ようやく見れて嬉しい。そんな映画のまず、1本目がこの作品だ。映画史上最高の1本である『八月のクリスマス』のホ・ジノの助監督をしていたリュ・ジャンハの初監督作品だ。

 見事なまでに、師匠の作品とよく似ている。だが、ホ・ジノのコピーではない。彼よりずっと健康的だ。それは、いいところでもあり、ものたりないところでもある。ホ・ジノの『四月の雪』で主人公の2人が映画館で見ていたのはこの映画である。

 全編が『八月のクリスマス』へのオマージュとなっている。写真館は薬屋となり、男と女の位置が入れ替わる。但し2人の恋についてはこちらの方が更に淡い。
恋愛感情以前の恋心と言う意味では同じだが、こちらは2人の恋物語が中心ではなく、人生の挫折感の方にシフトしてある。主人公は死なない。春になり、もう一度ソウルに戻り、かっての恋人のところに行くまでが描かれる。

主人公の男は薬屋の娘のところに何かあればいく。別にたいしたことがなくても 行く。そしていつまでも話してる。このエピソードは『八月のクリスマス』の写真館での主人公と婦人警官のエピソードと同じ設定なのである。彼にとってこの場所は、この町で唯一落ち着ける場所であり、彼女に対して淡い恋心を抱いていることも事実だろう。しかし、それを行動に移すことはない。恋をするより、このやすらげる場所の方が大事なのだから。

 生きていくことをあきらめてしまった男が、一人の女性と出会い、その出会いを通してもう一度生きていこうとする姿が描かれる。この2本はそういうところがまるでそっくりなのだ。


 まだ始まってもいない人生に挫折し、傷つき、もう自分の人生は終わってしまったと思う。いつも微笑みを絶やさないことであきらめを感じさせたハン・ソッキュに対して、いつも淋しげに下を向くチェ・ミンシクはまだ本当はいろんな事を諦めきれない。両者の違いはそこにある。あらゆる点で双子のような映画だが、あらゆる点で微妙に違う。

 『八月の~』の父との関係はここでは、母との関係に置き換えられ、友人と浴びるように酒を飲んでも、介抱するのは自分の方だ。そして、泣いたりしない。あと少しで死んでいく男と、まだまだ人生が続く男では置かれた状況が違うのは承知の上だが、あらゆる点でこの2本は相似形をなしている。もちろんリュ・ジャンハがそう仕掛けたのである。『八月のクリスマス』へのリスペクトである以上に乗り越えるべきものとして師の作品を目の前に持ってきたかったのだろう。

 まるで双子の映画のように作られ、同じ構造を踏むことで、リュ・ジャンハはホ・ジノがやれなかった地平へと自分の映画を連れて行く。師の影を踏みながら、師とは違う映画を目指す。なんか、とても素敵な師弟愛だ。

 人生はまだまだ続く。そんな気持ちをしっかり伝えてくれる作品だ。さらりとした描写で、心の微かな揺れを見せていく、というのはホ・ジノから学んだことだ。その方法がうまくいっている。コンクールのシーンも、うまい。子どもたちに何も言わさないのがいい。海岸で写真を撮るだけである。子どもたちとの別れのシーンは一切ない。

 この町にやって来て、潰れかかった吹奏楽部の講師として、中学生の男の子たちの指導をする。秋から春までのほんの短い時間。子どもたちとのふれあいも確かに描かれるが、それが主題ではない。

 すべてに疲れて投げやりになり、人生を諦めた男が、ほんの少し立ち直るまでの心のスケッチである。ホ・ジノがデビュー作『八月のクリスマス』1本で世界の頂点に立ったようにはいかないが、リュ・ジャンハはほんとにいい仕事をした。こういう心に沁みる映画が僕は見たかったのだ。

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