タイトルに心惹かれて読むことにした。読んでいると妻がこの人は誰もが知っている有名な編み物作家だよ、と教えてくれた。もちろん僕はまるで知らなかった。そんなことよりまず、これはとても面白い。それだけでいい。
これは小説ではなくエッセイ集なのだが、まるで上質の短編小説のような味わいがある。丁寧に綴られた珠玉の宝石だ。その一編一編が密かな輝きを放つ。それをじっくりと味わう。子供のころの話や、さまざまな想い。家族のこと、友人の話。つらかったこと。楽しかった話。彼女を作ってきたさまざまなエピソードは静かで不思議な味わいと輝きを 湛える。「書く」ことは「編む」ことと似ているという編みもの作家となった著者、その半生を描くこの29編をゆっくりと読み終える。深い感動が胸には溢れる。
この気分は僕が得意とするいつもの街歩きと似ている。知らない町を、なんとなく歩くのが趣味だ。するとなんだか懐かしい気分になる。そこで暮らす人たちの息吹が伝わる(気がする)。もし自分がこの町で暮らしていたら、なんて想像しながらはじめての道をただなんとなく歩くのが好き。あの時の気分と近い。ここで描かれるのは彼女が体験したことなのに、まるで自分のことのように思える。共通する体験をしたわけでもないエピソードでも、そこには通じるものを感じるのだ。誰かが、どこかでそんなふうにして生きてきたから。そこにある既視感が僕の中で懐かしさを生み出すのだろう。
編むという行為は彼女にとって、生きるということと等価だ。そしてそれが書くこととも通じる。編み物のことはわからないけど、たとえば僕が映画を見たり、本を読んだりする行為とそれは通じる。そしてそのことをこうして同じように書くという行為につなげていることとも。似ている。誰もいない観光地とすら呼べないような場所を歩く旅も同じ。さらには50年ほど続けているバドミントンもそう。共通項はそれが「好き」だということ。ただそれだけ。
友人たちとのメールのやり取りの中で、これらのエッセイは生まれた、と冒頭にある。さらには「書くのはわたし、読んでくれるのは友人のふたり」という記述を読みハッとさせられた。僕がこのブログを書いている理由とも似ている。手書き閲覧紙「習慣HIROSE」は30年以上前にふたりの友人(というか、人生の大先輩)に読んでもらうために始めた。その週に見た芝居の簡単な感想、批評を自分のノートに書いていたものをコピーしてふたりに読んで貰うために渡す。やがてそれをウイングフィールドの福本さんにも渡すことになる。(これでコピーは3枚)それが始まりだ。今だって、これは個人的なメモの域を出ない。芝居や映画を見せてもらえたことへの感謝。見せてくれた人に向けての返信。それだけ。
でも気づくとそれはほぼ習慣になり、週刊で(いや、最近は日刊か)もう6000日も続いている。最初にこれを読んで貰ったスペースゼロの古賀さんはもうずっと前に亡くなってしまったのに。
1冊、1本を30分で1000字程度(時々2000字を超えてしまうけど)に書く、というスタイルをなんとなく守り続ける。習慣だから。
このエッセイ集を読みながら、小説も、エッセイも、編み物も、映画も、みんな同じだな、と思う。作ることで自分になる。読んだり見たりすることでも、そう。なんだかそんな当たり前のことが大事なことだな、と改めて思う。