いきなりクライマックスである。そして、そのテンションの高さは最後まで途切れることはない。80分間息切れしない。激しい芝居だが、表面的にはとても静かな芝居である。声を荒げたり舞台上をドタバタしたりすることは断じてない。
主人公の秋津ねをさんは、かっと目を見開いたまま、正面を見据えて、相手から目をそらすことはない。しかも全編正座した姿勢を崩さない。きちんと背筋を伸ばして凛としたまなざしを相手に向ける。たった1度、半径50センチ、角度を90度変えるだけで、全編動くこともない。明かりがついた瞬間そこに彼女がいて、芝居が始まり、ラストシークエンスまで、彼女は一切立つこともない。こんな芝居は初めてだ。うるんだ眼からは涙は零れない。絶対に溢さない。こぼしてしまったら、彼女は負けたことになる。
彼女が一体何をしたのか。話の核心にたどりつくまで、思い切り引っ張ってくれる。どこまで引っ張れば気が済むのか、それは、まるで観客であるわれわれに挑戦するかのようだ。彼女と(演出の関川佑一さんとも)一騎討ちする気分で見ていた。
この家の主人である夫婦が戻ってきて、ようやく事件の核心に入る。話自身は至極単純なことだ。しかし、その単純さに対して、簡単に答えを出すことは出来ない。事故を通して、加害者と被害者が向き合う。失われた時間は取り戻すことは出来ない。泣き叫んでもどうしようのないし、もう涙はとうの昔に涸れてしまった。加害者であるねをさんが被害者である両親と向き合う。死んでしまった幼い娘を抱きあげた時の感触。この『ミズに似たカンショク』というタイトルはそこから来ている。あのラストシークエンスで初めて彼女は立ちあがる。3人が手をつなぐ。しかし、それは和解ではない。消えることのない、拭うことのできないものはずっと残る。残り続ける。
とても丁寧に作られた作品だ。緊張を持続すること。その一点を何よりも大事にする。だが、それが到達するところが着地点ではない。カタルシスは当然ない。いささか甘いラストはこのドラマの突破口にはならない。妹が「子どもを作りたい、家族になろう」叫ぶシーンは唐突だ。だが、嫌いではない。それはドラマを無理やり終わらせるためではなく、その言葉がとても自然な行為に映ったからだ。あれが感動につながったならこの芝居は傑作になりえただろう。実に惜しい。
主人公の秋津ねをさんは、かっと目を見開いたまま、正面を見据えて、相手から目をそらすことはない。しかも全編正座した姿勢を崩さない。きちんと背筋を伸ばして凛としたまなざしを相手に向ける。たった1度、半径50センチ、角度を90度変えるだけで、全編動くこともない。明かりがついた瞬間そこに彼女がいて、芝居が始まり、ラストシークエンスまで、彼女は一切立つこともない。こんな芝居は初めてだ。うるんだ眼からは涙は零れない。絶対に溢さない。こぼしてしまったら、彼女は負けたことになる。
彼女が一体何をしたのか。話の核心にたどりつくまで、思い切り引っ張ってくれる。どこまで引っ張れば気が済むのか、それは、まるで観客であるわれわれに挑戦するかのようだ。彼女と(演出の関川佑一さんとも)一騎討ちする気分で見ていた。
この家の主人である夫婦が戻ってきて、ようやく事件の核心に入る。話自身は至極単純なことだ。しかし、その単純さに対して、簡単に答えを出すことは出来ない。事故を通して、加害者と被害者が向き合う。失われた時間は取り戻すことは出来ない。泣き叫んでもどうしようのないし、もう涙はとうの昔に涸れてしまった。加害者であるねをさんが被害者である両親と向き合う。死んでしまった幼い娘を抱きあげた時の感触。この『ミズに似たカンショク』というタイトルはそこから来ている。あのラストシークエンスで初めて彼女は立ちあがる。3人が手をつなぐ。しかし、それは和解ではない。消えることのない、拭うことのできないものはずっと残る。残り続ける。
とても丁寧に作られた作品だ。緊張を持続すること。その一点を何よりも大事にする。だが、それが到達するところが着地点ではない。カタルシスは当然ない。いささか甘いラストはこのドラマの突破口にはならない。妹が「子どもを作りたい、家族になろう」叫ぶシーンは唐突だ。だが、嫌いではない。それはドラマを無理やり終わらせるためではなく、その言葉がとても自然な行為に映ったからだ。あれが感動につながったならこの芝居は傑作になりえただろう。実に惜しい。