先日見た映画の原作だ。今村夏子のデビュー作。なぜか、今まで読んでなかっのだ。だから、この機会に読んでみた。それくらいにあの映画は衝撃的だったのだ。映画はあみ子を演じた大沢一菜の圧倒的な存在感が光っていた。唖然としながら彼女の一挙手一投足から目が離せない。とんでもない不幸に陥っていく家族。でも、あみ子はまるで動ぜず、自分のペースを崩さない。時系列に並んで描かれる映画とは少し原作は違い、小説は現在からスタートとして、義母との出会いから、中学卒業までの日々が回想されていく。映画は大沢一菜が演じる都合で小5から中1までの時間に凝縮される。でも、基本は原作に忠実だ。(あのお化けたちの部分は原作にはないけど。)
ただ、映画と原作は受け止め方がかなり変わる。あみ子の視点から描かれるというのは同じだが、それが内面と外面、言葉と映像というふうに、表現の視点が変わるからかもしれないが、かなり違った印象を残す。映画のあみ子の暴力的な感触は原作にはない。それよりもあみ子の内面からスタートするから、彼女の思索がより鮮明になる。原作はこの子の思考回路からその行動を見守るから、冷静に見つめられるのだが、映画はいきなりなのでかなり怖い。どちらがいいとかいう問題ではなく、同じお話なのに表現方法が変わるとこんなにも違うものになるのか、という当たり前だけど新鮮な驚きを感じさせられた。それって、それくらいにこの2作がそれぞれの方法でこの主人公を見事に描き切ったという事なのだろう。
2作とも、あみ子を病気だという視点から一切描かない。周囲の人たちの対応もそうだ。そこは原作から一貫しているし、そこを外してしまうとこの作品は成り立たない。
同時収録された『ピクニック』も(同じように)面白い。パターンは同じ。だけど、やはり新鮮で驚きに満ちている。この先どうなるのか、まるで見当もつかない。今村夏子の凄いところはその大胆なドラマ作りのさりげなさ。ここでもそれは生かされる。説明しない。そんなバカな、ということをそんなこともありなのかとさりげなく流す。そこに漂う切なさすら流す。七瀬さんは自らの作り上げた妄想を育てる。14年間かけて。でも、ある日、現実が彼女の夢を壊していく。周囲の仲間(職場の同僚)はなんとかして彼女を助けようとする。彼女は誰も傷つけてない。自分一人でその世界を作り上げていく。たくましい。だから、みんなは安心する。だから、めでたしめでたし、ということにしよう。