とてもいいタイトルだ、と思った。こういうタイトルは好きだ。主人公の僕はたまたまここでバスを降りる。ここである必然性なんかない。でも、何かに心惹かれて、ここで下車してしまった。バスは目的地に向かうために、乗ったはずなのに、途中下車するにはおかしい。だが、僕はそれでいいと思う。もしかしたら明確な目的なんかないまま、このバスに乗ってしまったのかもしれない。
坂本アンディは4月の『啓蒙の最果て、』からたった2ヶ月のインターバルで、というか、休みなしの連投で、この新作に挑んだ。前作もそうだったが、今回はあれ以上に自分を追いつめている。今までの最高を目指した。まだキャリアも浅くこれからどんどん活躍する若手であるが、そんなこと関係ない。個人的な想いから、これは今までの総決算となる作品にしたいと、願った。それだけの決意で挑む。当日パンフにある「集大成」という言葉がそんな彼の気持ちを赤裸々に伝える。
冒頭の母親の脳味噌をちゅるちゅる啜る「ようかい」と、彼を見守る「ぼく」の姿は、最後にも繰り返されるこの作品のキーとなるイメージだ。衝撃的である。ぼくはようかいを連れて、家に帰る。家には家族がいる。当然みんなはようかいを忌み嫌う。だって、ようかいである。当然の話だ。
父と母(脳味噌を啜られたはずなのに、ちゃんと、いる!)、お兄ちゃん。どこにでもあるような4人家族。みーちゃんという女の子がいるけど、あれは何? よくわからないまま、もっとよくわからないことが進行していく。お父さんはちんちんに執着する。お兄ちゃんは彼女に執着。お母さんは当然、家族に執着。ぼくは、?
「失われると分かっているもの」についてのお話であるらしい。そう言われると、確かにそうだ。しかし、それは、そう言われなかったなら、わからないくらいに微妙だ。パンフの文章を読まないまま、芝居を見たから、そんなこと、考えもしなかった。
だが、見ていると、ここにある寂しさが心に浸みてくる。アンディが描きたかったものは、そこだ。彼らは家族であるにも関わらず、みんなそれぞれがひとりひとりだ。家族とのコミュニケーションは失われている。だから、「ぼく」は絶滅種である「ようかい」に、拘る。友だちだから、という単純な理由だけではない。
崩壊した家族をつなぎとめているものって、何だ?
僕たちは、それぞれ心に寂しさを抱えて生きている。そんなあたりまえの事実に気づく。みーちゃんは、そんな寂しさが生んだ幻影だ。だが、彼女も芝居の中ではただの脇役でしかない。誰かがみんなをつなぎとめることはない。絆は断たれたままだ。ようかいとの別れも、また。