村上春樹の短編集からタイトルロールがアメリカ映画として作られた。基本的に自作の映画化に許可を与えないはずの村上春樹だが、『ノルウエイの森』といい今回といい外国人監督には大らかなのか。まぁ、そんなことはどうでもいい。村上春樹の映画化というだけで、この映画を見た。見たいと思った。阪神大震災を背景にしたこの短編連作をどう扱うのかも気になった。
原作のイメージをきちんと作品化しようと努力している。映像としてのクオリティーはとても高い。今までこんなアメリカの風景を、アメリカ映画の中で見たことがない。街中なのにほんの少し行くと、そこには誰もいない風景が広がる。ゴーストタウンか、さらには砂漠か、と思う。リアルと幻想が背中合わせになる。ハングルだらけのコリアタウンが舞台となっている。主人公のケンジは中国人なのに、日本人の名前で、コリアタウンに住む。そんなアンバランスがこの映画の基本設定だ。恋人同士のように母親と接するのも、マザコンというよりももっと複雑なものがある。
だが、そこまでだ。このお話を通して何を見せたかったのか。そこにはこの映画は至っていない。雰囲気だけで終わっている。母親との関係もそうだし、本当の父親を捜し、偶然出会った父親らしき男の後をついていくエピソードもそうだ。すべてがはぐらかされて終わる。これでは原作の雰囲気の再現でしかない。もちろん原作自体がテーマを前面に押し出してくるものではなく、作品が醸し出す雰囲気を何よりも大事にしている。それが心に沁みてくるようになっている。そういう意味ではこの映画は成功しているはずなのだ。だが、村上春樹を読んでいて感じる心の奥深くに染み入るものがない。これでは精巧に作られた村上春樹のイミテーションでしかない。なぜ、こんなことになったのかは明白だ。イメージは所詮イメージでしかない、そこには実体がないからである。
主人公のケンジという青年(ジェイソン・リュウ)の孤独がまるで浮き彫りにされてない。母親(ジョアン・チェン)への愛情と恋人(ナスターシャ・キンスキーの娘、ソニア・キンスキー)への想い、大人になること、父を認めて自分を見失うこと。地震によって受けた心の傷。そんなこんなのちりばめられたイメージのひとつひとつを形にしていくだけの力がない。幼い日、休みの日には母と共に布教活動として一軒一軒家をまわる。自分は神の子だと教えられた幼い日の記憶。それが今、どう変容し自分の中にあるのか。母親から精神的に離れる。ただ、それだけのことが描けたならよかったのだがそれが叶わない。
原作のイメージをきちんと作品化しようと努力している。映像としてのクオリティーはとても高い。今までこんなアメリカの風景を、アメリカ映画の中で見たことがない。街中なのにほんの少し行くと、そこには誰もいない風景が広がる。ゴーストタウンか、さらには砂漠か、と思う。リアルと幻想が背中合わせになる。ハングルだらけのコリアタウンが舞台となっている。主人公のケンジは中国人なのに、日本人の名前で、コリアタウンに住む。そんなアンバランスがこの映画の基本設定だ。恋人同士のように母親と接するのも、マザコンというよりももっと複雑なものがある。
だが、そこまでだ。このお話を通して何を見せたかったのか。そこにはこの映画は至っていない。雰囲気だけで終わっている。母親との関係もそうだし、本当の父親を捜し、偶然出会った父親らしき男の後をついていくエピソードもそうだ。すべてがはぐらかされて終わる。これでは原作の雰囲気の再現でしかない。もちろん原作自体がテーマを前面に押し出してくるものではなく、作品が醸し出す雰囲気を何よりも大事にしている。それが心に沁みてくるようになっている。そういう意味ではこの映画は成功しているはずなのだ。だが、村上春樹を読んでいて感じる心の奥深くに染み入るものがない。これでは精巧に作られた村上春樹のイミテーションでしかない。なぜ、こんなことになったのかは明白だ。イメージは所詮イメージでしかない、そこには実体がないからである。
主人公のケンジという青年(ジェイソン・リュウ)の孤独がまるで浮き彫りにされてない。母親(ジョアン・チェン)への愛情と恋人(ナスターシャ・キンスキーの娘、ソニア・キンスキー)への想い、大人になること、父を認めて自分を見失うこと。地震によって受けた心の傷。そんなこんなのちりばめられたイメージのひとつひとつを形にしていくだけの力がない。幼い日、休みの日には母と共に布教活動として一軒一軒家をまわる。自分は神の子だと教えられた幼い日の記憶。それが今、どう変容し自分の中にあるのか。母親から精神的に離れる。ただ、それだけのことが描けたならよかったのだがそれが叶わない。