東京の下町、その静かな佇まいに心惹かれた。この映画が素敵なのはその一点に尽きる、と言っても過言ではない。八千草薫のお祖母ちゃんと、主人公である落語家三つ葉(国分太一)の住む家がまた素晴らしい。昔ながらの日本家屋が、ひっそりと町に溶け込んでいる。ここはちょっとした隠れ里だ。
だから、3人がここにやって来る気持ちがよくわかる。彼らは落語教室に通い、話し方を教わることが目的ではなく、この家に来て、ほっとしたかっただけなのかもしれない。毎月1度、休みの日の午後、ここに来てお茶を飲み、『饅頭怖い』の稽古をする。なんてことない毎日の中で、その時間は無駄の極地のようにも見える。だいたい落語なんて教わっても何の足しにもならない。しかし、人とのコミュニケーションが苦手な彼ら3人は、ここに来ることで、日々の暮らしの中にほんの少しの安らぎを感じたのだろう。
それは3人だけでなく三つ葉だって同じだ。単調な毎日の中で、この子たちが来る時間は特別なものになる。教えるということで、彼は日々の生活に潤いを感じる。何のために落語なんかやっているのか。はたして真打ちになり、自立できる日が来るのか。毎日の生活は不安だらけだ。(昔、森田芳光も『の・ようなもの』で同じような落語家の青年の悲哀を描いたことがある)
何を拠りどころにして生きるかは、人様々だろうが、なかなか上手くいかない毎日の中で、ほんの少しほっとできる潤いの時間があったなら、人は生きていける。それがどんなささいなものであろうとも構わない。
この映画は、夜の時間を描くシーンがほとんどない。描かれる時間はふつうの人が働いている昼間が中心だ。考えてみればこの映画には、落語家である彼の日常が描かれているのだ。ここに描かれる時間は彼にとって働いている時間だが、あくせく仕事に追われる僕らとはなんとなく違った時間を彼は生きているように見える。とても粋で、ゆとりがある。それって何なのだろうか。別に彼が楽で暇そうに見える、なんて言ってるのではない。この映画の魅力は実はそんなとこにもある。ストーリーではなく、時間の流れ方、風景。その中にこの映画の秘密がある。
そして何より大切なものが、ここには描かれている。それは、お祖母ちゃんが待つあの家に彼らがやってきて、午後のあたたかい日差しの中で、のんびりとした時間を過ごす、そんな幸福を噛み締めることである。
だから、3人がここにやって来る気持ちがよくわかる。彼らは落語教室に通い、話し方を教わることが目的ではなく、この家に来て、ほっとしたかっただけなのかもしれない。毎月1度、休みの日の午後、ここに来てお茶を飲み、『饅頭怖い』の稽古をする。なんてことない毎日の中で、その時間は無駄の極地のようにも見える。だいたい落語なんて教わっても何の足しにもならない。しかし、人とのコミュニケーションが苦手な彼ら3人は、ここに来ることで、日々の暮らしの中にほんの少しの安らぎを感じたのだろう。
それは3人だけでなく三つ葉だって同じだ。単調な毎日の中で、この子たちが来る時間は特別なものになる。教えるということで、彼は日々の生活に潤いを感じる。何のために落語なんかやっているのか。はたして真打ちになり、自立できる日が来るのか。毎日の生活は不安だらけだ。(昔、森田芳光も『の・ようなもの』で同じような落語家の青年の悲哀を描いたことがある)
何を拠りどころにして生きるかは、人様々だろうが、なかなか上手くいかない毎日の中で、ほんの少しほっとできる潤いの時間があったなら、人は生きていける。それがどんなささいなものであろうとも構わない。
この映画は、夜の時間を描くシーンがほとんどない。描かれる時間はふつうの人が働いている昼間が中心だ。考えてみればこの映画には、落語家である彼の日常が描かれているのだ。ここに描かれる時間は彼にとって働いている時間だが、あくせく仕事に追われる僕らとはなんとなく違った時間を彼は生きているように見える。とても粋で、ゆとりがある。それって何なのだろうか。別に彼が楽で暇そうに見える、なんて言ってるのではない。この映画の魅力は実はそんなとこにもある。ストーリーではなく、時間の流れ方、風景。その中にこの映画の秘密がある。
そして何より大切なものが、ここには描かれている。それは、お祖母ちゃんが待つあの家に彼らがやってきて、午後のあたたかい日差しの中で、のんびりとした時間を過ごす、そんな幸福を噛み締めることである。