ようやく一番見たかった映画が見れた。物事には順序というものがあって、大人なので見たい順に映画が見れるわけではない。でも、なんか不条理だなぁ、なんて思いつつ、半分見ることをあきらめていたのだが、ようやく見れてうれしい。
6月は仕事が忙しくてなかなか映画館に足を運べなかったが、今週、たまっていた映画をほぼ見ることが出来て、ほっとした。だが、その反動ですさまじい量の仕事がたまっている。あちらを立てればこちらが、立たずだ。
今週見た7本の最後を飾るのがこの映画だ。すでに一般上映は終了していて、レイトショーのみになっているのに、けっこう人が入っていた。それだけ注目を集めた、ということだろう。だが、僕にとってはなんとも言いがたい映画だった。期待の大きさが裏目に出たのか。だいたい絶賛の声を聞きすぎて、過剰な期待を抱きすぎたか?
問題は、ストーリーの奇抜さが、一人歩きして、ついていけなくなるところにある。津軽弁による台詞はいいのだが、これもやりすぎで、ほとんど話の内容がつかめない。半分くらいしか話してることがわからない日本映画なんて、初めてだろう。しかも、このパターンでの沖縄映画は字幕スーパーが出るのが常だったが、この映画はそんなことしない。もちろんこの内容で字幕を読まされたなら、ちょっと閉口するだろうが。作者の意図が先走りすぎて、映画がついてこれてないのだ。しかも、お話自身も後半どんどんエスカレ-トするし。過剰で過激な内容のストレートな純愛映画、という体裁は悪くない。だが、やりすぎは作者の才気ではなく、独りよがりにしかならない。そういう意味では石井裕也監督の『ばけもの模様』にも通じる。
心臓が止まっても町子先生(またもや、麻生久美子!)と一緒にいたい、という陽人(松山ケンイチ)の一途な気持ちが爆走する。その結果、しゃれではなく、ほんとに心臓が止まってしまうのだが、そのあまりの展開には唖然とする。しかも、心臓が止まっても生きている。愛のためなら死んでもいい、とはよく言う陳腐な言葉だが、それを本当にやってしまい、それでも生きるのだ。ゾンビではなく。彼のとどまることのない片思いの行き着く果ての何が待ち受けているのか。けっこうドキドキする。だが、町子先生の気持ちや、何よりも陽人自身の気持ちが伝わらないから、映画はただのゲテモノでしかなくなる。彼が町子先生に愛されるため、進化続けることが、生きていくうえでどんな意味を持つか、それが伝わらないことには、映画は納得のいくものにはならないのだ。伝わらないのが、津軽弁という言葉の意味であるだけなら、いいのだが、一番大事な面が伝わらなければ意味がない。
キャベツ畑のなかで、埋もれて頭だけだす松山ケンイチの姿は凄いインパクトがある。彼のとどまることを知らない自分勝手な想いが、周囲を巻き込み、すごい騒動になる、というストーリーはおもしろい。最初は困惑していた町子先生がいつのまには、死んでいる彼と生活する、というのもわからないではない。それだけに、『その先』が見たい。最後は脳みそになって、それをイノシシに食われて終わり、では納得いかない。頭だけがない町子先生のモトカレが出てきたあたりから、暴走が加速する。ここからが本番だったはずなのだ。
横浜聡子監督は自分の感性の赴くまま映画を自由に作る。それを周囲も許す。商業映画としては許されないことをすべてやり尽くして映画は完成した。それはそれで立派だと思う。だからこそ、その先、が見たい。
6月は仕事が忙しくてなかなか映画館に足を運べなかったが、今週、たまっていた映画をほぼ見ることが出来て、ほっとした。だが、その反動ですさまじい量の仕事がたまっている。あちらを立てればこちらが、立たずだ。
今週見た7本の最後を飾るのがこの映画だ。すでに一般上映は終了していて、レイトショーのみになっているのに、けっこう人が入っていた。それだけ注目を集めた、ということだろう。だが、僕にとってはなんとも言いがたい映画だった。期待の大きさが裏目に出たのか。だいたい絶賛の声を聞きすぎて、過剰な期待を抱きすぎたか?
問題は、ストーリーの奇抜さが、一人歩きして、ついていけなくなるところにある。津軽弁による台詞はいいのだが、これもやりすぎで、ほとんど話の内容がつかめない。半分くらいしか話してることがわからない日本映画なんて、初めてだろう。しかも、このパターンでの沖縄映画は字幕スーパーが出るのが常だったが、この映画はそんなことしない。もちろんこの内容で字幕を読まされたなら、ちょっと閉口するだろうが。作者の意図が先走りすぎて、映画がついてこれてないのだ。しかも、お話自身も後半どんどんエスカレ-トするし。過剰で過激な内容のストレートな純愛映画、という体裁は悪くない。だが、やりすぎは作者の才気ではなく、独りよがりにしかならない。そういう意味では石井裕也監督の『ばけもの模様』にも通じる。
心臓が止まっても町子先生(またもや、麻生久美子!)と一緒にいたい、という陽人(松山ケンイチ)の一途な気持ちが爆走する。その結果、しゃれではなく、ほんとに心臓が止まってしまうのだが、そのあまりの展開には唖然とする。しかも、心臓が止まっても生きている。愛のためなら死んでもいい、とはよく言う陳腐な言葉だが、それを本当にやってしまい、それでも生きるのだ。ゾンビではなく。彼のとどまることのない片思いの行き着く果ての何が待ち受けているのか。けっこうドキドキする。だが、町子先生の気持ちや、何よりも陽人自身の気持ちが伝わらないから、映画はただのゲテモノでしかなくなる。彼が町子先生に愛されるため、進化続けることが、生きていくうえでどんな意味を持つか、それが伝わらないことには、映画は納得のいくものにはならないのだ。伝わらないのが、津軽弁という言葉の意味であるだけなら、いいのだが、一番大事な面が伝わらなければ意味がない。
キャベツ畑のなかで、埋もれて頭だけだす松山ケンイチの姿は凄いインパクトがある。彼のとどまることを知らない自分勝手な想いが、周囲を巻き込み、すごい騒動になる、というストーリーはおもしろい。最初は困惑していた町子先生がいつのまには、死んでいる彼と生活する、というのもわからないではない。それだけに、『その先』が見たい。最後は脳みそになって、それをイノシシに食われて終わり、では納得いかない。頭だけがない町子先生のモトカレが出てきたあたりから、暴走が加速する。ここからが本番だったはずなのだ。
横浜聡子監督は自分の感性の赴くまま映画を自由に作る。それを周囲も許す。商業映画としては許されないことをすべてやり尽くして映画は完成した。それはそれで立派だと思う。だからこそ、その先、が見たい。