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映画・演劇のレビュー

『アレクサンドリア』

2012-01-02 14:28:51 | 映画
こういう歴史劇が今の時代に作られるって凄い。しかも一見アナクロ企画に見えるのだが、実はそうではない。ここには人間の営みの愚かさがきちんと描かれてあるから、今の時代に充分通用するし、意味がある。

 宗教戦争という人間が今も延々と繰り返していることを、この紀元4世紀のエジプト、アレキサンドリアを舞台にした映画が、とてもわかりやすくモデルケースとして、示す。多数の論理で、少数派を駆逐していくやり方は、今も昔も変わらない。永遠に繰り返される人間の愚かな行為だ。宇宙の視点から人の営みの卑小さを捉える、という図式は描き方次第ではとてもつまらないものとなりかねないのだが、この映画は主人公であるレイチェル・ワイズの頑なな冷静さによって成功している。映画はぶれない。彼女の視点を確保したことで、つまらないパターンには陥らない。それどころか、とても新鮮な驚きがある。宇宙からズームインしたり、ズームアウトしたりする、シーンがあるが、その大仰さが滑稽にはならないのだ。それどころか映画のテーマを明確にする。


 哲学者として、人間の営みをみつめる彼女が、政治的な抗争に巻き込まれて、殺されるまでを、歴史劇としてではなく、宇宙の真理を極めて行く内面のドラマとして、見せる。確かにこれは壮大なスペクタクルでもある。ビジュアル面でも圧倒的なモブシーンも用意されているのだが、ハリウッド式の見世物映画とは一線を画する。描きたいのはそんなことではなく、このちっぽけな町での、つまらない争いが、彼女の考える地球や太陽、宇宙を巡る壮大なスケールの物語を駆逐していく愚行を描くのだ。この町や、この国や、この世界全体よりも、彼女が見つめる自分の心の中のほうがずっと大きい。そこには宇宙の中の自分というスケールの葛藤があるのだ。

 既存の宗教が、キリスト教に敗れ、さらにはキリスト教とユダヤ教の対立やら、なんやらで、なにがなんだかわからなくなる。そんな中で当時としては考えられない知の殿堂であったアレクサンドリアの図書館の蔵書が廃塵と化す。ひとりひとりのドラマ以上にそういう大きな歴史の図式から見えてくるものが、この作品を形作るのがおもしろい。

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