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映画・演劇のレビュー

『海難1890』

2015-12-14 21:34:22 | 映画
これはとても真面目な映画である。誠実に事実を伝えようとしている。フィクションとしての映画ゆえ事実にいくらかの誇張や編集はあるのだろうが、実話をいびつに歪めることなく、そこに込められたひとりひとりの想いに忠実に描こうとしたはずだ。

しかし、あまりにストレートすぎて物足りない。事実をそのまま加工せずに再現することのみに腐心する。その禁欲的な姿勢は評価されていい。しかし、そこには映画としての面白さはない。そこにはお決まりのパターン以上のドラマがない。これは再現ドラマか、と思うくらいのレベルだ。

しかし、これを再現するのは、とんでもないほどの困難がある。映画を見ながら、そんな撮影の困難ばかりが気になった。どれだけの労力がここに費やされたか。そればかりに気を取られて、映画がおろそかになるほどだ。要するに、それくらい映画に集中できないのである。

お話は感動的である。美談だ。いいなぁ、と思う。人の心がこんなにも美しく、心と心がこんなふうに通じ合えたなら、いい。しかし、現実はこんなにも美しくはない。もっと、醜い。いくら事実をベースにしたとしても、これはきれいごとに思える。

明治22年の日本で、あんなに流暢に英語を話せる日本人がいたのか。しかも、彼は通訳ではなく、医者である。相手はトルコ人で、トルコ語をしゃべっているのに、堂々と英語で話しかける。和歌山の僻地の島で埋もれて暮らす男が、たったひとりで村人たちを動かして救助の指揮を執る。あまりに立派過ぎないか。

95年後のテヘラン邦人救出事件におけるトルコ大統領もそうだ。あまりに立派すぎて、本当なのか、と思わされる。トルコは日本政府から見殺しにされる日本人を助けるためにぎりぎりになってもう一機、飛行機を飛ばすという決断をする。しかも、自国民よりも日本人を優先する。ありえない。こんな美談が現実にあったのだろうが、その背景はこんなにもきれいごとではなかったはずだ。

ただ、この時の日本政府の対応だけはなんだか、やけにリアルだ。リスクを冒してまで、救援はしない、という非情さは、この国らしい。戦火のテヘランに邦人を見殺しにしてもいい、という判断を日本政府は下す。仕方ない、ということだろう。トルコは日本人のために自国民を後回しにしても飛行機を飛ばしても、日本は民間機だけではなく、自衛隊機も危険だから飛ばさない。それって凄い。映画はあえてそこには言及しない。

日本とトルコの友情を描くなんていうけど、別々の、しかも100年近くも時の離れたふたつの出来事をつないで、友好で括る。凄いけど、なんだかなぁ、と思う。

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