今年のベスト・ワンである。まだ10ヶ月もあるのに気が早いだなんて言わないで欲しい。1年間本を読むとどれだけの作品に出逢えれるのかなんて、自分が一番良くわかっている。だから言うのだ。たぶん、間違いはない。これは小川洋子の数ある傑作の中でも突出した作品だ。
老人専用マンション・エチュードでの老婆令嬢との再会のところから、もう涙は止まらなかった。優しすぎる。ラストの死まで、ずっと泣いてた。いつものように通勤の京阪電車の中で。
リトルアリョーヒン。彼のように。こんなふうに生きれたならほんとうに幸せだと思う。多くの人に知られることなくひっそりと生き、そして死んでいく。でも、チェスの神さまに見守られ、誰よりも幸せな人生を全うした。彼の人生はチェスとともにあり、チェスと一緒に生きた。これは、そんな彼の奇跡の物語である。
デパートの屋上から降りれなくなった象、インディラと、壁と壁のすきまの閉じ込められたミイラの話を導入にして、少年がチェスと出逢っていく物語は始まる。回送バスの中で暮すマスターとの出会い。少年はマスターからチェスの手解きを受ける。2人はいつもバスの中でチェスをする。甘いものが大好きで体がどんどん大きくなったマスターはバスから出られなくなり、死んでいく。
少年は大きくなることを拒否する生き方を選び取る。『ブリキの太鼓』のオスカーのような激しさとは無縁だが、彼の強固な意志は変わらない。成長への恐怖はこの作品の基調低音をなす。しかし、彼はただ現実から逃げているわけではない。結果として自分にふさわしい場所は向こうからやってきて、それを受け入れることで人生が決まっていく。現実を切り開いていくことはない。自然に受け入れただけだ。でも、それが結果としてある種の奇跡を生む。これは小さな話だ。すぐに人々の記憶のかたすみから零れ落ちていきそうなくらいにささやかだ。だから愛しい。
人が生きるということは、こんなふうに密やかなものだ。みんなから認められ華やかな舞台で注目されることではない。そんな人も一握りだがいるだろう。だが才能があっても埋もれてしまう人はたくさんいる。市井のほとんど誰も知らないような人が、ほんとうは凄い才能を持っているなんてことは多々ある。それは不幸なことかというと、そうではない。充分に彼(彼女)が、満足のいく人生を送れたならそれでいい。大切なことは自分にふさわしい生き方をしたと自分が思えることだろう。
どうでもいいことをくだくだ書いたのは、この主人公の生き方がもどかしさとは無縁で、でもなんだか悲しい気がしたからだ。納得するのだが、寂しい。だからこんなことを自分に言い聞かせたくなったのだ。
リトル・アリョーヒンはマスターの残したチェス盤の下に入り人形である『リトル・アリョーヒン』の操作をしてチェスをする。自分の姿も声も曝すことなくただ黙々と彼の前に座る相手と対局をする。たくさんの人とのチェスを通じて、彼はいくつもの美しい棋譜を作り上げる。彼を見守ってくれた少女との秘かな心の交流を通して、自分らしい人生を全うした。そのことに深い意味がある。
表舞台に出てみんなから注目され、喝采を受けたいなんて一切思わない。「僕は体が小さいから人形に入っているわけではありません。チェス盤の下からしかチェスが指せないでいたら、いつの間にか小さくなっただけです。ずっと昔からチェス盤の下が僕の居場所なんです。」と総婦長さんに語る。
自分にふさわしい場所で生き、ほんの一握りの大切な人たちから愛されて、彼を必要とする人たちのために対局を繰り広げる。そして人知れず死んでいく。自分の場所で「生き、死ぬ」ことが出来る人なんて、そうそういない。そう考えると彼はやはりとても幸せな人なのだ。
老人専用マンション・エチュードでの老婆令嬢との再会のところから、もう涙は止まらなかった。優しすぎる。ラストの死まで、ずっと泣いてた。いつものように通勤の京阪電車の中で。
リトルアリョーヒン。彼のように。こんなふうに生きれたならほんとうに幸せだと思う。多くの人に知られることなくひっそりと生き、そして死んでいく。でも、チェスの神さまに見守られ、誰よりも幸せな人生を全うした。彼の人生はチェスとともにあり、チェスと一緒に生きた。これは、そんな彼の奇跡の物語である。
デパートの屋上から降りれなくなった象、インディラと、壁と壁のすきまの閉じ込められたミイラの話を導入にして、少年がチェスと出逢っていく物語は始まる。回送バスの中で暮すマスターとの出会い。少年はマスターからチェスの手解きを受ける。2人はいつもバスの中でチェスをする。甘いものが大好きで体がどんどん大きくなったマスターはバスから出られなくなり、死んでいく。
少年は大きくなることを拒否する生き方を選び取る。『ブリキの太鼓』のオスカーのような激しさとは無縁だが、彼の強固な意志は変わらない。成長への恐怖はこの作品の基調低音をなす。しかし、彼はただ現実から逃げているわけではない。結果として自分にふさわしい場所は向こうからやってきて、それを受け入れることで人生が決まっていく。現実を切り開いていくことはない。自然に受け入れただけだ。でも、それが結果としてある種の奇跡を生む。これは小さな話だ。すぐに人々の記憶のかたすみから零れ落ちていきそうなくらいにささやかだ。だから愛しい。
人が生きるということは、こんなふうに密やかなものだ。みんなから認められ華やかな舞台で注目されることではない。そんな人も一握りだがいるだろう。だが才能があっても埋もれてしまう人はたくさんいる。市井のほとんど誰も知らないような人が、ほんとうは凄い才能を持っているなんてことは多々ある。それは不幸なことかというと、そうではない。充分に彼(彼女)が、満足のいく人生を送れたならそれでいい。大切なことは自分にふさわしい生き方をしたと自分が思えることだろう。
どうでもいいことをくだくだ書いたのは、この主人公の生き方がもどかしさとは無縁で、でもなんだか悲しい気がしたからだ。納得するのだが、寂しい。だからこんなことを自分に言い聞かせたくなったのだ。
リトル・アリョーヒンはマスターの残したチェス盤の下に入り人形である『リトル・アリョーヒン』の操作をしてチェスをする。自分の姿も声も曝すことなくただ黙々と彼の前に座る相手と対局をする。たくさんの人とのチェスを通じて、彼はいくつもの美しい棋譜を作り上げる。彼を見守ってくれた少女との秘かな心の交流を通して、自分らしい人生を全うした。そのことに深い意味がある。
表舞台に出てみんなから注目され、喝采を受けたいなんて一切思わない。「僕は体が小さいから人形に入っているわけではありません。チェス盤の下からしかチェスが指せないでいたら、いつの間にか小さくなっただけです。ずっと昔からチェス盤の下が僕の居場所なんです。」と総婦長さんに語る。
自分にふさわしい場所で生き、ほんの一握りの大切な人たちから愛されて、彼を必要とする人たちのために対局を繰り広げる。そして人知れず死んでいく。自分の場所で「生き、死ぬ」ことが出来る人なんて、そうそういない。そう考えると彼はやはりとても幸せな人なのだ。