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映画・演劇のレビュー

瀬尾まいこ『あと少し、もう少し』

2013-02-25 21:21:36 | その他
 駅伝物である。『風が強く吹いている』がある以上、どうしてもハードルは高くなる。でも、瀬尾まいこだから、大丈夫だ。主人公は田舎の中学3年生。だから、舞台は箱根ではない。中学生活最後の駅伝大会だ。でも、これは彼らにとって箱根と同じ。死ぬ気で戦うしかない。彼らにとってこの戦いが最後なのだ。この後、高校に行けばもっと、ハイレベルで、すごいことが待ち受けているかもしれない。でも、それはまた別のお話だ。今この瞬間には関係ない。かけがえのない唯一無二の時間の中で、全力を尽くすしかない。

 それがどれほど大きな大会であるか、どうかなんか彼らには関係ない。6人で襷を繋ぐ。お互いが信頼しあい、ひとつになる。これは6話からなるお話だ。大会の日、1区から最終の6区まで、6人のそれぞれの想いが描かれる。みんなそれぞれの事情がある。主人公であるキャプテン桝井くんはいつも笑顔で、信頼されている。どうしてあんなにも、明るいのか、なんで何があってもへこたれないのか。でも、本当はそうじゃない。最後の彼の話に至るまでで、彼の抱える事情が少しずつ明確になっていく。新しく顧問になった何一つ陸上のことを知らない上原先生が、彼らと一緒に過ごすうちに、だんだん頼もしくなっていく姿も、パターンだが、よく書けている。表面的なパターンの先に、パターンにおさまらないものがちゃんとあるのもいい。

 この作品がすばらしいのは、何一つ特別なことは描かれていないことだ。どこにでもある、誰にでもあることが、ちゃんと丁寧に描かれる。それが、この作品の魅力だ。先日『レガッタ』を読んだとき、さらりとした話として、〈作っている〉と思った。そこに作者の作為を感じたのだ。でも、この小説にはそれがない。これはとても微妙な問題なのだが、その差は大きい。あの濱野京子ですら、そうなのである。こういう小説は簡単そうに見えて、実はかなり難しいのだ。特別じゃない、ということを特別なこととしてさりげなく見せるって、普通じゃない。

 誰もが自分の人生の中では、主人公だ。だが、実際に小説の中でそれを描くのは困難である。受け取り手が(読者のこと、ね)そうは思ってくれないからだ。これは小説だから、と少しでも思ったらそれだけで失敗になる。小説を読みながら、小説じゃない、と思わせること。しかも、作為的にではなく。

 6人のキャラクターはある種のパターンにならざる得ない。でも、それはダメなことではなく、当然のことだろう。でも、そこからそれぞれが輝いているように描くこと。そうすることで、彼らは特別になる。もちろん、それは自分にとっての特別なのだが、それでいい。他人にはわからないものがある。いくら説明してもその気分は本人にしかわからないし、他人に分かってもらう必要はない。そんな気分をこの小説は読者に伝える。

 それは、ただのお話ではないのだ。それぞれが自分の問題を抱えて生きている。他人にはわからないことだ。その中で、自分と折り合いをつけて、生きる。何が正しくて何が間違いであるかなんか、本人にもわからない。たった3キロ走って、襷を渡すだけ。でも、そのことが、彼らの心をひとつにする。

 上原先生のキャラクターがおもしろい。天然であるにもかかわらず、それだからこそ、こういう奇跡を生む。でも、そのことに、本人は気付かない。もし、気付いたらつまらない女になる。いろんな先生がいればいい。生徒に助けられなくては何もできないような教師も必要なのだ。というか、そんな先生こそ、貴重だ。先生は生徒に教えられて成長する。同じように、先生を支えることで、生徒はちゃんと成長する。教えられたことをこなすだけでは、成長はない。

 何かが変わったのか、それはわからない。もっとずっと後になって忘れたころに、気付くのだろう。あれはなんだったのか。あれが、今の自分を作っているのだ、とか。この小説の6人は、駅伝を通して、そんな大事なことを学ぶ。学校という場所はだから貴重なのだ。


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