桃園会の新作は、深津さんの短編3作品を、ジャブジャブサーキットのはせひろいちさん、遊劇体のキタモトマサヤさん、そして深津さん自身の3人が演出するという夢のような企画だった。しかし、深津さんの病気によって演出ははせさんとキタモトさんの2人が担当することとなり、深津さんは監修という形で作品に携わることとなった。
だが、これはこれで夢のコラボレーションであることに変わりはない。だいたい上演中止にならなかったことだけでも、とてもうれしい。しかも、劇場で深津さんにお会いできた。なんだか、それだけでも幸せな気分だ。
当日パンフにもあるが、今回の『カラカラ』(95)、『月灯の瞬き』(02)、そして、書き下ろしである新作の『ぐり、ぐりっと』(09)は、7年刻みで作られている。この3作品を見ることで、桃園会のここまでの歴史を鳥瞰することも可能だ。新作から過去に遡っていくというスタイルも、とてもいい。作品が軽いものから、徐々に重くなっていくという移行のさせ方がいい。桃園会の3作品を通して、遡行していく形で桃園会の現在から原点を見つめ直すことで、深津作品が今後どんな方向に向かうのかをみつめるための好企画でもある。今、ここでしっかり足踏みすることがきっと次の飛躍につながるはずだ。
今回、演出を担当した両氏は桃園会という集団のことをよく理解している。そしてそれは同時に深津作品のよき理解者でもあるということだ。いつもとは一味違うのに本質を見事捉えている。
はせさんの抑えたタッチがすばらしい。深津作品をきちんと形にしながら深津演出との差異もしっかり提示する。特に『ぐり、ぐりっと』の軽みは、はせさんの独壇場だろう。深津作品の忠実な再現でありながら、はせさん独自のユーモアが、ちらっちらっと見え隠れする。それは今回MONOの金替康博さんをキャストとして迎えたことも大きい。彼のすっとぼけた感じが、作品のアクセントになった。私(橋本健司)が、ヤマダさん(金替)と、彼の神さま(大熊ねこ)と出会うところから始まる不思議なお話は短編ならではの魅力を示す。核心にまでは迫らないことで、この世界自体を静かに伝える。突き詰めていこうとするいつもの深津作品とは微妙に肌触りが違う作品に仕上がった。
続く『月灯の瞬き』はいかにも深津作品らしいもので、静謐の中にある心の闇を照らし出す。これをはせさんは自分の色を消してじっくり作り上げる。
そして『カラカラ』だ。このアイホールで上演したロング・バージョンも見ている。もちろん初演も見た。その後、2部作として再構成した長編作品も見ている。深津さんがくりかえしくりかえしこの作品に拘ったのは、阪神大震災という事実だけではなく、ここに深津作品の求めたテーマがはっきりとあったからだ。被災地の体育館。家を、肉親を失って、心が空っぽになってしまった人たち。一瞬にして、未来を失った彼らの現実が点描されていく。痛ましい、というのではない。何も考えられないでいる時間をただ呆然とみつめていく。
キタモトさんはこの作品をもう一度上演するにあたって「震災直後の被災地という時間と場所の規定を取り去ることから始めてみた」と言う。彼のアプローチは正しい。ある種の抽象性を獲得することにより、この作品の本質はより明確になる。そしてそれが深津さんがここに求めたものである。演出の正しい判断のもと、役者たちもまた、ある種の距離感を持ってこの作品世界と向き合うこととなった。作品の中心には亀岡寿行さんの車椅子の男と、森川万里さんの少年のような少女がいる。それだけでも充分にこの作品が成立する。
だが、これはこれで夢のコラボレーションであることに変わりはない。だいたい上演中止にならなかったことだけでも、とてもうれしい。しかも、劇場で深津さんにお会いできた。なんだか、それだけでも幸せな気分だ。
当日パンフにもあるが、今回の『カラカラ』(95)、『月灯の瞬き』(02)、そして、書き下ろしである新作の『ぐり、ぐりっと』(09)は、7年刻みで作られている。この3作品を見ることで、桃園会のここまでの歴史を鳥瞰することも可能だ。新作から過去に遡っていくというスタイルも、とてもいい。作品が軽いものから、徐々に重くなっていくという移行のさせ方がいい。桃園会の3作品を通して、遡行していく形で桃園会の現在から原点を見つめ直すことで、深津作品が今後どんな方向に向かうのかをみつめるための好企画でもある。今、ここでしっかり足踏みすることがきっと次の飛躍につながるはずだ。
今回、演出を担当した両氏は桃園会という集団のことをよく理解している。そしてそれは同時に深津作品のよき理解者でもあるということだ。いつもとは一味違うのに本質を見事捉えている。
はせさんの抑えたタッチがすばらしい。深津作品をきちんと形にしながら深津演出との差異もしっかり提示する。特に『ぐり、ぐりっと』の軽みは、はせさんの独壇場だろう。深津作品の忠実な再現でありながら、はせさん独自のユーモアが、ちらっちらっと見え隠れする。それは今回MONOの金替康博さんをキャストとして迎えたことも大きい。彼のすっとぼけた感じが、作品のアクセントになった。私(橋本健司)が、ヤマダさん(金替)と、彼の神さま(大熊ねこ)と出会うところから始まる不思議なお話は短編ならではの魅力を示す。核心にまでは迫らないことで、この世界自体を静かに伝える。突き詰めていこうとするいつもの深津作品とは微妙に肌触りが違う作品に仕上がった。
続く『月灯の瞬き』はいかにも深津作品らしいもので、静謐の中にある心の闇を照らし出す。これをはせさんは自分の色を消してじっくり作り上げる。
そして『カラカラ』だ。このアイホールで上演したロング・バージョンも見ている。もちろん初演も見た。その後、2部作として再構成した長編作品も見ている。深津さんがくりかえしくりかえしこの作品に拘ったのは、阪神大震災という事実だけではなく、ここに深津作品の求めたテーマがはっきりとあったからだ。被災地の体育館。家を、肉親を失って、心が空っぽになってしまった人たち。一瞬にして、未来を失った彼らの現実が点描されていく。痛ましい、というのではない。何も考えられないでいる時間をただ呆然とみつめていく。
キタモトさんはこの作品をもう一度上演するにあたって「震災直後の被災地という時間と場所の規定を取り去ることから始めてみた」と言う。彼のアプローチは正しい。ある種の抽象性を獲得することにより、この作品の本質はより明確になる。そしてそれが深津さんがここに求めたものである。演出の正しい判断のもと、役者たちもまた、ある種の距離感を持ってこの作品世界と向き合うこととなった。作品の中心には亀岡寿行さんの車椅子の男と、森川万里さんの少年のような少女がいる。それだけでも充分にこの作品が成立する。