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映画・演劇のレビュー

『僕の、世界の中心は、君だ。』

2006-09-01 21:35:05 | 映画
 この映画はオリジナルのあの大ヒット作を完全に凌駕している。日本公開タイトルがまた秀逸だ。「世界の中心」を場所とするオリジナルに対し、この韓国版の「僕の世界の中心」を彼女の存在自体とするタイトルは映画自体の性格をよく示唆している。

 テンポよく展開する高校生たちの群像劇。回想スタイルで語られる10数年前の恋物語。ノスタルジーでしかないのは分かっているが、とても心地よい。嘘っぽい話もしつこくなる直前で止められているのもうまい。死んでしまった彼女との出会いから別れまでが、静かに描かれる。彼女と自分しか世界にはいない。そんな寓話として映画自体も閉じている。ずっと思い続けること、とか彼女の死から立ち直れないで生きることとか必要以上に作品世界を広げないのがいい。「君」の事だけを語るための映画に終始する潔さが心地よい。

 感傷を何時までも引きずり自分だけの世界で甘えるオリジナルとは取り組む姿勢が違う。もちろん行定勲の作品のいじけ方は面白いし回想シーンの甘く切ない雰囲気は大好きだったが、それでもオーストラリアまで行き「愛を叫」ばなくてもいいと思った。

 韓国版は結果的に、あたりまえでしかない普通の恋愛映画になってしまった気もする。それではこの原作を映画化する意味はないかもしれない。ただ美しいだけの映画かもしれないが、たまにはそんな映画があってもいい。

 細部の描写がうまい。祖父とのやり取りがとてもいい。写真館を葬儀屋に改変したことでさらにテーマを明確にしたのも良い。

 この映画が美しい思い出を美しいままでとどめて映像化したような作品であり、これは特別な恋物語ではなく、誰の中にもある普遍的な高校時代の懐かしいドラマでしかない。唯一絶対と信じた恋人が死んでしまった経験も、もちろん学園一のマドンナに告白されたような経験もない。ただの平凡なチャ・テヒョンのようにぼんやりした目立たない男の子の、もしかしたら装飾されたあの頃の記憶の中の風景。

 これはたとえば、大林宣彦監督の尾道三部作のような作品だと思えばいい。男の子と女の子の体が入れ替わったり、時を駆けてしまったり、へんてこな女の子がやってきたりしたのと同じように、学校で一番きれいな女の子が彼のようなどう考えてもさえない男の子を好きになってしまうのである。
 
 それはノスタルジアだから許される。リアルの地平で、夢物語でないものを語ろうとしたオリジナルを、もう一度夢物語の次元に戻したのがこの映画であり、だからこの映画には現実の場所としての世界の中心なんて必要がなく、君の存在だけが僕の世界に中心となるのである。

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