夏目漱石の『坊っちゃん』というテキストを使って、2本の芝居を作り上げる。それを連続して見せる。自由脚色という域を大きく踏み外して、2人の作家が大胆な構成、演出で、一見とても単純なこの小説を思いもしないものへと、作り上げて(作り変えて)いく。テキストを解体して、自分の方法論のもと、独自のアプローチを試みる。これは漱石について、あるいは、現代の日本が置かれた現状に対しての考察ですらある。
同じテキストによるものとは到底思えないほどに、2作品は全く別種のものになっているのが、面白い。これを『坊っちゃん』という小説の舞台化作品として、見に来たお客さんはさぞかし驚かれたことだろう。単純、明朗、痛快、青春小説を期待した向きには、ひんしゅくを買うことになったはずだ。泉寛介さんもくるみざわしんさんも、まるで、そんなものをここに提示する気はさらさらない。
単純にお話追うわけではない。というか、彼らはお話を見せることには頓着しない。そういう意味ではこれはとても不親切な芝居だ。しかし、『坊っちゃん』というテキストを使ってこんなにも刺激的な作品に仕立てた。だからこれは画期的な作品だと断言できる。
特に泉さんのバージョンはこの小説がこんな作品だったのか、と改めて教えられるくらいに新鮮だった。作品の解釈によって、見えてくるものがこんなにも違う。こちらは一応ちゃんとストーリーを追いかけてある。しかし、その見せ方が大胆で、物語よりもその方法論に気を取られてしまい、大切なものを見失いそうになる。坊っちゃんと清(彼が唯一心を許せる存在)との関係を中心に据えて、めちゃくちゃで、破滅的な彼の生き方を描く。だが、描きたいのはその根底にあるものだ。そこをしっかりと見据える。彼の中にある怒りをラップで表現するというのは、ある意味短絡的にも見えるが、そのストレートさがこの作品の力となっているのも事実なのだ。漱石の中にある怒り、腹立ち、不安をこういう形で指し示し、そのむこうに魂の平安である清の存在を置く。彼の行動は破滅的ではあるが、そういう衝動は誰の中にもある。無軌道で攻撃的。反社会的にも見えるが、それは世の中の不正に対するまっすぐな反発という単純な正義感ではない。自らの鬱屈する心情を爆発ためだけのとてもわがままな行為にすら見える。どこにむけて彼は戦いを仕掛けているのか。その暴力的な衝動をこの作品は見事に捉えている。
そんな泉作品の後に見たくるみざわ作品は、対照的に大人のアプローチを見せる。とても冷静な分析がなされる。『坊っちゃん』と漱石をイコールで示し、松山行きと、ロンドン留学を重ねる。日本と世界(イギリス)のはざまで苦しむ漱石の姿をそこに見る。それは明治の日本の置かれた状況であり、それが3・11以降の我々の問題とも重ねあわされる。これもまた、とても大胆な解釈だ。ただ、すこし、大胆すぎて、少し、つまらない。なんだか図式的すぎる気がする。そういう解釈はわからないでもないし、漱石の「日本は滅びるね」という感慨は『三四郎』からスタートしたのではなく、『坊っちゃん』の頃から変わらない一貫したものだ、という解釈は悪くはない。しかし、自らの図式にテキストを強引に当てはめすぎて、作品自身から可能性が損なわれてしまった気がする。これはくるみざわさんの考えでしかなく、『坊っちゃん』という作品の舞台化作品ではない。理屈では割り切れないものがここにはあったはずなのに、それをすべて自らの理屈の中に納まりよく収斂させてしまったのは惜しい。とても、おもしろい解釈だし、3・11以降の日本をここに重ねるという試みは刺激的だ。しかし、「坊っちゃん」という青年の破天荒で破滅的な生きざまをエネルギッシュに描いた泉作品の後で見ると、あまりに理路整然とまとまりすぎたこの作品は物足りない。
まるで別方向を向いた2作品を同時上演するこの試みは、『坊っちゃん』というみんなが知っているお話に秘められた可能性を見事に提示して見せた。画期的な作品である。
同じテキストによるものとは到底思えないほどに、2作品は全く別種のものになっているのが、面白い。これを『坊っちゃん』という小説の舞台化作品として、見に来たお客さんはさぞかし驚かれたことだろう。単純、明朗、痛快、青春小説を期待した向きには、ひんしゅくを買うことになったはずだ。泉寛介さんもくるみざわしんさんも、まるで、そんなものをここに提示する気はさらさらない。
単純にお話追うわけではない。というか、彼らはお話を見せることには頓着しない。そういう意味ではこれはとても不親切な芝居だ。しかし、『坊っちゃん』というテキストを使ってこんなにも刺激的な作品に仕立てた。だからこれは画期的な作品だと断言できる。
特に泉さんのバージョンはこの小説がこんな作品だったのか、と改めて教えられるくらいに新鮮だった。作品の解釈によって、見えてくるものがこんなにも違う。こちらは一応ちゃんとストーリーを追いかけてある。しかし、その見せ方が大胆で、物語よりもその方法論に気を取られてしまい、大切なものを見失いそうになる。坊っちゃんと清(彼が唯一心を許せる存在)との関係を中心に据えて、めちゃくちゃで、破滅的な彼の生き方を描く。だが、描きたいのはその根底にあるものだ。そこをしっかりと見据える。彼の中にある怒りをラップで表現するというのは、ある意味短絡的にも見えるが、そのストレートさがこの作品の力となっているのも事実なのだ。漱石の中にある怒り、腹立ち、不安をこういう形で指し示し、そのむこうに魂の平安である清の存在を置く。彼の行動は破滅的ではあるが、そういう衝動は誰の中にもある。無軌道で攻撃的。反社会的にも見えるが、それは世の中の不正に対するまっすぐな反発という単純な正義感ではない。自らの鬱屈する心情を爆発ためだけのとてもわがままな行為にすら見える。どこにむけて彼は戦いを仕掛けているのか。その暴力的な衝動をこの作品は見事に捉えている。
そんな泉作品の後に見たくるみざわ作品は、対照的に大人のアプローチを見せる。とても冷静な分析がなされる。『坊っちゃん』と漱石をイコールで示し、松山行きと、ロンドン留学を重ねる。日本と世界(イギリス)のはざまで苦しむ漱石の姿をそこに見る。それは明治の日本の置かれた状況であり、それが3・11以降の我々の問題とも重ねあわされる。これもまた、とても大胆な解釈だ。ただ、すこし、大胆すぎて、少し、つまらない。なんだか図式的すぎる気がする。そういう解釈はわからないでもないし、漱石の「日本は滅びるね」という感慨は『三四郎』からスタートしたのではなく、『坊っちゃん』の頃から変わらない一貫したものだ、という解釈は悪くはない。しかし、自らの図式にテキストを強引に当てはめすぎて、作品自身から可能性が損なわれてしまった気がする。これはくるみざわさんの考えでしかなく、『坊っちゃん』という作品の舞台化作品ではない。理屈では割り切れないものがここにはあったはずなのに、それをすべて自らの理屈の中に納まりよく収斂させてしまったのは惜しい。とても、おもしろい解釈だし、3・11以降の日本をここに重ねるという試みは刺激的だ。しかし、「坊っちゃん」という青年の破天荒で破滅的な生きざまをエネルギッシュに描いた泉作品の後で見ると、あまりに理路整然とまとまりすぎたこの作品は物足りない。
まるで別方向を向いた2作品を同時上演するこの試みは、『坊っちゃん』というみんなが知っているお話に秘められた可能性を見事に提示して見せた。画期的な作品である。