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映画・演劇のレビュー

辻仁成『ピアニシモ ピアニシモ』

2007-06-14 22:11:58 | その他
 こういう観念的な小説は確固とした世界観を読者に浸透させなくては途中からしらけてしまいついていけなくなる。18年前に書いたデビュー作の続編を、3部構成で見せていく本作は、作者の成熟と失われることのない瑞々しさが迸る佳作になっている。と、言いたいところだがかなり微妙なところでリアリティーの欠如から作者の独りよがりにしかならないものになっている。

 学校の地下にあるもう一つの学校。そこは死者の世界で、そこから生者の世界である地上の人たちは監視されている。意識下のドラマをこういう図式の中で展開していくとき、社会的な視点と、主人公であるトオルの内面を描く個人的な視点が、どれほど上手く融合していくか、という1点さえクリアできたなら、リアルを獲得できるのだが、第3部で完全に意識下の物語という枠組みの中に全体を収斂させてしまったので、世界がそこで急速に萎んでしまう事になった。

 ヒカルとトオルという2人の対立と友愛の歴史が根底にあり、2人は一人であると同時に別の存在でもあるという基本設定を覆してはならない。たとえ読者も含めすべての人たちがヒカルはトオルの妄想が産んだ人物だと信じても、作者ひとりはそうじゃないんだ、という視点を守らなくてはこの作品は成立しないのに、シラトと同じようにトオルまで、ヒカルを打消していき、作者すらそういう視点を持つ時、この作品は崩壊していく。

 シラトという男の心を持った女が、トオルの心を捕らえ、この2人の恋愛を通して、人と人とが支えあい、ともに生きていくことで、人は救われるという図式を引いたところまでは決して悪くはない。この単純な設定は、トオルとこの世界を救うための大切な設定となりえた。しかし、そこからシラトが脱落していき、彼(女)が生死を彷徨うとき、トオルが再び地下に降りて行き、彼(女)の命を救おうとするクライマックスがこの長編のラストとしては弱すぎる。

 そこまでで作り上げてきた<灰色>が支配する世界のあり方と、それに一人ぼっちで戦い続けていくトオルの物語が、全て彼の一人相撲の域を出ないのでは、この作品の存在意義すらないではないか。犬神つきに象徴されるこの世界にある悪はトオルの内側にも、外側にも確かにあるのだ。これは彼一人の問題ではなく、世界自体のあり方のお話のはずだ。そして、そのことを一番よく知っているのは作者である辻仁成ではないのか。それなのに、この結末はないのではないか。

 「もしも、この線を越えたら灰色に勝てるんじゃない?」「だってそれは愛だろ」というシラトの言葉はとても感動的で、この後の2人のラブシーンはとても美しい。欲望は悪ではなく力だ、というメッセージはしっかり伝わってくる。それだけに、この後のラストシークエンスには納得がいかない。

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