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映画・演劇のレビュー

『猿の惑星 創世記』

2011-10-13 23:56:55 | 映画
今、こういう映画が登場するのか! 古典映画を原作としているのに、その新鮮さに驚く。なんだか嬉しくなる。こういうのがありだったのだ。ありそうで今までなかったパターンである。これは、ただ単なる有名映画のリメイクではない。映画史に残る偉大な作品へのオマージュであり、あの映画への最大のリスペクトでもある。

あのオリジナルへの敬意なくして、この映画は生まれない。しかも、あの映画の魅力を損なわない。68年公開のあの映画はアメリカ映画の金字塔だ。あれだけ大胆な設定で、あれだけの大作を作り得た。いくら技術が進歩したとしても、あの映画を超える衝撃は不可能だ。だからこの映画もまた、原作のイメージを損なわないように細心の注意が払われている。

猿と人間の交流を描く前半部分がすばらしい。そこではジョン・リスゴー演じる老人とシーザーとの友情を描く部分を中心にして、ジェームズ・フランコ演じる主人公が自分の息子のようにシーザーを育てることで、飼育ではなく、親子のドラマをそこに現出させる。更には特殊な知能を持つことになったチンパンジーが、自分のアイデンティティーを求める。ここには彼の苦悩までもがちゃんと描かれる。

この後、彼だけでなくたくさんの猿たちが人間のような知能を持ち、彼らを抑圧してきた人類に復讐するというドラマ(オリジナルである原典『猿の惑星』につながる)が展開していくこととなるのだが、そこにむけてのブリッジになるドラマが提示出来ないままラストを迎える。そこがこの映画の弱点だ。

 驚異のSFXで人間とチンパンジーとの交流を描くドラマを成立させる。こんなにもリアルに哲学的な思索にふける猿を描く。そういう意味では確かに凄い。だが、そこから映画がどこに向かうのかが描けない。それで話が尻つぼみになる。発想のおもしろさを映画全体が支えきれないのだ。確かに映画はなぜ猿の惑星が生まれることとなったのか、という謎は解明する。そこに秘められたドラマもなかなか上手いとは思うが、そのアイデアが生かし切れないのだ。人間並みの知能を持つようになった猿たち。彼らによる暴走を描く終盤の展開はちょっと安易だ。この『猿の惑星 ビギニング』ともいうべきお話は、『猿の惑星 創世記』というタイトルの持つ重さを体現できてない。

 要するにこのままでは映画としての奥行きが感じられないのだ。ゴールデンゲートブリッジでの暴動シーンの迫力にまぎれて本来描くべきものがお座なりにされたまま急速に終幕を迎える。それってなんだか騙された気分だ。かなりいい線いっているだけに惜しい。

 でも、この映画はここまで出来たら十分なのかもしれない。その後はオリジナルを見ればいい。ここに必要なのはお話としてのリアリティーであって、リアルな理屈ではない。大体アルツハイマーの特効薬が猿の知能を急速に高めるなんていう基本線からして、嘘くさい。

寓話としてのこの映画はここで終わっている。大ヒットしたから続編を作るらしいが、それはバカバカしい話だ。原典である作品も大ヒットしたからその後4作も続編が生まれたのだが、いずれも無意味なつまらない作品で、この傑作を貶めることとなった。今回もその轍を踏むのだろう。相変わらず人間は猿より愚かだ。




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