昨日の授業でこの作品の紹介をするとき、生徒にタイトルを『光のなかにいてね』と言ってしまった。最近映画や小説のタイトルを間違えたり忘れることが多い。年を取ると誰もがそうなるのかもしれないが、まだ十分若いはずなのに、やばい。先日、「夏目漱石の『夢十夜』で一番面白い作品は授業で取り上げた1話と6話もいいけど、第9話だけどね」と言った後で少し不安になって調べると、健さんの話は第10夜だった。翌日にちゃんと修正したけど、なんだかやばい。思い込みもあるけど記憶違いや物忘れが凄まじいのだ。まぁ、この小説とは一切関係ない話だ。
さて、この小説なのだが、あまりに面白くてたった3日間で読み終えてしまった。残念なことだ。500ページ近くある大作だから3日かかったというのではない。3日しか楽しめなかったのが悔しい。ずっと読み続けていたかった。だからもっとゆっくり読めばよかった。でもついつい先が気になりどんどん読んでしまった。それでもセーブしたつもりだ。一気読みはしなかったし。読み終えたときこの先も、読みたいと思えた。終わるのが惜しいと思いつつ、昨晩3時ごろまでかかって最後まで読んだ。余韻に浸りながら本を閉じたのだが、今もふたりの姿が目に鮮やか。そこでついつい今彼女たちと同じ年齢である15歳の生徒たちに紹介したという次第だ。
これはふたりの女の子のお話だ。小さな小さなお話。だけど、彼女たちの人生においてささやかだけど最高の時間がそこにはある。7歳の時ふたりは出会った。毎週1回水曜日の午後、たった30分ほどだけ会うことが叶う。古びた団地のかたすみにある誰も来ない小さな公園で過ごす時間。母親に連れられてここにきて、彼女と出会った。それまで彼女は誰とも心を開いて付き合えなかった。なのに彼女にだけは自然に接することができた。でも、そんな幸せな時間はある日突然断たれる。(「羽のところ」)
8年後。15歳。高校に進学した。そこでふたりは再会する。偶然ではない。彼女が必死になってこの高校に入ったからだ。あの子に会うために。あの子は、とある私学の小学校の制服を着ていた。エリート校で小中高一貫教育の学校だったから、そこに入ればもう一度彼女と会えるのではないか、と縋った。どうしてそこまでして、と、きっと誰もが思うだろう。幼い日のほんの短い出会いが彼女にとってはかけがえのない時間だったから。もう一度あの子と会いたい。やっとふたりで過ごすことが叶う。でも、そんな幸福な時間はすぐに終わる。彼女は母親のせいで転校せざるを得なくなる。あの子に何も言えないまま、夜逃げして去っていく。(「雨のところ」)
そして、14年。29歳の再会。小説は3章仕立てだ。後半の第3章(「光のところ」)は大人になったふたりの再会から始まる。いくらなんでもこんな偶然はないだろ、とは思う。でもだからこそ、そんなお話がこの小説の核心を担う。本格的にお話が動き出すのはここからだ。(だけど、この小説の素晴らしいところはここまでの時間なのだけど。子供の頃の小さな話が心の突き刺さる)
ふたりは大人になった。子供の頃は不自由だったし、大人の事情に振り回されたけど、もう自由に生きられるはず。そんなふたりのその後が描かれる。お話としては最初の2章までのほうが圧倒的に面白いのだけど、一穂ミチが描きたかったのはこの後半戦なのだろう。分量的にも3章だけで300ページ近い。小さな世界が少しづつ広がる。最初は公園だけ。次は高校。そして最終章では和歌山の串本が舞台となる。といっても、ほとんどは二人の家と瀬々(彼女の娘)が通うフリースクールくらい。あとは海岸とか灯台とか二人が暮らす周囲の自然。
母親の呪縛がお話の背景にある。そこから派生するそれぞれの家庭が抱える問題も。お互いに支えあい、生きていく。でも、それは単純な友情物語ではない。果遠と結珠というふたりの名前はここまで書かなかったのは、彼女たちはふたりでひとりだと思ったからだ。まるで違う環境で育ったにもかかわらずふたりはリバーシブルな関係にある。ふたりはある種の魂の補完関係だ。だから離れてもひとつ。
ラストで三度目となる別れをするけど、最後の最後でそうはさせないというどんでん返しが描かれる。あの幕切れが鮮やかだ。運命なんか信じない。そんなもの自分たちの力で切り開く。優しい夫や娘(弟)に包まれてそれはそれで幸せだったのかもしれないけど、ふたりはたったひとりで、どうしようもなく過酷な運命と戦ってきた。そして、やっともう一度出会えた。やがて、たどりつく場所。「光のとこにいて」欲しいという願いが叶うのか。確かめて欲しい。これは今年最後の最高の小説だ。(たぶん)