何度か『宮城野』は見たことがあるが、今回のようなアプローチは初めてだ。とても個性的で興味深い。藍田マリンさんのこの作品に対する読み込みが反映されているのだろう。それを演出の猪岡千亮さんがきちんと手助けして、見せてくれる。
主人公である宮城野という娼婦の造形がいい。自分勝手で思い込みが激しく、一歩間違うと、ただの勘違い女にすら成りかねないという、とてもあやうい女性として、設定されてある。彼女は自らの不幸に対して受身になるのではなく、正面から受け止めて生きていこうとする。父に売られ、妹の幸福を願い、(なのに、彼女から見下され、ボロ雑巾のような扱いを受ける)それでも自分なりに1本筋を通していくことで、生き抜いていこうとする。思い込みの激しさは生きていくための演技である。そんな気持ちを持つことでしか生き抜いていけない。不幸な女として泣き崩れてしまうのではなく、いつも凛としている。
芝居の前半はセリフが前のめりになりすぎて、気持ちが付いていかないため、ちょっとやばいな、と思った。それはマリンさんだけではなく、それ以上に矢太郎役の吉田智道さんが酷く、もう少し抑えてくれなくては芝居自体が空中分解してしまいそうだった。オーバーアクトは、彼らの激しい感情の揺れを描くためのひとつの方法かもしれないが、一歩間違えばこの芝居全体を破壊しかねない。そんなかなり危険な状態で芝居は推移していく。見ていて内容とは別の次元でドキドキしてしまった。
だが、終盤、マリンさんの一人芝居になったところから、作品が主人公の気持ちにようやく追いついてきて、彼女も自分のリズムで芝居全体をセーブできるようになる。(こういう印象はもしかしたら、初日に見たためで、その後は少し変わったかもしれない)
自分のしていることは間違っているかもしれない。しかし、自分はこんな自分の生き方を信じる。だから、最後まで突っ走って走り抜けてみせる。そんな宮城野の切なる気持ちがしっかり伝わってくる。それはもちろんこの芝居に賭ける藍田マリンさんの想いでもある。
主人公である宮城野という娼婦の造形がいい。自分勝手で思い込みが激しく、一歩間違うと、ただの勘違い女にすら成りかねないという、とてもあやうい女性として、設定されてある。彼女は自らの不幸に対して受身になるのではなく、正面から受け止めて生きていこうとする。父に売られ、妹の幸福を願い、(なのに、彼女から見下され、ボロ雑巾のような扱いを受ける)それでも自分なりに1本筋を通していくことで、生き抜いていこうとする。思い込みの激しさは生きていくための演技である。そんな気持ちを持つことでしか生き抜いていけない。不幸な女として泣き崩れてしまうのではなく、いつも凛としている。
芝居の前半はセリフが前のめりになりすぎて、気持ちが付いていかないため、ちょっとやばいな、と思った。それはマリンさんだけではなく、それ以上に矢太郎役の吉田智道さんが酷く、もう少し抑えてくれなくては芝居自体が空中分解してしまいそうだった。オーバーアクトは、彼らの激しい感情の揺れを描くためのひとつの方法かもしれないが、一歩間違えばこの芝居全体を破壊しかねない。そんなかなり危険な状態で芝居は推移していく。見ていて内容とは別の次元でドキドキしてしまった。
だが、終盤、マリンさんの一人芝居になったところから、作品が主人公の気持ちにようやく追いついてきて、彼女も自分のリズムで芝居全体をセーブできるようになる。(こういう印象はもしかしたら、初日に見たためで、その後は少し変わったかもしれない)
自分のしていることは間違っているかもしれない。しかし、自分はこんな自分の生き方を信じる。だから、最後まで突っ走って走り抜けてみせる。そんな宮城野の切なる気持ちがしっかり伝わってくる。それはもちろんこの芝居に賭ける藍田マリンさんの想いでもある。