湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ドヴォルザーク:チェロ協奏曲~Ⅰ.リハーサル断片

2018年01月07日 | 北欧・東欧
○ロストロポーヴィチ(Vc)ターリッヒ指揮チェコ・フィル(supraphon)1952/6/16-18live・CD

冒頭からものすごいアタックの煽り方。かなり細かく指示がなされるが一旦走り出すとじつに俊敏に反応するオケをひたすらアドヴァイザリ的に言葉を重ねながらドライヴしてゆく。同時期のチェコ・フィルの素晴らしく力強く、更にニュアンスに富んだ表現は全てターリッヒによって作られていたことがわかる。ターリッヒの中の同曲像がかなりベートーヴェン的であることも伺い知れる。遂に命果ててしまった故ロストロ先生はやはりリハなりの力の抜き方で余り表現しないが、アンサンブルに必要な音は全て出している。若々しくうぶい音にまだ若きロシアの闘士の生硬さを垣間見ることもできよう。まだ20台である。主主題に入ると演奏に徐に熱が篭りだすが、おそらく録音が、いったん途切れる。1楽章結部でロストロ先生が一切音を外さずに技巧的なフレーズを弾ききるとオケはそれを暖かく包み込むように、偉大な響きでこたえる。この時点でロストロ先生よりオケにメリットがあるようにすら思える、チェコ・フィル黄金期の凄さをけっこういい音で聞けるのがいい。結部はすぐ終わる。そのあとに短いターリッヒの言葉が、「ターリッヒ・エディション」のエピローグとして付け加えられている。17巻の目玉・・・だがチェロコンは僅か10分弱です。オケがとにかく素晴らしい。○。

※2007-09-03 21:03:50の記事です
Comments (13)
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☆エネスコ:ヴァイオリン・ソナタ第2番

2018年01月04日 | 北欧・東欧
○作曲家(Vn)リシェ(P)(REMINGTON)LP

内省的でフォーレ流のロマン派ソナタの系譜を受け継いだ佳作である。エネスコの前時代的な艶のある音が、終楽章以外に横溢する静かな情緒を損ねているけれども(終楽章は派手に動く、音色のことを言ったがエネスコ老いてなお上手いことは確かだ、この憂いある音は若い連中には出せない、誰だ下手だ衰えだなんて言うやつは、音楽の多様な楽しみかたを知らなすぎるぞ)、よく言われることだが奥さんの丁々発止の機敏な演奏ぶりが出色で、寧ろはっきりしたアンサンブル向きの規律正しい演奏ぶりはリパッティよりいいかもしれない。何故か復刻から漏れているプレミア盤。ジャケデザが原色黄色でいい。

※2006-09-18 01:50:07の記事です
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☆シマノフスキ:ヴァイオリン協奏曲第2番

2017年12月20日 | 北欧・東欧

○ギンペル(Vn)ローター指揮ベルリン放送交響楽団(audite)1950s・CD

放送録音。ソリストの音がオケに埋没して聴こえないなど状態の悪さには閉口するが、作曲家と同時代ないし近い時代に活躍した著名ヴァイオリニストとしてはシェリングくらいしかこの曲をやっていないので、同じ「お国演奏家」としてもギンペルの演奏が残っているのは貴重である。シェリングの線の細い音で継ぎはぎ的につむがれる精緻な音楽とは遠くかけ離れ、細かい所は省略してでも音楽の連続した流れをひたすら保つ怒涛の演奏スタイルはウィルコミルスカのほうに近いかもしれない(技術的には劣るだろう)。特徴的なのは音をなかなか切らず息の長い旋律、ひいては違う旋律へ移るときでさえ休符で途切れさせることなく音楽をずーっと連続して聴かせていくスタイルで、その中で表現される起伏、ニュアンス表現はなかなかのもの。但し音色や厚みに幅が無く飽きてくるところも否めない。オケが乾燥している(ないし復刻が乾燥している)のも民族的情熱を煽る曲を冷ましてしまう要素である。総じて何度も聴く音源ではないが、同曲の演奏スタイルとしては独特の部分もありシマノフスキに興味があるなら聴いておいて損は無い。シェリングよりは好きだった。

※2013-04-22 16:38:42の記事です
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☆シマノフスキ:交響曲第4番(交響的協奏曲)~Ⅰ、Ⅱ

2017年12月15日 | 北欧・東欧
○作曲家(P)フィテルベルク指揮デンマーク国立放送交響楽団(POLSKIE RADIO)1933/1/19live・CD

ポーランドの国民的作曲家シマノフスキ晩年の平易でカッコイイ名作である。ルービンシュタインのレパートリーだったことで知られるが、作曲家自作自演によるこの盤は一部がLP(SP)化されてはいたものの楽章全体として復刻されたのは今回が初めてである(3楽章は残念ながら残っていない模様)。ポーランド放送のCDとして作成されたこの盤はコルドによる交響曲全集のおまけとして付けられた歴史的録音であるが、一緒に入っているマズルカ2曲とインタビュー2片はMUZAから出ていたLPボックスの付録EP収録のものと同じである。

やはり全体を聴かないとわからないところが多いのだなあと思わせた。作曲家の指の弱さ、衰えを感じさせた断片はしかし全体像を捉え切れておらず、何より録音状態が極度に悪いため音響バランスが崩れていたがゆえの印象にすぎなかったのだなあと。ここで通して聴く限り作曲家は非常にニュアンスに富んだ(作曲家にしかなしえないであろう)細かい表現を施しており、舞踏リズムを明確に打ち出してこの曲が抽象音楽ではなく民族音楽であることを強く意識させるところが後発の演奏にみられない大きな特徴である。といっても硬質な響きが目立つ楽曲でありその点を意識しコントラストを付けてもいて(だから録音の問題で不協和なハーモニーの繊細なバランスが崩れて聞こえ、衰えに思えたのだ)、テンポも意外と速いまま維持されていく。ロマンティックなぐずぐず感は皆無である。演奏は熱気はそれほどないし専門ピアニストほどの安定感は無いもののこなれていて非常に印象的である。もっとも1楽章のカデンツァは鬼気迫るものがある。1楽章の聴き所も多いのだが2楽章のソロ部分はマズルカで僅かに聞かれた作曲家の繊細なリリシズムが感じ取れる非常に美しいものである。惜しむらくはバックオケだ。フィテルベルクの粗野な棒に技術的に問題のあるオケ、それでライヴということでシマノフスキの色彩的なオーケストレーションを十分表現できているとは言えない出来である。木管もしょっちゅうとちるしこの程度のソリストの揺らしについていけない棒というのもどうかというところである。鈍重だ。全体として作曲家がやはり素晴らしい民族的作曲家であるという印象は感じられる特筆すべき演奏ではあるが、過度には期待しないほうが、といったふう。○。

※2008-08-28 10:38:19の記事です
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☆ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」~Ⅱ、Ⅲ

2017年12月15日 | 北欧・東欧
○ニューヨーク四重奏団(BRUNSWICK)SP

カルテットはご家庭で気軽に交響音楽を楽しむための編成だったのであり、録音技術が普及する前はホールで楽しむ代替手段としてピアノ編曲譜と共に親しまれた(貴族の時代は別)。従って盛んだった時期はせいぜいSP期までであり、放送局付け団体があった頃を最後に、一つのプロフェッショナルな演奏ジャンルに押し込められてしまったようだ。素人が楽しむものから、技術的インフレを起こし天井についてしまった、単純がゆえに・・・スメタナQなどを聴くとそういう感を強くする。

とにかく技術を見せ付ける、そこから何を表現するか。

録音機器は最初は大編成の音響を捉えきれない代物で声やピアノ、せいぜいカルテットが鑑賞に堪えうる限界の編成だったものだから、逆に言うと、そうとうに巧い団体を録音だけのために編成することで市場を独占しようという動きが烈しかった。特別編成しなくても、興行的に簡易で手っ取り早い稼ぎ方だったことから東欧あたりにはたくさん存在していて、英国などでの一種登竜門でもあった。そういう背景で興行的に馴染み易い曲に需要はあり、馴染み易さという意味で民謡に立脚したチェコ国民楽派のドヴォルザークは大量の作品を生み出すことができた。音楽的後進国ゆえお雇い外国人を大量に移入させていたアメリカにわたって、音律に黒人音楽を混ぜた極めて簡潔な作品を生み出し、それはドヴォルザーク自身の作品としてはおろか歴史上全てのカルテット作品の中でも最も有名な作品の一つとなった。それがこの「アメリカ」と呼ばれる作品だが、全楽章性格別けされた民謡リズムと音律に彩られ、ブラームス的なかっちりした構造のうえに理知的に配置されている。

でも、中間楽章だけとなると・・・うーむ。そして、まとまりない文章をここでまとめようと思うのだが、ようするにこの団体、上手い。現代のアメリカの弦楽演奏様式にも通じる合理性が感じられ、ポルタメントに艶があるがおおむねテンポも揺れず表現に余裕すらある。だが、それだけである。上手いのに、地味に感じる。これは曲の底浅さという言い方にもできるが、カルテットという編成の難しさという言い方もできる。上手いを極めることはプロならできる。だが巧い、旨いものにはなかなかできないのだ。ましてやこの簡潔な書法では個々人の資質にしか求められるアドバンテージは無い。平均・・・録音も極めて悪く、○にする。ヴィルツオーソ四重奏団に似ているかもしれない。

※2009-12-06 19:12:26の記事です
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☆タンスマン:弦楽合奏のためのトリプティク

2017年12月13日 | 北欧・東欧
○ジンブラー弦楽シンフォニエッタ(DECCA)

RVW「アカデミックな協奏曲」(ソリスト:フックス)の裏面に収録されているもので、題は「三幅画」等の意をはらむ。元は弦楽四重奏曲でクーリッジ夫人に捧げられたもの。初演直後に合奏曲編曲されゴルシュマンのセントルイスのシリーズに組み込まれ長く成功をおさめた。漂泊の作曲家34歳のときのことである。もっと大規模な編成にあうという本人の考えによる編曲のようだが、大体において下地が小規模アンサンブル曲である場合、例え作曲家本人の手によっているとしても完全には成功し難い。単純性を払拭しきれないのだ。

中欧の民族音楽に強く影響されたエネルギッシュな音楽、というライナーの記述からも「新しい音楽ではない」ことは伺える。抽象音楽指向だが新古典ふうではなく、時代性がある。いわば折衷的だ。耳馴染みのよい、適度に晦渋で少し不器用だが、部分的に個性的な透明感ある響きと書法がはっとさせ、ニールセンからマルティヌーといった作曲家のはなつ煌きと同じようなものを持っている。演奏はギチギチの弦楽合奏団であるこの合奏団らしさは依然あるが、若干の柔らかさと濁りが加わっているようにも思う。それは曲のロマン性、とくに三楽章後半に現れる清澄な・・・確か影響を受けたと言していたと思うが、RVW最盛期の感傷音楽に似たフレーズは印象的で、曲的には焦燥感の中にこれを持ち込むのはオネゲルのやり方を思わせちょっとあざといけれども、逆に一番の聴き所となっており、演奏もここで太い響きを滑らかにうねらせている。○。CD-R化していたか。

※2009-02-21 19:53:18の記事です
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☆ドヴォルザーク:交響曲第8番

2017年10月31日 | 北欧・東欧
◎ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(EMI)1959/10/25ロイヤル・フェスティバルホールLIVE・CD

文句無しの凄演・・・これを補う言葉を私は知らない。野暮なブラームスでも民族的なドヴォルザークでもない、それらの生臭さをまったく昇華して、物凄くも高貴さに満ちたとても高みの音楽に仕上げた、としか言えない。オケも素晴らしく冴えていて、ここまで最初から最後まで惹きつけられる演奏は聞いたことが無い。とにかく決然とした発音と明瞭なテンポ感、異常なテンションが2楽章ですら物凄くドラマティックな音楽に仕立ててしまう。更に淀み無いスピード感が加わってビーチャム芸術の真骨頂とでも言うべきものであろうし、この曲のファンなら、モノラルで録音が悪いとはいえ、瞠目することうけあいの、しかしまったくの正攻法のドボ8、是非機会があれば聞いてみていただきたい。3楽章が変に民族舞踊にならず、しかも面白いというのだからびっくりだ。4楽章にはもっとびっくりな轟音が待っているのだけれども。ブラヴォーの凄まじさといったらない。

※2005/4/3の記事です
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☆シマノフスキ:交響曲第4番「協奏的交響曲」

2017年08月08日 | 北欧・東欧


◎ルービンシュタイン(p)ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(LYS他)live・CD

いくら録音が悪くてもここまで両者の方向性が合致して結果異常な集中力で弾ききられると◎にせざるを得ない。スタジオ録音よりも激しく野獣のような演奏で突き進むルビンシュタイン、NYPというこの曲に使われるのは珍しいほど素晴らしい楽器を持ってやはり野獣のような勢いで音楽をドライヴしていくロジンスキ、スピードと力感の余り3楽章にいたってはミスタッチや弾きそこないが散見されるがそれとて大した問題には感じない。既に「音楽」が出来上がっているからだ。

この曲に生硬な演奏が多いのはひとえに書法上の問題があって、剥き出しになった声部が数珠繋ぎにされ進行する場面が多いため、萎縮したような演奏になることが多く、ソリストもミスを嫌ってマニアックな細かい音符まで表現しようとするから、全体の音楽としては中途半端な近視眼的なものに仕上がってしまい、総合で見て技術的にもイマイチな結果ととられかねないものになる。

協奏曲ではあるが交響曲という前提があり、オケもソリストも拮抗しながら、同じ方向性に向かってまとまっていく必要がある曲だ。たまたまというか、ルビンシュタインの細部に拘泥しない即物的かつ激情的な性格に超絶技巧が伴っていて、ロジンスキの暴君的な力感がオケをしっかり従わせるだけの説得力(と技術)を持ち、両者とも表現の機微が無いとは言わないがあくまでメリットは「勢い」に置いているという点で相性が(少なくともこの曲では)ばっちりなのである。NYPがもともと一流の技術を持っていたという点も看過できない。この曲はローカルなけして巧く無いオケによりやられることが殆どで、練習が万全の演奏すらできていないことが多いからだ。

スクリアビンの影響を再度露骨にし、けして技巧的に高いものを投入したとは言えない和声的で単純な書法による曲なだけに、ソリストは時折奇妙にも思える進行をきっちり繋がったまとまった音楽として聞かせるように仕上げなければならないし(2から3楽章へのアタッカの前の下降音形の持って行き方など)、オケ奏者には音量バランス的に無理な負担がかかる部分もある。

一つの解決法に、シマノフスキ第三期の作風の要となる民族舞踊の特殊性を浮き彫りにして細かい起伏を盛り込み刹那的な魅力を引き出し続けるという方法があるが、これは作曲家自身が自演にて失敗した要因でもある。まとまりがなさすぎてしまう以前に、とことん演奏しづらくなるのだ。となるともう一つの解決法は「勢いで押し通す」、それに如何に説得力を持たせるか・・・つまりは勢いを裏付けるトレーニングとポテンシャルがどこまでいけているか、それしかない。

山っ気なんていらない。ルビンシュタインは押しも押されぬヴィルトーゾで、即物主義的な表現だけを売りとし音色にも解釈にもそれほど幅のある表現を好まない。だからソロ曲では魅力が無いものも多い。ロジンスキはクリーヴランドを叩きなおすとともに短期間ではあるがNYPに君臨した指揮者であり、オケトレーニングに長けているのは言うまでもなく、その異常な集中力と力任せの表現で同時代流行のスタイルの最先端にいたことは言を待たない。つまりはその両者のこの曲における一期一会的なライヴである、それだけで期待し、満足していい。大音量でノイズを厭わず聞いてほしい。これは余り評価されないシマノフスキ晩年の作品で感傷性や民族性が魅力だが、そういうものを最低限はもちろん表現したうえで、まるでロックフェスのような熱気中心に聞かせていく、それだけでいいのだ。◎。3楽章の暴力的な演奏は凄い。

※2008/9/5の記事です
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☆ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」

2017年08月08日 | 北欧・東欧
○レニングラード・フィル協会弦楽四重奏団(MELODIYA)LP

タネーエフ弦楽四重奏団の旧称。しかしこれは巧い!曲が冗長なので正攻法では正直飽きる部分もあるのだが、テクニック的にもまとまり的にも、ロシア流儀ではあるが音色的にも国民楽派の器楽曲として素晴らしいものを見せている。奇をてらったところのない表現はしかし最近の演奏にみられるような妙に透明感のある無味乾燥あるいは常套的な穴には堕ちていない。これはやはり隙の無い音色表現に尽きるといってもいい。細かいヴィブラートがえもいわれぬ味をはなっている。個人的に◎でもいいとは思うのだが、理由は余りはっきりとはしないのだが少なからず飽きてしまう部分があったので○にしておく。奇をてらわないのが仇?

※2006/8/11の記事です
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☆ドヴォルザーク:チェロ協奏曲

2017年06月22日 | 北欧・東欧
○ロストロポーヴィチ(Vc)クーベリック指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1976/2/16live

いよいよもってソロは円熟味を増し無理も強引さもなくなめらかに大きな音楽のうねりを作っていく。ロストロ先生絶頂期の記録といっていいだろう。だがバックがジュリーニ並に大きくさほどうねらないのが意外だ。クーベリックがアメリカのオケを振ると時々こういうライヴになる。無個性的ですらある。ほんと老年ジュリーニに似ている気がする。演奏総体としても、ジュリーニや小澤あたりのバックとつけた正規盤に近い感じがし、しかし膝録ゆえ音がヘンな遠近感で聞こえるゆえ、評価はし難い部分もあるが、とにかくロストロ先生の音がインホール録音にもかかわらず「マイクなんか使わずに」ダントツでオケを抑え雄弁に、がっちりと語りかけてくる。ゆえ、真ん中の○としておく。最後の爆発的なブラヴォーに、臨席できなかった無念を思う。絶頂期ロストロ先生のドヴォコンを聞けなかった無念を。まさに低弦の王はカサルスではなく、この人であった。

※2007/2/26の記事です
Comments (10)
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☆ドヴォルザーク:交響曲第8番

2017年05月23日 | 北欧・東欧
○クーベリック指揮チェコ・フィル(ANDROMEDIA)1946/5/19プラハlive・CD

力強くスピードのある演奏だが同時期流行ったトスカニーニ様式のドライなものではなく、適度にロマンティックな音表現を兼ね備えているところにクーベリックの魅力がある。マーラーが得意だったのがわかる雰囲気だ。若々しさと壮年特有の独尊性のはざまでそれほど強烈なアピールをするまでもないところがあるが、チェコ・フィルがそれほど独特の表現をひらめかせることなく非常に聞きやすい音楽をかなでるようまとめられているのがいい。あっさり聞きとおせてしまう引っかかりのない演奏でもあり、録音も悪いが、心地いい。廉価盤に収録。○。

※2008年の記事です
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☆ヤナーチェク:シンフォニエッタ

2017年05月21日 | 北欧・東欧
◎ケンペ指揮BBC交響楽団(imp,BBC)1974/8/30live・CD

とにかく弛緩しない!特に中間楽章における管楽器陣の超絶的な吹奏に耳を奪われ、音の決して途切れないブラスの咆哮を聞きながら、この曲で初めてカタルシスを覚えることができた。オケコントロールの抜群に巧い指揮者と言われているが、長い音符が多く大して構造的でもないこの曲からここまで引き締まった響きを引き出したのも凄いと思う。じつはそれでも、曲に入り込むことはできなかったのだが、相対的に◎とするのに躊躇は無い。終演後の凄まじいブラヴォは、盛り上がるのが当たり前のプロムスとはいえこの指揮者のカリスマ的人気を裏付けるものだろう。

※2005/6の記事です。
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☆スメタナ:弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」

2017年05月02日 | 北欧・東欧
○フロンザリー四重奏団(victor/PRSC)1929/3/19,20ビクタースタジオNo.1

抑えて忠実に演奏しているのが聴いて取れる。とくに前半楽章にメトロノームテンポというか、しゃっちょこばった感じが強い。そのぶん技巧派ならでは「制約下での表現力」が味わえる。前時代的なメロメロの音、ひっきりなしのポルタメント、しかし決してフォルムが崩れない。音符の「切れ」はとても明確だ。リズムの切れのよさ、「引っ掛け」の巧みさはこの団体の長所のようである。後半楽章ではもっと自由になっているようにきこえるが、それはこちらが慣れてきただけでSP録音特有の演奏家の「緊張」はあると思う。最後の耳鳴りがリムスキーやボロディンのように聴こえ、なおかつさっさと切られて余韻も無しに、「純音楽的」に終わるのも興味深い。これもSP録音特有の時間制約か、啓蒙主義的な客観的処理かもしれない。録音はそれなり。
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☆シマノフスキ:ヴァイオリン協奏曲第1番

2017年04月30日 | 北欧・東欧
○トーテンベルグ(Vn)モントゥ指揮?(DA:CD-R)1954/2/5live

もう少し録音がクリアなら◎にしていたところで、とくに前半がソリスト・オケともに素晴らしい。モントゥの伴奏指揮は非常に巧くオケの響きの多彩さと演奏の集中度を主張しながらきっちりソリストにつけてくる。ソリストもまた技巧的に安定感がありこの難解な曲をみずみずしく描いている。楽曲的にはシマノフスキの最盛期のものと言ってよい。民族楽派の向こうを見据えた東欧近代作曲家の一人であるが、ここではとくにスクリアビンの非構造的な「響きの音楽」をそのまま受け継ぎ、そこにウィーン楽派の影響を理知的に反映させた最盛期の作風がよくあらわれている。清澄な音響を駆使しながらも半音階的な音線への執着がむんむんとするエロティシズムを露呈しているところはほぼフランス印象派の影響から脱しているような感じがする。寧ろ未だ残る分厚い響きへの指向がツェムリンスキーと非常に近いところに曲を持っていったといったかんじである。オリエンタリズムはやや減退して、晩年の作風となる民族主義回帰がヴァイオリンのフィドル風パセージに現れてきている。だがこのあたりが逆に書法の限界とマンネリズムを呼んでいる感もある。シマノフスキは独自の清澄な作風を持っていたといいながらも様々な作曲家のかなり強い影響を受け続け変化し続けた人であり、その影響が作品中にやや直接的で一種閉塞的な特徴としてすぐに読み取れてしまう形で提示されることがままある。ヴァイオリンの書法にせよ初期の無調的な難解さが薄れるとその雲の向こう側から見えてきたのはかなり単純なものであり、2番で見られる書法と殆ど変わらないものが結構出てきてもいる(順番的には2番が枯渇していると言ったほうが適切かもしれないが)。シマノフスキは作曲技法に走ることにより辛うじてその地位を維持できたが、元来それほど大きな独自性をもった作曲家ではなかったようだ。
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☆マルティヌー:交響曲第6番「交響的幻想曲」

2017年04月16日 | 北欧・東欧
○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1956/4/23・CD

多産・多様の作曲家というのは不幸である。前にミヨーの例をあげたが戦中戦後を生きた東欧の作曲家はもっと悲惨であり、文化的侵略や民族的理由による亡命などさまざまな困難の中で「不要なほど多様な語法にせっし、自ずのアイデンティティを見失うほどに」作風を切り替える結果となったり、完全に違うものになってしまったりする場合もまま見られる。ミヨーは寧ろ余りに個性と民族性が強くまた「幸福だった」ため自分を見失うようなことはなかったが(寧ろ最初から確立された語法の応用方法をさまざまに変容させるすべを知っていた結果として多産するはめになったところはヒンデミットも近いかもしれない)、マルティヌーの個性が一つの尖塔として認識できにくいのはその部分で非常につかみどころが無くなっているからとも言えるかもしれない。ただ、湯水のように楽想が湧き出る天才性は一緒で、使い捨て世俗音楽ジャンルへの接近という部分ではミヨーとの共通点はなきにしもあらずだ。

基本的に理知的で機械的で冷たい先鋭な響きを用いるところはチェコとは言わないが東欧の同時代の作曲家・・・バルトークやシマノフスキなど・・・と共通すると言っていいだろうが、この人、アメリカの影響もまた強く受けており、一時期のバーバーのように「描写的な一種映画音楽的な表現」が目立つようになった点が特徴的である。同曲でも(前記東欧の諸作曲家と近似した書法は別格として)RVWに近い響きをもった「甘い」表現が聞かれるところもあり、基本的に計算式のような構造の楽曲でありながらも(ボストン75周年作品として一部合奏協奏曲的であり、特殊なアンサンブル能力を試すかのような構造を面白く聴けるようになっているせいもあるのだが)循環形式の中で表現されているのはどうしても戦争の傷跡のようなものであったり戦争そのものであったりもするのである。非常に斬新な聴きごたえの曲ではあるがRVWの6番あたりを(全く異なる作風なのに)想起するのはこの「戦争の機械の描写」的な中間楽章スケルツォのせいだろう。ドヴォレクの逆行形からなる神秘的な終幕は「交響的幻想曲」の意味を明示するものとして特筆すべき部分である。ここでミュンシュは新作慣れを示している、程度にとどめておこうか。比較対照する演奏が余りないからである。
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