湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆マーラー:交響曲第10番~Ⅰ、Ⅲ.(クルシェネック版)

2017年12月01日 | マーラー
○アドラー指揮ウィーン交響楽団(M&A)1953/4/8live・CD

これは前年のスタジオ録音に対するライヴ記録として初出だと思う。文字どおりライヴなりの出来で、1楽章冒頭からつんのめるような演奏が始まり、VSOらしい雑さと音色の美しさが生硬な書法の中に浮かび上がるような、まだこなれていない曲、演奏、そういったところだ。3楽章にいたっては木管ソロが揃って猛ダッシュを始め他のパートと乖離する。牧歌的に歌うシーンで何故???とも思うが、アドラーは現代指揮者らしくシェルヒェンのような緩急の極端な解釈を施しがちであり、ここではほとんど急で通しているような感じだから、この曲もそういう方向性に対する楽団の戸惑いが現れているというべきか。朴訥とした味わいはあるものの、それ以上のものはない。○にはしておく。

※2011/11/18の記事です
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☆マーラー:交響曲「大地の歌」~Ⅳ

2017年10月03日 | マーラー
○フリード指揮BBC交響楽団(arbiter)1936/2/1ロンドン・CD

「美について」だけであるが、イギリスのライブラリーからの驚愕の新発見音源であり、マーラーの使徒、不遇の指揮者オスカー・フリートの真価を問うための材料がまた増えたことになる。最後が8小節切れる(SPの収録時間のせいか?)のと、きわめて状態が悪い(SPからの板起こしだろう)のが残念だがそれでも価値はある。このCDはほとんどこの一曲のために作られたようなものでそこに賛否はあろうが、私にとってはそれで十分だ。歌唱は若々しく明るい、軽さすら感じさせるもので、オールドスタイルでありながらも原盤の状態からか新人の歌唱のようにすら思わせるちょっと独特のものがある。歌に詳しい人なら余り評価しないかもしれない。バックオケはこの指揮者が史上初の全曲録音を果たした復活よりも音に厚みがあるように感じる。円熟味はこの録音がこの指揮者の西側での最後に近い録音であることからくる感じなのかもしれない。録音状態のためかもしれないが、予想したより重く、うねるようなロマンティックも鼻につかないなかなかに大人のしっかりしたマーラーである。ワルターのような心酔は感じられない。BBCを使っているので重苦しさや変な演奏陣のルバート表現がないのはそのせいか、ドイツっぽいというほどしっかりしたフォルムを示しているわけではないし、武骨でもない。特徴をあげるほど長くないので評しがたい部分もあるが、個人的にはじつにマーラーを理解した演奏ぶりだと思った。真価を問うにはまだまだ足りない。ライナー筆者ではないがもっと音源が発見されることを期待しつつ○。

※2007/8/25の記事です
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☆マーラー:歌曲集「なき子をしのぶ歌」

2017年09月19日 | マーラー
○フォレスター(CA)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1958/12/29・CD

マーラー中期交響曲が好きな向きは、歌とはいえ避けては通りえない名作にもかかわらず、私は内容的に聴く気になることがあまりない。ミュンシュならいいか、と思って聴いてみるのだが、内面にぐいぐい入ってくるような曲内容にうねるようなミュンシュの分厚い表現の起伏もあいまって、ロマンティックに滅びていく後期マーラーのとろけ落ちるような退廃的な雰囲気がけっこう如実に表現されていて、ああ、こんなの聞いてると昼間から「落ちて」しまうなあ、と思う。もちろん曲による。しかしフォレスターは美しい。下品にならずに感傷を煽る慎ましい表現を身に着けている。さすがマーラー歌いだ。だから演奏的には退廃的にならずに済んでいる。根底には肯定的で明るいものがあるミュンシュだからこそ、やはりこれを聴いて交響曲も聴いてみたかった、という気にはならないのだが、単独演奏としてなかなかの名演だと思う。伴奏慣れしている指揮者は何にでもつけられるのだなあ。録音もクリアなステレオ。やや早くさっさと進みすぎる曲もあるし、やはりマーラーというより歌曲伴奏として取り組んでいるミュンシュの職人性が気になったため、○にとどめておく。けっこう伴奏でも難しいというか、交響曲並みに取り組まないとならない場面も多いところが「大地の歌は歌曲集か交響曲か論争」なんかに通じる部分でもあるんだろうな。この曲、初期のありふれた後期ロマン派様式から大地の歌のエキゾチシズムから9番の辞世にいたるまでの要素が「角笛交響曲と5番7番を除いて」ふんだんに盛り込まれているので、やっぱり聞き込みたいところではあるんだけど。

※2007/1/24の記事です
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☆マーラー:交響曲第7番「夜の歌」

2017年07月13日 | マーラー
○ケーゲル指揮東京都交響楽団(TOBU)1985/6/25東京文化会館ライヴ(第218回定期演奏会)・CD

いささか乱暴なスタートからつねに速めのスピードでえぐるようなハッキリした音楽を提示している。オケがまるでドイツオケのように上手い。とくに青白い音が武骨な表現とマッチしてなかなか冷えた、しかし激しい夜の情景を面白く見せてくれている。ケーゲルはよく訪日し日本人受けのよかった指揮者のように思うが、ローカルな人気に留まらない実力派であることの証明のひとつだとおもう。むろん本来のウィーンの夜とはまったく違うものだが、これが国内オケの演奏だという点をまったく意識させない説得力は凄い。○。

※2010/12/29の記事です
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☆マーラー:交響曲第10 番~1楽章

2017年07月04日 | マーラー
○ゲオルゲ・シュナイダー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(ETERNA,DS)1960'LP

奇をてらわないすっきりした演奏。このオケの非常に美しい響きを最大限に活用した演奏ともいえる。尋常じゃない弦の純度の高い響きの交錯は、これがマーラー的かどうかは別にして、とても音楽として高みにあるものを聞いているという実感を持たせる。磨き上げられた響きのしかし何と暖かいことか。ケーゲルと似て非なる美しさだ。一貫してさらさら流れるテンポにもごくわずかながらニュアンスの揺れがあるのがいい。現代的な、というか現代音楽指揮者的な分析的な棒であればこその美しさではあるけれど、どこか人間的な気もするし、よかった。内声の奇嬌な音形をくっきり浮き彫りにする箇所などはいかにも現代音楽指揮者的だが。○。

※2005/2/28の記事です。CD(CD-R)化したと思います。
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☆マーラー:交響曲第9番

2017年06月28日 | マーラー
○ジュリーニ指揮ウィーン交響楽団(sardana:CD-R)1975LIVE

ジュリーニの9番は評判に違わず良いものだ。即物的な演奏に飽きたらゆったりとした、そこはかとない歌心あるジュリーニの演奏に身を浸すとよいだろう。といってもこの時期のジュリーニはまだ壮年の激しさを維持しており、ワルター晩年のような巨匠様式の透明感ある世界ではなく、かといって過度にロマンティックでもなく、テンポ的にも速めなのだが。有機的な1楽章は表情の深さで耳を打つ。ゆったりとした、しなやかな音はウィーンならではでこの盤の価値を示すものだ。しっくりくる演奏で、9番の本来の持ち味が殊更にドラマを煽らずに生かされている。素晴らしい。2楽章はかなり音が悪く聴きづらい。エアチェックものならではの弱さだろう。4楽章でも聴きづらい場面がある。中間楽章は共に遅く鈍重な感もある。このあたりは好き好きとも言えるが本来はこれでいいと思う。余り速いのは内容的に意図ではなかったのではないか。4楽章は速めだが表現は自然な起伏があり人間的な美しさがある。けっして無機的な美しさではない。ただ、カンタービレともまた違うと思う。教会音楽ふうの雰囲気は確かに維持している。ウィーン響はむせかえるような甘い音こそないものの、オケ本来の滋味を効かせた深情の篭ったフレージングで自然に聞かせる。丹念ではないがそこがまたいいところでもある。もうちょっと艶のある音色が欲しいところもあるが、ニュートラルな音がジュリーニの意図だったのかもしれない。ライヴ自体はそこそこ成功していたような拍手の反応である。○。エアチェックテープ特有の録音よれあり。

※2006/3/14の記事です
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☆マーラー:交響曲第5番

2017年06月09日 | マーラー
○テンシュテット指揮ロンドン・フィル(TOKYOFM)1984/4/13大阪フェスティバルホールLIVE・CD 

mpeg/HDプレイヤーを使うようになったがプレイヤーの仕様でアルバム名等参照しづらく誰なのかわからないまま聞くことが多い。それでもなんとなくわかるというか、「ドギツすぎるなー」と思って表現を控えた感想を述べていたものを、時をへて無名で聞くと、まさにその「ドギツい」感想そのものが直に頭に浮かぶ、それは後でデータを調べ奏者が明らかになった時点ではじめて一致を確認できるのだが、こうなると控えたこと自体がどうなのかと考えてしまう。「自分の好み」と「客観的事実」の区分すら明確と思えなくなってきた今、さらに後者における様様な指標、演奏面、演奏環境面、録音面、奏者のコンディション、伝える媒体特性、変換方式、更には聴取側のコンディションなどなど無数の決定要素を一趣味人が網羅し勘案することなど不可能と考えると、「自分の好み」しか残らない。音楽を知れば知るほど書けなくなってくる。アナライゼーションを音楽の楽しみとしている人々が私は羨ましい。私は音楽を聴くことによってしか楽しめない不具者である。

テンシュテは隅々まで解釈され尽くしたスコアに基づき音楽をガチガチに組み上げる。しなやかな整形が加わるため嫌味にはならないもののロマン派音楽の表現においてそのやり方は両刃である。横の流れの音楽の場合裏目に出ることもあるし、横の流れの音楽を好む「歌謡派」の人たちには受け容れづらい芸風になっている。だがやはり名演は名演だ。このオケの何と締まったアンサンブル、ドイツ系楽団には出せない明るく美しい音、テンポ的には緩く、それが客観的な演奏との印象を与えがちだが、漫然と聞き流せない「何か」が時折顔を出す。「時折」というのは多少否定的な意味合いも含んでいるのだが、バーンスタイン・マーラーが好きな人は、つまらないがライヴにしては異常に完成度が高い、と思うだろうし、逆の人はまさにこの「バランス」を求めていた、と思うだろう。カンタービレの噴出せざるを得ない弦楽によるアダージエットも、素晴らしい感情移入の音が覆い被さってくるものの、没入させるような情緒的な要素は解釈面では薄い。かといってもっとドイツ的な演奏に比べれば、オケの関係だろうが美しく流れよく素直に聞ける。素直に入ってこさせるというのは、奇をてらい強引に惹きつけるよりも数倍難しい。その芸当が、芸当と思わせずにここにある。この長大で一見散漫な曲の冒頭葬送ファンファーレからきっぱり明るく断ち切る終始音まで途切れずにある。それが凄い。

これは現代の演奏である。現代最高峰のマーラーである。この場に居合わせた聴衆は幸せだ。そこで叫ばれるブラヴォには他のテンシュテ・マーラーのライヴ盤できかれるものと同じひびきがする。それは一テンポ置いたもので、決して熱狂で我を忘れた愚かな声ではない。しかし音楽そのものに対する賛美であったか?寧ろ指揮者個人への想いが強く伝わる。上品な拍手こそがふさわしい演奏なのに、漠然と思う、そんな印象だった。長く書いたが稀なる完成度は認めるし音はいいけど結局惹かれなかったということでした。クリアな音なのに強奏部での内声部の動きが余り聞き取れないのも理由のひとつか。終楽章など明快な対位的構造と主として伴奏部分での弦楽器のマニアックなアンサンブルが聴きモノなのに、音が重なれば重なるほどブラスや太鼓だけしか聞こえなくなっていった。旋律偏重と聞こえないように旋律偏重にしている、巧い録音操作だと思うけどそれでは長さのわりに楽想に乏しいこの楽章は浅薄になる。

難しいけどね。真実を伝えるだけが音盤の目的じゃない。一般聴取者が楽しんで聞けるものに仕上げるためにはマニアックに読んでくるマニアの嗜好なんて排除されて当たり前。ソレが嫌なら懐の許す限り生聴こう生!

※2005/7/14の記事です
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☆マーラー:交響曲第3番

2017年05月31日 | マーラー
◎ユーストラティ(Msp)スツェンカー指揮ケルン放送交響楽団(ARCHIPHON)1951/3/5LIVE・CD

大変に立派な演奏で録音や演奏技術上の瑕疵はこのさいどうでもいい。ドイツ的な重厚壮大解釈の範疇にあるが、密度の高い音響への鋭い感覚とスコアに埋もれたフレーズへの緻密な配慮が、古典的な堅牢さとロマンチシズムの両端を満たしたまさにマーラー的な音楽を表現主義的に描き出す、響きの軽さをもって奇怪なメルヒェンを感じさせるいかにも前期交響曲的な表現ではなく、6番以降の後期交響曲を思わせる分厚く立体的な聴感を与える演奏になっている。芸風からしてもオケの表現の指向からしてもロマンに流されることはないが、構成の妙で、横のフレーズが表立ってきたときにはとてもロマンチックに聞こえるし、情緒的に揺り動かされるところも多い。力強くドラマチックな1楽章やリアルで雄渾な終楽章もよいが(人によっては後者はやや飽きるかもしれない)、聞き物は中間楽章で、時には9番、時には大地の歌の頃を思わせるようなところがあり、スコアの構造をくっきり抉り出し特に中低音域に散置されたフレーズに重心を置きなおすことで、「角笛交響曲」と呼ばれる歌曲編曲音楽にとどまらない、たんに旋律線と音響というのではない、交響曲としての聴き応えというものを構造的に明確に提示してきている。中間楽章でダレる演奏というのは類多々あり、それを終楽章の謳いまわしで挽回したりすることは多いが、これははっきり違う。「原光」の歌唱と管弦楽の対比においても、あくまで歌曲としてではなく交響曲の一部として器楽的に捉えているような節があり、全体のフレームのしっかりした歌唱付き管弦楽になっており、前後ともコントラストのついた楽章として聞き流さずに聞き込むことができる。

全般、近視眼的には揺れず予め作りこまれた解釈が緊張感溢れる演奏として提示されている、これはオケの共感なしには成り立ち得ない。ちょっとオケが暴走気味になるところも含め、ライヴとしてかなり聞ける演奏という位置に置くことに躊躇は感じない。◎。

※2007/6/12の記事です。
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☆マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

2017年05月24日 | マーラー
○プレートル指揮ウィーン交響楽団(WEITBLICK)1991/10/10放送live・CD

こんな中途半端な時期の稀曲演奏を復活させるよりもEMIのチャイ5などまっとうな、というかこの特異ゆえに評の長らく安定しなかった指揮者の盛年期の姿を伝える正規録音を復活させてほしいと思うのは私だけだろうか。恐らく2008年WPニューイヤーコンサート起因の人気沸騰を見込んでの発売だと思うが、正直それほど名演とは思えない。後半シェルヒェン張りの極端なディジタル・ルバートがテンポにかかるところは熱が入るが、とくに1楽章の凡演ぶりといったらなく、ああ80年代はこういうマーラーが多かったなあと思わせる。提示部の繰り返しが尚更冗長感を増す(この盤は80分超の収録時間を1枚に収めるという近年珍しいコストパフォーマンス重視の制作になっている)。非情緒的な(ショルティを思い出した)音色にインテンポ演奏、ただゆっくりする場面においては極端にテンポダウンして音響を確かめるのがいかにもこの人らしくVSOには珍しい純度の高い響きが聞かれるものの、基本的に音が篭りがちで(盤質か録音かホール起因か)開放感のないイマイチな盤であるから、少なくともファーストチョイスで推薦する気にはならない。著しく攻撃的なスケルツォは特筆ものだし、誰がやっても感動する4楽章にいたってはやっと表現主義的な極端なテンポ設定の解釈が板についてきて楽しめるが、それも一流のマーラー指揮者のものというより、現代音楽を得意とする指揮者の余技という感が否めない。個人的にマルティノンのマーラーを想定しながら聞いたが、プレートルは構造性よりも純粋に響きを重視した作り方をしているため、立体的とか色彩的とかいう感想は浮かばなかった、純粋な音響を指向しているという感じのみである。そこが面白みがないという感想につながっている。ウィーン交響楽団のシェフとしてならしたころの録音だと思うが、このオケの特質をいい意味で殺して違う魅力を引き出した、それはあのニューイヤーコンサートでの非ウィーン的ワルツと同じ性向のものである。面白いと捉えるか、受け付けないか、そこは聴く貴方次第。4楽章を買って○にしておく。
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☆マーラー:交響曲第9番

2017年05月18日 | マーラー
○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(KARNA:CD-R等)2000/1/21LIVE放送・CD

音色が明るく透明感のある演奏で、軽やかですらあるのは恐らく録音のせいだろう。非常にクリアなエアチェックものであるがゆえの、妙に現代的に研ぎ澄まされてしまっている感が否めず(無論そういうベルティーニ的なものが好きな人にとってはスヴェトラ最高の記録になりえる)、スヴェトラ最晩年の「期待させる」境地が、まるで現代にマッチした颯爽としたスタイルに迎合したかのように聞こえてしまったのはちょっと問題かもしれない。また解釈も割とオーソドックスであるがゆえ聴感が軽い。スヴェトラにしてはかなり厳しく律せられた演奏であり、音の輪郭が全てしっかりしていて細部まで聴きやすい・・・もちろんオケの影響が大きいのだが・・・うえにテンポも速く、これは他の盤でもそうだが3楽章まで殆ど揺れがない。2楽章の前半までははっきりいって凡庸といってもいいくらいだった。3楽章までなら、私は「まるでワルター最晩年のような音をかなでながら、少しも心を揺り動かされないテンポ」とまでこきおろすことも可能であった。しかし終楽章は違った。ここでスヴェトラは感情を隠しきれない。もしくは、設計がズバリ当たっている。思い入れたっぷり、というわけにはいかない北欧オケの音、でもここには明瞭に感情の起伏があり、遠くスヴェトラ節のエコーも響く。なんとなく、やはりワルターのコロンビア録音を思い出してしまうのである。透明で明るいのがスヴェトラの実は持ち味であり、ロシアオケという呪縛から放たれてやっと、本来の自分の欲しい音楽を得られたという矢先の死、その直前のこの記録からはしかし死は聞こえない。そこには安らぎと、美だけがある。終楽章のバランスは瑞一、ただひとつ、これは盤によるのかもしれないが、私の盤の終楽章は録音ムラがあり、かなり耳障りな雑音が盛り上がりどころで入ってくる。更に不可思議なのが、終演後の拍手との間の「ブランク」。録音のつなぎ目が聞こえるのである。あきらかにロシアオケではないし、あきらかに他の録音とも違う(万一同じだとしても録音状態がかなり違う)から、この盤自体信用していいとは思うが、少し気になった。相対的に無印にしてもいいのだが、最晩年においても精力的な演奏を行っていたという証拠として、○をつけておく。

※2006/2の記事です。
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☆マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

2017年05月17日 | マーラー
○バーンスタイン指揮VPO(DG/ユニテル)1976/10live・DVD

バンスタの残したライヴ映像全集の嚆矢に掲げられる(バンスタの動きが)ダイナミックな演奏である。視覚的にも非常に楽しめる。4楽章のハンマーにこだわる人には三回目のハンマーが見所といえる。非常にアグレッシブでテンションの高い1楽章から始まる演奏は「カッコイイ」のヒトコト。この速さはやはりカッコイイ。ウィーンとは思えぬほどの精度を伴ったテンションも特筆ものだろう。2楽章も攻撃的だがやや重いか。有機的に詳細に作り込まれた解釈ぶりは余りに板につきすぎているがゆえに違和感はない。しかしこれは独特の演奏であり解釈であり、バンスタの時代にバンスタしかなしえなかった演奏と言えるだろう。この相性のよさはウィーンの個性の薄まりとともに現れたものとも思えるが(音色的な魅力はそれほどないのだ)どん底まで暗い場面から天にも昇るような場面まで余りに劇音楽的な盛り立て方を施していて、好悪はあるかも、と3楽章を聴きながら思う。この緩徐楽章は確かにやや重い。重たいロマン派音楽の手法でまとめられ、マーラー独特の薄い音響の軽やかさ繊細さが余り際立たないので私などはちょっと余り好きではないが、素直に普通に感情を煽るブラームス的な音楽なので、普通好きだろう。4楽章は攻撃的にクル。これはいい。長いからこそ攻撃的テンポでいくべきなのだ。序奏部の地獄の暗黒世界から世俗的な闘争への展開はまったく、いかにもな煽り方が逆にすがすがしい。ウィーンはほんとにうまい。技術的問題など(ミスはあるが)ない。テンションの高さが物凄い。細かい音符の一つ一つまで物凄いテンションで弾き吹ききっているのが如実にきこえ、この時代の録音にしてはじつにクリアなのにも増して演奏自体すごいことになってるのがわかる。マーラーもここまでちゃんと細部のマニアックな音響的仕掛けを意図どおりに(?)やってくれたら本望だろう。それほどまでにバンスタは自分のマーラーを確立し唯一無二と思わせるまでにいたっている、まあすごいです。よく聞くと細かい改変もあるんだけど、それも全てマーラーの意図の延長上と思わせるところが凄い。もちろん、マーラーはバンスタだけのものではなく、他を聞けば他の魅力が出てくるし、確かにこの精度と音色のバランスを他の指揮者のウィーンオケものから引き出すのは恐らくもう無理かもしれないが(少なくとも音色については)、これはあくまで一つの素晴らしい見識とみなし余りのめりこまないようにしておかないと、という警句が浮かぶほどドラマの激しさは尋常ではない。起伏のつけ方テンポ変化とくに4楽章後半のねっとり感が極めて極端である。晩年様式にいたる前、NYPの一種マンネリ万能化した頃からの過渡期にまだ精力溢れる力づくの演奏ができたころの記録として非常に貴重である。後半弦楽器がややばらけてくるがこの音楽にバンスタだからそれもライヴの迫力のうちと捉えられるところがまた得している。うーん、これを基準にこの曲を他に聴き進めるのはなかなか難しい。卑俗にすぎる、わかりやすすぎる、何とでも言えるが、これは一時代前のマーラー像の権化である。よきにつけ悪しきにつけ、バンスタのマーラーはマーラーを聞くうえで避けて通れないものだし、画質の問題はあるがこの映像を見る見ないでは大きく違う。エポックメイクだったものの、最も精力溢れる記録として見ておきましょう。○。
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☆マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

2017年05月16日 | マーラー
※2006年の記事です

◎M.ヤンソンス指揮ロンドン交響楽団(LSO)2002/11LIVE・CD

難点を言えば三つある。

1.録音が余りに優秀すぎて本来の姿がよくわからない(ヴァイオリンの細かい装飾音符まで明確に聞き取れるのはいかがなものか)

2.ブラスが相対的に弱い。録音バランスのせいかもしれないが弦主体の組み立てになっているように聞こえる。

3.奇妙な解釈や大仰な表現を好む人には向かないまっとうな解釈である

つまり難点は無いに等しいのだ。冒頭中低弦の僅かなアッチェルで瞬間的に引き込まれ、体感的に速いスピードのうえで実にリズミカルな処理の巧さ、水際立ったテンポ感は素晴らしく、水のように淀み無い流れの中にもしかし確かな起伏もあり(この演奏ではやや穏やかではあるが)飽きさせない。音響の厚さ、深く重厚な表現にも欠けていずあきらかにこれは最新録音によく聞かれるたぐいの軽量級の悲劇的ではない。このようなドイツオーストリア系の音楽にも確かな適性を示すところが父君アルヴィッド氏とは違うところかもしれないが、いかんせん父君の演奏復刻は遅々として進まず抜群のオケコントロール(もちろん晩年は教育者として国外で活躍した父君のメンタリティの影響もあるだろう)や幅広いレパートリー(父君はロシアにおいて南欧の曲を南欧ふうに演奏できる数少ない指揮者であった)という共通点を除けばなかなか単純比較はできないものである。父君の国内実演を目にすることのできた幸運な人は限られている(私も聞いていないが、ムラヴィンスキーの代替指揮者というイメージで捉えられすぎていた面もあるようだ)のだからそもそも父君との単純比較論は無理がある。活躍した場の違いが大きく、振ることのできたオケの演奏適性や能力の違いがまるで出てしまっている状況を鑑みるに、マリス氏が「父君を越えた」かのように喧伝されるのは不思議な現象であるが、これも日本のマニアの狭量さを示す一例である。

もっとも私も僅か10年ほど前と今のマリス氏の変貌に驚嘆することしきりで、この進歩が確実に父君を越える日も来るのかもしれないとは思う(スタイルが違うので「越える」という表現自体おかしいかな)。10年以上前、氏と親しい方に推薦されて盤を聞いたりしてみたのだが、振っていたオケのせいだったと今になっては思うのだが、硝子のような透明感と客観的な奇をてらわない解釈が、横広がりで莫大な「当時ありがちだった現代的な演奏」に聞こえてしまい、奇演不思議解釈にどっぷり漬かっていたロシアマニアの私には「肌が合わなかった」。リハを聞く機会もあったのだがパスしてしまった。音響の美しさを追求するのは曲によっては正しいやり方かもしれないが国民楽派からロマン派末期の音楽をやるには物足りない。

しかし今のマリス氏はもうそんなレベルではないようだ。ここには熱いマリス氏が聞ける。弦楽器のパキパキゴリゴリいう音が終端部まで聞こえ続けるこの緊張感。それに細かい音まで全て計算ずくでパズルのように組み立てるマーラーに対して、その計算を余すところ無く音にし一本の音楽に纏めきった物凄い演奏精度(どういう「磨ぎ方」をすればロンドンのオケがここまでノって気合を入れ音にできるようになるのだろう、ヴァイオリンの装飾音が全てビッチリ揃って聞こえる演奏に初めて出会った)が伴っているのが氏の「通好み」(嫌な言葉だ)なところであり、後者に拘る古いタイプの聴衆にも受けるゆえんだろう。これがしかも実演記録なのである(もちろんいじってると思うし残響も拍手もカットしている)。

このCDはロンドン響の自主制作扱いだが、かなり安価に簡単に手に入れることができるので現代の名演奏として是非聞いてみていただきたい。あくまで正攻法ではあるが随所にちりばめられた細かい操作が自然に演奏を盛り立てている。1,3(スケルツォ)楽章の腹の底に響き胸を切り裂くような低音のキレのよさがわくわくさせる。2楽章のいかにもマーラーらしい、寧ろ氏のほうからマーラーに歩み寄ったような演奏ぶりや、4楽章のあっというまのドラマも、ベルティーニに欠けていた何か(それはテンシュテットには確かにあったものだ)が補われた、進化した、でも伝統的なマーラーそのものの見事な記録である。ほんらい個性を重視する私はこのてのものに高評価はしないのだが、録音の見事な明晰さとのタッグマッチで◎とせざるをえない。名演。ノリより精度を重視したようなウィーンのニューイヤーを聞くにつけ正直期待していなかったのだが、何にでも同じスタイルで挑む昔かたぎの人ではないのだと納得。
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☆マーラー:交響曲第9番

2017年04月26日 | マーラー
◎ミトロプーロス指揮NYP(wea,warner)1960/2/12NYlive

荒れ狂うミトプー、と言いたいところだが踏み外しどころはなく、二楽章の異常に速いテンポ設定を除けば、ああ、やっぱりこれがマーラーだ、「旧来のマーラー」だと安心させるものがある。ミトプーのマーラー録音の大半(全部?)はライヴ録音だが、やはりライヴの迫力、NYPの臨する気持ちも恐らく違うだろうし、コントロールの内面からの共感を得て行き渡った、ミトプーの時代における骨頂を示す素晴らしく感情的に揺り動かされるものを持っている。時代がらどうしてもトスカニーニの即物的な力技を彷彿とさせる前進力をもっているがそれこそミトプーの芸風の素晴らしいところでもあり、まあ、NYPのマーラーをききたければバンスタの旧盤よりミトプーのものをおすすめしたいくらいだ。録音もそんなに悪くは無い(一部雑音は入る)。強弱の弱に透明感がない、という言い方もあるかもしれないが、人間的である(4楽章結部の響きはそれでも見事である)。個人的にさいきん稀に感じる感傷をこの曲に対して抱くことが出来た意味で(シェルヒェンのマラ9が一番とか思う人間なので割り引いてもらって結構)◎。録音が篭り気味でききづらいという人もいるかもしれないがこれはこの人の非正規ライヴ録音にしては最良の部類。ドラマチックだけどルバートしっぱなしの演奏ではまったくない直線性のある演奏。
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☆マーラー:交響曲第10番<クック補筆完成版・決定稿>

2017年03月17日 | マーラー
◎マルティノン指揮ハーグ・フィル(RO/Disco Archivia:CD-R)1975/6/13ハーグ・オランダ音楽祭LIVE

名演というか独特の演奏である。すばらしい音「楽」ではある。全体にはよくまとまった筋肉質の演奏で、異常なほどの集中力と立体的な音楽作り、諸所の印象がマーラーでなかったとしても、純粋に「音楽」として充実した聴感が与えられる。特に中間楽章の激烈さと乖離性人格障害のダイレクトにあらわれる特異にごつごつとした終楽章には聴く者を唖然として惹きつけるものがある。録音は古いものとは比べ物にならないほど明晰でバランスのとれたステレオだ。ちゃんとした録音なのになぜハーグ・フィル(レジデンティ管)が未だCDでの再販に踏み切らないのか、マルティノンの人気が今ひとつなのか腑に落ちないが仕方ない(後註:CD-Rでは発売されているとのこと、但しリストはカットされている模様(いやそういう意味じゃなくて))。改めてデジタルな変化のついた非常にダイナミックで、かつきわめて分裂症的な演奏である。

シカゴのものとアプローチは変わらないが、終楽章冒頭のバスドラの残響の無い打撃には心臓が止まる、もうやめてくれと思うほど悪魔的な辛らつさが感じられ、スコアが進むにつれ決して一つのなめらかな解釈にまとまることなく、分節ごとに全く異なる感情をただガシガシとつぎ込んでくる。ともすると余りこなれていない解釈に聞こえ、これが決して正しいとは言わないが、少なくともバスドラの打撃と、雑然と聞こえるまでに「そのままの音響」を聞かせようという態度には感銘を受けた。ほんとに短く感じるほど飽きない演奏である。終楽章の淋しい旋律をもっと旋律として楽しみたい、というきらいは残ったが(旋律の途中でどんどん調性がおかしくなっていくところ(これこそマーラーの個性なのだが)が、そのまま旋律が奇怪に歪んでいくだけのものとして(まるで前衛音楽的に)感傷を込めず表現されていくところはザンデルリンクと対照的なもので好悪分かつだろう)、それでもこの即物的な演奏ぶりは特筆できる見識と考えることができよう。マルティノンの作曲家としてのスコアの読みはマーラーともクックともまた一線を画してしっかりした独自のものとなっている。マーラー指揮者ではないからこそできたものとも言えるだろう。マルティノンが新ウィーン楽派を振ったら面白かったろうなあ。◎。

マーラー好きにアピールするものというより、クックによるマーラー編曲といったものとして聴けば真価が確かめられるようなものだ。ハーグは巧かったんだ。これ(原盤LP)はレジデンティ管の自主制作で、一応正規に販売されたもののようだ(確認できるもののレーベル面にはサンプル表記が加えられているが、ネット通販でかつて正規のものとして販売されていた記憶がある)。マルティノンの追悼盤の扱いでリストのファウスト交響曲とのカップリングである。DAは放送音源でホワイトノイズや電気的雑音により音質は落ちる。ファウストもCD-R化された。
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☆マーラー:交響曲第9番

2017年03月11日 | マーラー
○ロスバウト指揮南西ドイツ放送交響楽団(KARNA:CD-R)1960年代live

既出盤と同じ可能性があるが音がいい。クリアとまではいかないが60年代の放送エアチェックにしては撚れが少なく安定している(KARNAのリマスターがいいのかもしれないが)。モノラルだがふくらみは十分にあり、シェルヒェンを落ち着かせてその緊張感を演奏精度に向けさせたようなロスバウトの芸風を楽しめる。楽しめる、と書いたが普通の意味でのロマンティックなマーラーではない。精神性にこだわる人にはこれを聴いて精神性を感じなかったらそのセンサーは壊れてる、と言ってあげよう。何もしない、解釈も揺れず(とくに1楽章はテンポが揺れないのが特徴的)終始同じトーンで、だが音色とふくらみには明らかにマーラーならではのうねりが存在する。昨日テレビで指揮者がオーケストラの楽器の五箇所くらいの音符が変わったことを当てて凄いと言われていたが、職業的訓練を受けていれば当然、曲を知っているだけの人でも、コードで聴くことに慣れている人や中声部以下や打楽器・ソロ管楽器等の奏者にとってみれば至極簡単な話で、これは特別でも何でもない。プロなら奏者にさえ必要条件である。スコアがなくても響きで聴いていればその演奏の「温度」がわかる。その意味でいけばこういううねりがきっちり隅々まで聴こえるというのは、全て「正確」で「忠実」なのだ。改変や手抜きのない演奏なのである。4楽章の速いテンポにおいてもやはりシェルヒェンを想起せざるをえないのだが、それはテンポだけの問題であり、響き(のバランス)で聴いていくとまるで違う。更に非常に微細なテンポ設定があり、それが生きてくるように、計算ずくの盛り上がり方がじつに秀逸である。カラヤンの実演に近いかもしれないがカラヤンはマーラーを「余り」知らない。カラヤンにかわるカラヤン式にのっとった「マーラー」が造れた人というか、そういう比較を昔はよく目にしたものだが、今あらためてゆったりと、絶望にも希望にも浸ることなく、ただ音の美しさと曲全体の調和の中にマラ9の一つの様式の高度に純化されたものを聴いているといったかんじである。それにしても名コンビだ。オケはドイツ式だがロスバウトはドイツオーストリアなどといった枠組みでは語れない、現代に通じる感覚をもった新世代への扉をあけた指揮者であり、なおかつその枠によりかかったまま、室内も、屋外も見渡せる場所で、このような純音楽的演奏を「自分の世代の限界として」あくまでライヴで提示し続けた。けして面白い演奏ではない。しかし、細部まで素っ気無く、だからこそはっきりとスコアが透けて見える、そこに何かしら、プラスされるものが・・・たぶん、近い時代、戦争の時代を生きた者としてのどうしても隠しきれない色が・・・あるからこそ、ロスバウトのマーラーは愛されるのだろう。ワルターやバンスタやクレンペラーといったところとは全く違う地平にいながら、ロスバウトもたしかに、自分の方法でマーラーの本質に触れていたのである。○。拍手が別録り臭いかんじがするが、このころの放送ではチャネルを変えて客席音を入れている可能性があるのでいちがいには言えない。でも、スタジオと言われても不思議はない演奏ではある。
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