◎フルカーソン(Vn)シャノン(P)(BRIDGE)CD
アイヴズの作品名にはしばしば余り意味がないものや意図的に異化されたものがある。多くは商業的理由や演奏機会を増やすためのものであったらしいが、この曲、私自身は学生時分より譜面を取り寄せ好んでかなでていた中でも一番わけがわからず、錯綜した混沌しか読み取れない(アイヴズはやりようによっては混沌から純度の高い哲学(しばしば文学)的幻想を汲み取ることができる作品がほとんどである)生硬な作品として一番縁遠くかんじていたものだが、評者にはこの作品をアイヴズのヴァイオリン作品の中で最も高く評価する人もおり(アイヴズ自身も本気で取り組んだのはこれだけと言っていたというが)、田舎臭い賛美歌への奇怪な逆変奏をたどる終楽章(素材的に4番交響曲に転用されているし、この作品全体も4番交響曲と繋がるようなところがあるのだが)など陳腐で無骨でヘタなやり方に思えたものだからおかしなことだと思っていた。しかし半面2楽章の思索的な晦渋さにはアイヴズの最良の部分が(日寄ったほうでも過度な前衛でも)飾らず提示されているところには惹かれた。いずれヴァイオリン的には(番号なしのものや「5番」を除けば)技術的難度の低いものばかりの作品群の中では最も指とセンスを問われる作品として敬遠してもいた。
だが、さきほどこのアイヴズの番号付ソナタ全集(プレファーストや「5番」を除く)としては最も「フランス的」で聴き易く、技巧もセンスもそうとうの高みにたっしている盤の、まったく筆をつけていなかったこの作品を聴きなおしたとき、耳から気まぐれに鱗が落ちた。
これは他のソナタとは違う。これは、「ピアノを聴くべきなのだ」。アンサンブル曲であり、譜面の題名どおりのピアノ伴奏付「ヴァイオリン・ソナタ」ではない。
そういう耳で聴くと、僅か2本でアイヴズが創り上げようとした世界の大きさ深さに驚かされる。構造的創意も幾分直観的であるとはいえあの非標題的傑作「ピアノ・ソナタ第1番」並みのものがつぎ込まれている、つぎ込もうとしている。1楽章冒頭の6音からなるとつとつとしたノンペダルのフレーズ(対旋律の断片的変容)が曲の諧謔的かつ哲学的世界の幕開けと幕引きを知らせるあたりはまさに、クラシカルな音楽の枠をこえてモダンな昇華をへた世俗のカッコイイ感覚を持ち込んでいる。3,4番交響曲の終楽章をはじめ数々の曲で、有機的に紡ぎあげられるアーチ構造の両端を、硬度の高い静寂として描いている、その方法論が既にこの簡素なアンサンブルの中で、しかも成功例として提示されている。
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1楽章のピアノがとにかくカッコイイ。アイヴズの楽譜は本人による決定稿がなく演奏家にバンバン変更されるものが多い。本人もわりと寛容(一部奨励)だったらしいが、この演奏においても日寄ったほうに改変されている可能性があるとはいえ(ピアノ譜をなくしたので確かめられないのですいません)、音楽的激変の10年であった1900年代に、シェーンベルクから生臭さを極端に抜いたような、たびたび比較されたストラヴィンスキーの鉄鋼製品のようなパッチワークに、アメリカ民謡をいじらず生のまま投入することで却って突き放したような醒めた感覚と純粋な旋律的叙情性を追加したような、そう、ストラヴィンスキーがやや距離をおきながらもアイヴズの作品を中心とした私的演奏会に行っていた、何故アマチュアイズムを嫌い無邪気な西海岸の前衛をけなしたストラヴィンスキーがアイヴズを聞いたのか、わかるような気がするのである。このドライな1楽章では、ウェットな楽器であるヴァイオリンはコンコード・ソナタのヴィオラくらいの役目しかない。
アイヴズは理論において父親の実践的探求をベースにアカデミックなものを意図的に遠ざけ、独自の机上研究(わりと得意だったオルガンやアップライトピアノはあったにせよ)を深めていったが、もともと創作屋であり分析屋ではないため、その論理性において奇怪なゆがみと甘さがあることは死後使徒がまとめたメモ集をなめれば理解できるだろう。だが亡命者シェーンベルクがアイヴズを驚異の目で見たのは恐らく理論ではない。創作されたそのもののはなつ、直観的先駆性の凄みそのものだろう。2楽章の哲学性は冷静にきくとそれほど煩雑で込み入ったものではない。創作者が聞けばそこに整理されないものの不恰好さより追求されようとした世界の異様さに圧倒されるというものである。最後の(アイヴズ特有のマンネリズムでもあるが)ピアノのノイジーな乱打にはまだトーン・クラスター指示はなかったと思うが、2番では弦同士の共振を計算して一定長の板によるクラスター奏法を指示したアイヴズ(その意図どおりの音響をはなつ演奏・録音はほとんどないし、やはりこの時点では机上論的だったのだが)、たぶん1番でもそれをやりたかったのだと思う。諸事情でやめたのだろう。この演奏ではやや綺麗すぎるおさまり方をしているのが惜しい。
3楽章はやはりどうしてもヴァイオリンに耳がいってしまい、交響曲第4番の器楽編曲という不恰好なものにきこえてしまうのだが、ピアノをやはりきくべきで、ヴァイオリンは「ユニヴァース・シンフォニー」で言えば「背景に連なる美しい峰峰」にすぎない。いや、アイヴズの作品はその「情景」を構成する視覚的諸要素をそれぞれ音にうつしかえて五線という印画紙に投射したものでありそもそも「旋律もしくは音列と構造の対比」という概念が(本人がどう意図したかによらず)薄いのである。
二本の楽器ではいくらピアノをつかっているとはいえ限界はあり、上記のことを念頭に置かないとまともに鑑賞できないというのは作品の欠点ではある。ただ、賛美歌が無造作に構築されたあとの動きの不可思議さには、自然への畏敬と一種超自然的なもの(宗教的に言えば神なのだろう)への崇敬の感覚を持ち続けたアイヴズの美学があらわれている。
こんなに長く書くつもりはなかったが、2番4番のわかりやすさや3番の陳腐さ、プレファーストの非音楽的な晦渋のどちらの極端にもよらない、やはりアイヴズのヴァイオリンソナタでは一番に推されるに値するものではある。そして入門盤として硬質なリリシズムをたたえたこのコンビは最適である。