湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ルーセル:交響曲第2番

2007年05月23日 | フランス
○デルヴォ指揮コロンヌ管弦楽団(EMI/PATHE)

わりと未だ印象派的とかそういうくくりで説明される曲のように思うが、和声的で非構造的な部分も無いこともないものの、寧ろ重厚でも整理された響きで洗練をみせる同時期(1910年代)の中欧産ロマン派交響曲と似た情景が冒頭より展開される。またもや比較に出してしまうがツェムリンスキーの抒情交響曲やRVW中期以降の交響曲(但し共にもっと時代は下る)とスタンスがかなり似ている。その意味で先駆でもある。後半楽章あたりになってくると強い響きを伴う単調なリズムが明確にあらわれており、バレエ音楽に既に出てきた後年の特徴であるオリエンタルな半音階的な音線を支えるひたすらのリズム・オスティナートが、3番ほどのバーバリズムは無いがそのぶん聞きやすい形で提示され単純に心地いい振動となる。スマート快楽派や人生疲労派の聴衆にはこういう曲が適切です。デルヴォーは巧いなあ。マルティノンほどの強烈さがなく、ロマンティシズムが爽やかに紡がれている。
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gooアフィリエイトβ終了のお知らせ

2007年05月22日 | Weblog
アフィリエイトなぞ興味は無いが、こんなんで大丈夫かgooブログ???この御時勢にアフィリエイトの仕組みを「やめる」という選択はただでさえ鈍重で使い勝手の悪いココのイメージを悪くさせないか?GWに指摘した不具合も改善も回答もないし、、、

タグ機能もないし、唯一(ソートはぐちゃぐちゃだけど)データのテキストベースのバックアップができることぐらいかここの売りは。しかも有料会員のみ(私も)。
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練習なのか?

2007年05月22日 | Weblog
徹夜明けは見事に指が言うことをきかない。びっくりした。数十年ぶりに見るモーツァルトの5番のヨアヒム版の一楽章、ボウイングや音をすさまじく勘違いして覚えていて、それもあるんだけど。さいきん難しい難しいばっか言ってるがこいつぁ案外難しい、テンポどおりやるのは。ショスタコのピアノトリオ二番とベトコンほかを軽くつまむが、ダメなときはダメなんでした。おわり。
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ブラームス:交響曲第4番

2007年05月22日 | ドイツ・オーストリア
○マックス・フィードラー指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団(DG)1930・CD

性急でつんのめり気味な1楽章は、ややもすると二つの絡み合う流れが分解され並行してしまうくらいに緩いアンサンブルが目立つが(音的にもイギリスオケみたいな無個性さがある)、時折見栄を切るような聞かせどころを作るところが往年の演奏らしいところだ。フィードラーはかなりオケを制御し、人工的な印象を与える。だが大部分は揺れの無いトスカニーニ的な演奏である。時折混ざる「をっ」というような独特の処理を除けば3楽章までは余り個性的な部分は無い。

しかし、4楽章はあっというような場所が多い。この人は歌謡的な流れを恣意的なフレージングにより効果的に演出するという点において非常に巧い。誰しも音盤や演奏会を聞くとき、自分の脳内に流れる音楽と如何に近似しているか、あるいは如何に意外性があるかという聞き方もあるかもしれないが、その恐らく自分で演奏しないことには完全に満たされることのない欲求に従って鑑賞するものと思う。この人の自在なスラーの掛け方スタッカートの付け方、その旋律への反映方法が個人的にびっくりするくらいマッチしている。ブラームスの交響曲では最も古典的な曲のパッサカリアだけにドラマチックに演出されるのは作曲家の本意ではなかろうが、しかし地味で渋く大して盛り上がらないとコテコテのロシア国民楽派好みの人たちに思われてる「であろう」この楽章の、何と魅力的なことか、その理由が上記のフレージング配慮にあると言っても過言ではない。テンポルバートや構造の抉り出し方がその中心ではない。旋律の歌わせ方の心得の部分なのだ。弦楽器をよくわかっているなあ、と感心。まあ、技術的に牧歌的な時代に、譜面に手を加えてそれを克服させる手段としてとった方法論なのかもしれない。今の技術なら別にこんな手の加え方はいらなかったかも。・・・と言いつつ、4楽章はブラームスマニアは破天荒に感じられる程度には激しいので、この楽章、注目。録音はSP音源にしてはクリアさがない。ノイズリダクションを無造作にかけすぎて迫力がなくなっている。しかもノイズは残っている。
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練習日記

2007年05月22日 | Weblog
ついにメトロノーム(最安・チューナー付)と肩当てを買う。

チューナーでまずは音感が物凄く上がっていたことに愕然。424くらいにしたら楽器が鳴るようになった。

更にメトロノームを使うとロマン派が無茶やりにくいことに気が付く。こんなにメロメロになっていたかと愕然としながらチャイコのトリオ一楽章を通してみる。冷静にやるとまたださくなるのが難しい。。無伴奏ソナタから二つくらい楽章を通してみる。もちろん凄く遅く。ベトコン3楽章も無理矢理通す。ほとんど勘。どっちも聞いたことも通したこともないほぼ初見だけにさすがにテレビを消して集中。肩当てがあると楽器がずり落ちる心配がないからさらに集中できる。古典のほうがかっちりテンポにはまり、かつ基本的にスケール通りなので初見しやすい、、が、どっちも純粋に練習が必要な難しさがある。古典派ならではのきっちりしいの難しさだ。ベトもロマン派とか言わないやうに。ベトコンはアレグレットくらいのテンポでとりあえずちゃんとやることだ。無茶とりづらい調だったりして久々に汗かいた。運指決めて力抜いて冷静にやればきっちり弾けるようになるだろうに、無謀な飛び付きを好む癖とか直さないとなあ。ハイフェッツとクーセヴィツキーの盤を見つけたが聴い
たら二度と弾かなくなると思うので聴かない。

しかし長年の独自路線ですっかりまっとうな耳コピ演奏力がなくなってしまった。そのぶん譜面からしか追えないたぐいの現代物に強くなったとはいえ、モツベトあたりは耳から入ったほうが早道ではあるんだよなー。。
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アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第1番

2007年05月20日 | アイヴズ
◎フルカーソン(Vn)シャノン(P)(BRIDGE)CD

アイヴズの作品名にはしばしば余り意味がないものや意図的に異化されたものがある。多くは商業的理由や演奏機会を増やすためのものであったらしいが、この曲、私自身は学生時分より譜面を取り寄せ好んでかなでていた中でも一番わけがわからず、錯綜した混沌しか読み取れない(アイヴズはやりようによっては混沌から純度の高い哲学(しばしば文学)的幻想を汲み取ることができる作品がほとんどである)生硬な作品として一番縁遠くかんじていたものだが、評者にはこの作品をアイヴズのヴァイオリン作品の中で最も高く評価する人もおり(アイヴズ自身も本気で取り組んだのはこれだけと言っていたというが)、田舎臭い賛美歌への奇怪な逆変奏をたどる終楽章(素材的に4番交響曲に転用されているし、この作品全体も4番交響曲と繋がるようなところがあるのだが)など陳腐で無骨でヘタなやり方に思えたものだからおかしなことだと思っていた。しかし半面2楽章の思索的な晦渋さにはアイヴズの最良の部分が(日寄ったほうでも過度な前衛でも)飾らず提示されているところには惹かれた。いずれヴァイオリン的には(番号なしのものや「5番」を除けば)技術的難度の低いものばかりの作品群の中では最も指とセンスを問われる作品として敬遠してもいた。

だが、さきほどこのアイヴズの番号付ソナタ全集(プレファーストや「5番」を除く)としては最も「フランス的」で聴き易く、技巧もセンスもそうとうの高みにたっしている盤の、まったく筆をつけていなかったこの作品を聴きなおしたとき、耳から気まぐれに鱗が落ちた。

これは他のソナタとは違う。これは、「ピアノを聴くべきなのだ」。アンサンブル曲であり、譜面の題名どおりのピアノ伴奏付「ヴァイオリン・ソナタ」ではない。

そういう耳で聴くと、僅か2本でアイヴズが創り上げようとした世界の大きさ深さに驚かされる。構造的創意も幾分直観的であるとはいえあの非標題的傑作「ピアノ・ソナタ第1番」並みのものがつぎ込まれている、つぎ込もうとしている。1楽章冒頭の6音からなるとつとつとしたノンペダルのフレーズ(対旋律の断片的変容)が曲の諧謔的かつ哲学的世界の幕開けと幕引きを知らせるあたりはまさに、クラシカルな音楽の枠をこえてモダンな昇華をへた世俗のカッコイイ感覚を持ち込んでいる。3,4番交響曲の終楽章をはじめ数々の曲で、有機的に紡ぎあげられるアーチ構造の両端を、硬度の高い静寂として描いている、その方法論が既にこの簡素なアンサンブルの中で、しかも成功例として提示されている。

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1楽章のピアノがとにかくカッコイイ。アイヴズの楽譜は本人による決定稿がなく演奏家にバンバン変更されるものが多い。本人もわりと寛容(一部奨励)だったらしいが、この演奏においても日寄ったほうに改変されている可能性があるとはいえ(ピアノ譜をなくしたので確かめられないのですいません)、音楽的激変の10年であった1900年代に、シェーンベルクから生臭さを極端に抜いたような、たびたび比較されたストラヴィンスキーの鉄鋼製品のようなパッチワークに、アメリカ民謡をいじらず生のまま投入することで却って突き放したような醒めた感覚と純粋な旋律的叙情性を追加したような、そう、ストラヴィンスキーがやや距離をおきながらもアイヴズの作品を中心とした私的演奏会に行っていた、何故アマチュアイズムを嫌い無邪気な西海岸の前衛をけなしたストラヴィンスキーがアイヴズを聞いたのか、わかるような気がするのである。このドライな1楽章では、ウェットな楽器であるヴァイオリンはコンコード・ソナタのヴィオラくらいの役目しかない。

アイヴズは理論において父親の実践的探求をベースにアカデミックなものを意図的に遠ざけ、独自の机上研究(わりと得意だったオルガンやアップライトピアノはあったにせよ)を深めていったが、もともと創作屋であり分析屋ではないため、その論理性において奇怪なゆがみと甘さがあることは死後使徒がまとめたメモ集をなめれば理解できるだろう。だが亡命者シェーンベルクがアイヴズを驚異の目で見たのは恐らく理論ではない。創作されたそのもののはなつ、直観的先駆性の凄みそのものだろう。2楽章の哲学性は冷静にきくとそれほど煩雑で込み入ったものではない。創作者が聞けばそこに整理されないものの不恰好さより追求されようとした世界の異様さに圧倒されるというものである。最後の(アイヴズ特有のマンネリズムでもあるが)ピアノのノイジーな乱打にはまだトーン・クラスター指示はなかったと思うが、2番では弦同士の共振を計算して一定長の板によるクラスター奏法を指示したアイヴズ(その意図どおりの音響をはなつ演奏・録音はほとんどないし、やはりこの時点では机上論的だったのだが)、たぶん1番でもそれをやりたかったのだと思う。諸事情でやめたのだろう。この演奏ではやや綺麗すぎるおさまり方をしているのが惜しい。

3楽章はやはりどうしてもヴァイオリンに耳がいってしまい、交響曲第4番の器楽編曲という不恰好なものにきこえてしまうのだが、ピアノをやはりきくべきで、ヴァイオリンは「ユニヴァース・シンフォニー」で言えば「背景に連なる美しい峰峰」にすぎない。いや、アイヴズの作品はその「情景」を構成する視覚的諸要素をそれぞれ音にうつしかえて五線という印画紙に投射したものでありそもそも「旋律もしくは音列と構造の対比」という概念が(本人がどう意図したかによらず)薄いのである。

二本の楽器ではいくらピアノをつかっているとはいえ限界はあり、上記のことを念頭に置かないとまともに鑑賞できないというのは作品の欠点ではある。ただ、賛美歌が無造作に構築されたあとの動きの不可思議さには、自然への畏敬と一種超自然的なもの(宗教的に言えば神なのだろう)への崇敬の感覚を持ち続けたアイヴズの美学があらわれている。

こんなに長く書くつもりはなかったが、2番4番のわかりやすさや3番の陳腐さ、プレファーストの非音楽的な晦渋のどちらの極端にもよらない、やはりアイヴズのヴァイオリンソナタでは一番に推されるに値するものではある。そして入門盤として硬質なリリシズムをたたえたこのコンビは最適である。

TREview
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日曜練習

2007年05月20日 | Weblog
目的の譜面がみつからず、また無茶弾きに。ミヨーのカルテット8番なんてものすごく久しぶりで曲すら覚えてない。ミヨーはやはりかなり無茶をするが、そのあと春のコンチェルティーノを無理しないテンポで通したら通った。ソロ譜をアンサンブルパート譜と書き分けてるのだ。無茶巧い。ただ、この独特の音線は覚えてないときつい。ハチャトゥリアンのコンチェルト・ラプソディは最初の数小節で断念。そりゃ練習すりゃあるていど音にはできるんだろうけどさ、さらう気がどうも・・・。ブラ1のパート譜が出てきたので終楽章の主主題提示からあとを通してみるが、やっぱすごく難しい。メカニカルで隙がない。ちょっとでも音を違えたりすると作曲家意図がすぐ瓦解。こりゃ大変。ミヨーも隙がない譜面を書くけど、ブラームスは机上論的というか考えすぎというかこんな細かい臨時記号やリズム処理を組子にしたところで聴くほうはあまり気がつかない。のだめでも出てたなこの曲。構造がマニアックすぎてファーストでないと弾けないわ。新古典だから練習になる譜面と思いきや、そういう要素は完全に消化されベツモノになってる。ううむ。憂鬱なセレナーデはほんとに憂鬱になってやめた。今日触れた曲はいずれも弾ける前に飽きる可能性が高い気がする。。
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ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」

2007年05月20日 | 北欧・東欧
◎スメタナ四重奏団(DENON)1980/9/30神戸LIVE

スメタナ弦楽四重奏団絶頂期の有名なPCM録音で極めてクリアな録音にもかかわらず一切の瑕疵やハーモニーバランスの崩れもないばかりか民族的な音色表現も存分に発揮され非常に高度な演奏スタイルがここに確立されていることがわかる。当時本人たちも会心の出来と自賛したことがうなづける、硬質ないかにも東欧派的演奏でありながら土臭いローカリズムが横溢する、ちょっと「アメリカ」という題名がそぐわないくらいの国民楽派的演奏として特筆されよう。私は後期交響曲とチェロコン以外のドヴォルザークのメカニカルなマンネリズムを好まないが、この演奏にはメカニカルな面の再現を追及したに留まらないオーソリティならではの深い理解も聞いてとれた。◎。
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週末練習

2007年05月18日 | Weblog
携帯を右手で打つように意識したら左手が少しよくなった。どんだけ重いんだP901iTV。しかし無理せず無伴奏ソナタのごく一部とドビュッシー、チャイコのトリオのそれぞれ1楽章を通す。曲を忘れている。
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ブルックナー:交響曲第5番

2007年05月18日 | ドイツ・オーストリア
○クレンペラー指揮ニュー・フィル(WME:CD-R)1967/3/21LIVE

瑞々しく、生き生きとしたブルックナー。無頼坊の力任せな演奏でも切り裂くような野武士の解釈でもない。得意の演目だが、ウィーンのような音色の座り悪さもケルンのような乾燥した表現の素っ気なさもなく、オケの共感がささえたこのコンビの幸福さがロマンティックですらある制御され歯切れよく統一されたカンタービレに聞いてとれる。ブルックナーのイギリスオケものにほとんど関心のわかない私だが、立体的で迫力満点の音響に後期ベートーヴェン的なスケールの大きな流れが伴い、かつ不断のスピードが未だ覇気を保っているこの偉大な演奏ぶりには圧倒された。ブルックナー転調の鮮やかな描き出し方も圧倒的で、フィルハーモニアならではの安定した音質と機能性のなせるわざだろう。録音の極端な悪さを除けば、この他に類を見ない大ブラヴォに終わる演奏をおいてほかに薦める音盤を知らない。録音マイナスで○にするのが心ぐるしい。
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わりと腱鞘炎

2007年05月18日 | Weblog
今朝から左手の手首より先が痺れるように痛い。しかし今度ははっきりわかった。

ケータイの打ちすぎなのだ。

私のWEB上の生態をご存知の向きはおわかりだろうが、とにかくたくさんサイトやブログにBBSやSNSアカウントを持っている(HNも使い分けてます)。そして3つほどはほぼ毎日、わりとしっかり書いている。

そのほとんどが携帯から打っているのだ。歩行中、車中、寝る前。その無駄になりがちな時間を集中して費やしている。

だがひとつ問題が生じた。

昨秋よりワンセグ携帯にしたら、やたら重いのである。

鍛えてない手にこの重さは余計な負担をかける。今は両手か右手をつかっているが、それでも完全に右手というわけにもいかない。


打つのは速いほうだが、1000字をこえる長文は意図的に控えるようにした。指先が擦れて痛い。まとめてPCが使える僅かなときに打ったりするが、やはり落ち着いて時間を費やせるのは隙間時間なのでやめられない。


思えば、でかい携帯に切り替えたころから左肘先が痺れるようになり楽器を弾けなくなったのだ。ううむ、今、早弾きに左手のほうがついていけないという未だ経験したことのない逆転現象が起きていたり、通常トリルや引っ掛け装飾音ができなくなってる(痙攣ヴィブに逃げている)のも、練習不足にくわえそういうこともあったわけかあ。



インドメタシンの再登場である。
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シェーンベルク:室内交響曲第1番

2007年05月18日 | ドイツ・オーストリア
○コーリッシュ指揮・Vn、マルボロ・アンサンブル(ARCHIPHON:CD-R)1964LIVE

熱い演奏で、シェーンベルクとは浅からぬ仲で現代モノ専科とみなされがちなルドルフ・コーリッシュの本質がかいま見えるマールボロのライヴ。性急なテンポでアタックをしっかりつけながら曲の構成のままにドラマティックな起伏を抉り出していく。ライヴなりのアンサンブルの緩さも表現主義的な激しさの前に気にならない。わりとロマンティックなマーラーみたいな感じがよい。この時期にしてはやや録音は劣るか。モノラル。
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サティの誕生日

2007年05月17日 | Weblog
梨の形をした誕生日。
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ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」

2007年05月17日 | ストラヴィンスキー
モントゥ指揮LSO(DA:CD-R)1963/5/23春の祭典初演50周年live

これは演奏というより音盤としての欠陥があり、第二部で長大な「混信」が聞かれるのである。この混信は痛い。男性アナウンサーの声がうるさい。あと、最後は素晴らしくスピーディでドライヴ感のある演奏で間髪入れずのブラヴォとなるわけだが(オケも実にそつなく巧い)、最初はやや温度が低く、引きずるようなテンポが春のめざめに入っても続くのが気になった。まあ音盤としては無印。
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ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」

2007年05月16日 | ショスタコーヴィチ
○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(revelation)1959/11/2・CD

録音が篭っていてかなり聞きづらいモノラル音質。演奏はスリムでしなやか。1楽章など悲愴にドラマチックにアゴーギグをつけてはいるが印象として素っ気無さが残る。焦燥感のあるスピードからきているのだろうか。これはムラヴィンの芸風の特長でもある。トスカニーニも原典主義といいながらかなり独自の解釈を投入している場合もあり、それでもやはり直線的で原典主義という捉え方をされるところに通じるものを感じる。生々しくリアルな音作りはラフリンなどと違い幻想的な音風景を常に現実世界に引き戻して純音楽的であろうとする、そのへんが好悪あると思う。4楽章になると途端に息を吹き返したようになるのは曲自体の性格のせいもあるが、ムラヴィンの芸風とレニフィルの合奏力が最も活きるのがこのような闘争的な楽章であるということもあるだろう。最後の沈潜がやはりリアルでちょっと物足りない。警鐘の鐘よりもオケ全体の破裂のほうがすさまじいのは録音のせいだろう。全般小粒な印象。おまけで○。
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