湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

マーラー:交響曲第9番

2008年05月15日 | マーラー
○ホーレンシュタイン指揮ウィーン交響楽団(DA/WME:CD-R)1960LIVE
四角四面で武骨で遅くつまらない解釈を施すイメージのある人ではあるが、縁深いウィーンのオケとやるとがぜん感情的でスピーディな表現を行う。だからホーレンシュタインは追う価値があるわけで、この演奏は「いい方」である。録音が時代からして極めて貧弱なので、絶対に薦められないが、ホーレンシュタインのガシンガシンと重い発音が、共感を音色に籠めて力強く歌うウィーン響と合致したとき、たとえばイギリスや北欧のオケとやったような無味乾燥さはいささかも感じられない。艶はないが感傷はある。4楽章の弦の迸る熱意、なめらかな表現、織り交ざるポルタメントの妙。厚い響きの歌が途切れることなく、ついえることもなく、足踏みしながら激しく、続く。ああ、ホーレンシュタインの音感覚というのはあくまで中欧のもともと色のついたオケでやることを前提にしており、それが差になってくるのか。アメリカ響のライヴやVOX録音に惹かれた向きにはお奨めする。男気溢れる熱情が構築性の中に活きている。1楽章も聞きものだが、個人的にリアルで生々しく、素晴らしく立体的な造形の施された4楽章が印象的だった。○。WMEはDA音源を利用した模様。

<ホーレンシュタインのマラ9 主要レコード>
Mahler: Symphony 9/Kindertotenlieder

Vox

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Mahler: Symphony No.9 & Kindertotenlieder

Music & Arts

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アイヴズ:ピアノ・ソナタ第1番

2008年05月15日 | アイヴズ
○ノエル・リー(P)(Nonesuch)LP

かつてはそれなりに有名な録音だったし、このピアニストの人気からすればもっと取り上げられてもいいものだが、なぜか古いマニア以外には注目されない。第二番「コンコード・ソナタ」のほうが有名だから、とかそちらのほうが有名ピアニストがやるから、という程度の問題だろう。しかし曲としてはこちらのほうが抽象的で、文学的な側面や手法的な個性を主張するよりも純粋な創作欲をピアノ一本に籠めた作品であり、入りやすいと思う。少々長めだが現代作品のように頭を凝らす必要もなく、スクリアビンのような程よい前衛性に身をひたすことができるのである。この人の演奏はアメリカの「土俗的演奏家」とはまったく違うし、中欧の前衛派のヘンクのような厳しさもない。フランス的というわけでもないのだがそのへんの柔らかい表現がアイヴズの「男らしさ」に絹をまとわせ、かといって包蔵する哲学的な闇の世界を本質としてしっかりとらえ、必要最小限のところでははっきりした打鍵で不協和な風を吹かせてもいる。わりとわかりやすいほうに解釈した演奏と思う。アイヴズを聴いている感じがしない。改変うんぬんはめんどくさいのでよくわからないが、この時期には多少いじっている可能性はあるだろう。フルートやヴィオラの入る邪道な標題ソナタばかりがアイヴズだと思ったら大間違い。まずこの作品から入るべき。○。

(参考)アイヴズの1番

ヘンクの真面目な古典的名盤
Ives;Sonata for Piano No.1
Henck
Wergo

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縁深いコープランドとの好カップリング
Ives: Piano Sonata No. 1

Mode

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(参考)ノエル・リー

ソロ現役盤は殆どない。伴奏・アンサンブルものやアメリカ現代音楽は何枚か現役である。

ミヨー集に参加(廉価なのでミヨー入門盤としてお勧め)
Milhaud: Scaramouche; Le Bal Martiniquais; Paris

EMI

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(参考)自作自演集
No醇Rl Lee: Caprices on the name Sch醇rnberg

CRI

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ラヴェル:歌劇「スペインの時」

2008年05月15日 | ラヴェル
○トリュック指揮管弦楽団、クリーゲル他(PEARL他)CD

最古の録音だが非常に歌唱に雰囲気があっていい。オケの表現も明瞭で、ラヴェル独特の冷え冷えとした南欧の空気感こそ伝わる録音状態ではないものの、古い演奏特有のぬるま湯のような音がロマンティックな側面を適度に引き出し、ドビュッシーを聴くように楽しめる。流して聴くぶんにはかなりいい演奏。雑音に弱い向きには無理。○。

Ravel En Espagne

Pearl

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マーラー:交響曲第2番「復活」

2008年05月14日 | マーラー
○ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団他、ウッドランド(S)ベイカー(Ms)
(BBC legends/inta glio/M&A他)1963/7/30ロイヤルアルバートホール・プロムスlive・CD
Mahler: Symphony No. 2

BBC

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BBCレジェンズはマスターからの良復刻。非正規盤はモノラルで余りよくない(intaglio)。残響付加がややうざいが重低音はなかなかに迫力がある(ストコの臨機応変なハーモニーバランスのとり方は実に素晴らしい、高音に偏重せず必要な音域を響かせる)。編成が極めて大きいから安定感があり貧乏さが皆無で安心して楽しめる(貧乏な復活は貧乏な千人同様聴くに堪えない、古楽器マーラーなんて言い出したらもう・・・)。演奏は冒頭より稀有壮大あるいはゴージャスで甘美あるいは厳しく邪悪なもので、メリハリがある、しかしスムーズな、いかにもストコだ。ロンドンオケにここまで隈取の強い音を出させるのもストコの魔術。

どうにも壮大なぶん遅い部分もあり、管楽ソロのミスも散見されるものの、弦楽器、とくにチェロバスの迫力が凄い。マイク位置のせいかもしれないが弓音がいちいち強く脂粉飛び散るが如くだ。派手なもののおおむね歌謡的な演奏で上記変化はメロディの動きに従属的に付けられたものだが、やりすぎといった違和感はない。対位的な動きもきびきびしたリズムにのってしっかり立体的に組み合って聞こえてくる。この曲を得意としたストコらしい板についたところである。遅いテンポと重い響きでダレる寸前に2楽章へいくのがうまい(1楽章と2楽章の間に休憩を入れるならまた違う表現になるのかも)。やや遅く構造がきちっとしすぎているものの小気味いい音楽ではある。3楽章は迫力あるティンパニから邪悪な音楽。4楽章「復活」はベイカーのそつない歌唱を芳醇でそっと包み込むオケが巧い。

終楽章は録音が捉えきれない迫力の表現から、ただ、ブラスがやっぱりいきなりしくっているのは気になる。直後、静かな表現のほうがストコの繊細な音響感覚を良く伝えている。終始リズムセクションがきっちり正しく刻んでいるのでダレない。ストコにバンスタのようなグズグズイメージを持っている人もいるが、曲によってはかなり厳しくリズムを意識した演奏を行う。スピードも相対的には遅くは無く、わりと攻撃的だ。弦のコントロール、ブラスの扱い共に自在なストコはこの終楽章では一長を持っている。いや、合奏部を生で聞いたら圧倒されたことだろう。さすがに生なのでセクション間で僅かに縦がずれるところもあるが芳醇な響きが打点をあいまいにするゆえ気にはならない。

行進曲は生気に溢れた独壇場だ。旋律に極端なテンポルバートをかけている記録もあるがこの演奏ではそれほど派手にはかけていない。バンスタの芸風で言えばNYP常任時代であってウィーン大好き自由契約時代ではない。バンスタ晩年のバブル来日の代演時はセレブが荒れたなあ。ホロヴィッツパニックとか、ほんとあほな時代だった・・・脱線した。舞台裏のバンダが大編成で派手に吹かしてびっくりするがそこがまたしっくりくるのがストコマジック。マーラーの指示なんてどうでもいいのだ。ある意味、音楽外効果に頼らない純音楽的配慮(そもそも舞台配置が特殊な可能性は高いが)。テンポが後半にさしかかってどんどん速めになっていくのはいつもの方法である。

天国から行軍ラッパが響いてきた情景とは到底思えないリアルな表現から、しかし合唱はとても美しい。このくらいの遅さでミスるのはロンドンの木管らしくない。伸び伸びと情緒たっぷりのボウイングが印象的な弦。各声部の絡み合いが実に美しく、そこから立ち上る混声合唱及び独唱の慎重に途切れない音、重層的な響きはここぞとばかりに情緒を畳み掛ける。独唱のやや浅い声に誘われ、音楽は終幕へと向かう。ストコの芸というより、このあたりはソリストと合唱指揮と総合的な芸となっていて、個性は情緒たっぷりのテヌート表現のみか。そこから焦燥感のない、壮大なクライマックスへと至り、ストコのカリスマ性を感じさせる盛り上がりが形成される。合唱はなかなか弾けないしブラスは重々しいアクセントを付けて煽ることは無いが、最後の最後にいきなり合唱がストコフスキ・クレッシェンドをかけてあっと言わせる。そこからはパウゼを伴うブラスとパーカスの派手派手な響き、最後の輪をかけたストコフスキ・クレッシェンドの凶悪さ、観客のブラヴォの渦。いや、千両役者だ。○。
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マーラー:交響曲第3番

2008年05月13日 | マーラー
○ケーゲル指揮ドレスデン・フィル、マジャロワ(A)(WEITBLICK)live・CD
Mahler: Symphonie Nr. 3 d-moll

Weitblick

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甘さの無い峻厳な演奏。時折奇矯なほど鋭く強いスフォルザンドの付けられた単音や、アクセントを異様に付けられた装飾音が聞かれるケーゲル節だが、「節」という言葉ほどこの人に似合わない言葉もない。これはドイツ古典派的な均整感を重視しロマン派的な歌謡的情緒性を禁じた演奏である。終楽章が陶酔的な節回しが印象的にもかかわらず、ひたすらに静謐で重厚で(長大すぎて)まったく感傷をあおられないのはきわめて統制され縦のブレを許さない表現ぶりに起因している。ただ、悲劇的曲想でいきなりアッチェルし溜めをつけて極端にダイナミックな表現をつけているところが山葵になっている。このデジタルな変化付けが表現主義者ぽく、ケーゲルらしい「改変」だ。最後の時間をたっぷり使った雄大な盛り上がりは設計のしっかりした指揮者にはむしろありがちな表現で、ケーゲルの足踏みが聞こえる重々しいフィナーレは印象的ではあるが特異ではない(テンシュテットよりも音響の目が詰まって聴き応えがあるが)。1楽章こそオケに乱れがありケーゲルの陽の部分が多少人間味をおびて聞こえてくるが(楽曲がそうなのだが)、中間楽章はじつに静かで暖かい演奏ぶりが心地よく、ついうとうとさせるような雑味のなさがいい。原光は静謐すぎてほとんど届いてこない印象があった。だが細かい部分でケーゲルらしい独特の切り裂くような音表現というか「解釈」が入りはっとさせられる(注意深く聞けばもっといろいろやってるかもしれない)。5楽章は子供の合唱の録音が乱れ耳障り。全般、やっぱり「表現主義的演奏」だが、客観主義の気のより強い現代的な演奏ではある。個人的には一部を除き眠かった。○。
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マーラー:交響曲第3番

2008年05月12日 | マーラー
○シェルヒェン指揮ウィーン交響楽団、レッスル・マイダン(MS)(TAHRA他)1950/10/31・CD

↓売り切れのようです
Symphony 3
Mahler,Scherchen,Vso,Rossel-Majdan
Tahra

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↓データ詳細不明(ASINは別、2枚組)要確認
Mahler;Symphony No.3
Scherchen,Vienna So
Tahra

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TAHRAから当時のシェルヒェンCDディスコグラフィーと同封でCD化されたもので他にも復刻はある。個人的にTAHRAのシェルヒェン復刻は篭り気味で音場が狭く迫力がないから好きではない。もっと突き刺すような音表現が開放的に響いてほしいが、これはリマスターの好みだろう。LPではもっと派手だった気がする。

演奏の印象はさっさと進む感じでリズミカルでテンポ感がいい。だが緩徐部にはしっとり情緒がある。オケがいいのだろうが、シェルヒェン自身がデジタルに表現を変えているせいもあるかもしれない(録音のせいではっきりとは聞き取れないが)。じつにマーラーを聞いている楽しさはあり、マーラー指揮者を楽しむという感覚に酔える。ライヴかもしれないが(拍手なし)、VSOOとの一連のマーラー録音のように自己主張が抑えられているから聞きやすい。同時代の個性的な指揮者と比べ比較的地味な印象があるのはそのせいかもしれない。終楽章ももちろん情緒はたっぷりだが、それほど乱れない。○。


↓ライプツィヒ・ライヴ、異常なテンションの演奏(再販は品切れの模様)
Mahler: Symphony No. 3 / Adagio from Symphony No. 10

Tahra

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ミヨー:ピアノ協奏曲第4番

2008年05月09日 | フランス
○スコロフスキー(P)作曲家指揮ORTF(COLUMBIA他)CD

焦燥感のあるピアノの雪崩れ込みからいつもの牧歌的なミヨーが高音部で鳴り響く。高音部が管弦楽によって前期ミヨー的な暖かな音楽を繰り拡げるいっぽうで中低音域のピアノはひたすら動きまくる。依属者らしく表現に不足はなく危なげなく強靭に弾きまくる。せかせかした音符の交錯する結構入り組んだ楽章ではあるがさくっと終わる。2楽章は低音ブラス合唱で始まるこれもミヨーらしい人好きしない前衛ふうの深刻な音楽だが、ソリストは繊細な表現で音楽の無骨さを和らげている。3楽章は比較的有名なメロディから始まる楽天的な音楽で、打鍵の確かなこのソリスト向きの打楽器的用法が印象的である。喜遊的な雰囲気はミヨーの手馴れたオケさばき(必ずしも最高ではないが)によって巧くバリ弾きソリストをかっちり組み込んだ形で保たれていく。リズムが明確で押さえどころがしっかりしているゆえ、ミヨー演奏の陥りがちなわけのわからない冗長性は免れている。テンポ変化はほとんど無いが、そもそもそういう曲である。作曲家の職人的な腕による手遊びを楽しもう。○。
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ミヨー:ブラジルのソーダード

2008年05月09日 | フランス
○スコロフスキー(P)(COLUMBIA)LP

わりと著名な南米系作品であるが、しっかり落ち着いた表現でミヨーの内面的な部分を意外と的確に表現している演奏。サティよりも作風として確立している常套的な手法(ミヨーのピアノソロ作品の作風のすべてがここにある)によるとはいえ、魅力的な旋律の醸す儚げな楽天性の魅力は南米のリズムにのって、パリの社交界を彷彿とさせる都会的な不協和音を織り交ぜた抽象化をへたものになっている。古さもあってちょっと感傷的になれる演奏。けして旋律の魅力や民族的な舞踏リズムを煽るほうに逃げないどちらかといえばクラシカルなスタイル。なかなかに引き込まれる演奏ぶりで傾倒していることが伺える。ミヨーにレパートリーとして4番協奏曲をオーダメイドしてもらった気鋭のピアニストが同曲の裏面に収録したもの(作曲家自伝に記述がある)。協奏曲のみ最近CD化されたようだ。
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マーラー:交響曲第9番

2008年05月07日 | マーラー
○マゼール指揮バイエルン放送交響楽団(VON-Z:CD-R)1998/2/24シャンゼリゼ劇場live

1楽章。丁寧で荘重なテンポとフレージングが一種重さや暗さを孕み、同じ遅いテンポでもゆったり横の流れで壮大さを演出するジュリーニなどと違い深層的なマーラーらしさを獲得しているのがマゼール。BRSOだとVPOよりリアルな甘さの無いマーラーに聞こえる。色艶や荒々しさや力強さはなくマーラーの世俗の側面が煽られないぶんマーレリアンに受けがよくないのかもしれない。流麗で特有の空気感があり、しかし所々でテンポを思い直すようなリズムの重さがクレンペラーの解釈を想起する。もちろん時代柄もありそうとうに大人しく、また大人な演奏でもあるが、厳しく疎な音響(この1楽章であっても「音符が少ない!」と思わせてしまう!)に常時緊張が漲る、そういうリアリズムはライヴ演奏特有の迫真味を味あわせる。特に緊張感の高い演奏ではあると思う。

2楽章。1楽章に比べれば速い。弦がBRSOらしい雑味を入れながらも軍隊行進曲のように鋭く音符を切るさまにもこの指揮者の厳しいアンサンブル指示ぶりが伺える。律儀ですらある。じつに色のないベートーヴェン的な演奏。この生臭いスケルツォをこう捌くやり方は、私は好き。オケは堪らないか。スタジオ録音ならここまで制御されると分析的で詰まらなく感じるかもしれない。あくまで設計ありきで近視眼的な変化を付けないさまもマゼールらしい。

3楽章。少しテンポが重過ぎてダレ味が出る。ザッツもそれまでの精度が保てない。2と3の曲想の変化が無いゆえにテンポや表現で違いを付けないと聴く側も気分的な切り替えができないから、そういう細部が気になりだす(一応チューニングを挟んではいるが)。この曲特有の難しさでもありマーラーの中間楽章に時折感じられる難しさでもある。中間部の悲愴な音楽を際立たせるのであればテンポでなくともせめて色調に変化を付けて欲しいものだが、わりと即物的に処理されている。ハーモニーのバランス良さには聴くものがある。コーダで初めて激しく動き出すがどこかバラケとテンポ的な躊躇を感じさせる。派手な音響を煽ったのは長い無音状態のあとの4楽章とのコントラストを付けるためだろう。

4楽章はしかしそれほど力まないsulGから始まる。録音が遠いのかもしれない。音構造の透けて見えるマゼールの整え方はやはり弦主体の部分で最も的確に生きてくる。チェロバスの弾く和音的フレーズの何と詰まらないことか。でも肝心なところで動くため、無いと成立しない。こういったところが実にわかり易く聞こえる演奏である。まるで鉄鋼機械のようなガッシリしたアンサンブルがマーラーの「境地」をしっかりうつす。線的で単純な、音符の少ない音楽。でもワルターのようなウィーン的な横の動き主体のメロディ音楽にはせず、あくまでマゼールは縦のしっかりした「アンサンブル」としている。だからこそハーモニーの妙なる動きが手に取るようにわかり、立体的なマーラーを好む向きには向いている。その方法はクライマックス後に本数を減らしていくオケの退嬰的な「響きの音楽」にスムーズに受け継がれ、繊細極まりない終演までの大きな流れに首尾一貫した印象をのこす。

拍手が変に歪んでいるがブラヴォはけっこう凄い。
Comments (10)
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ミャスコフスキー:交響曲第6番「革命」

2008年05月02日 | ミャスコフスキー
○N.ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団、交響合唱団(DG)1998/8・CD

スヴェトラーノフの交響曲全集録音(ロシア音楽アンソロジー)がついに2008年6月再版される(後日修正:ワーナーの協会正規盤でした)。6000円台という値付けは昨今のロシアもの復刻の流れからすればいつかは、と予想されたものだとはいえ、高額な「ボックス限定版」や単発CDを買い集めた向きにとってはかなりショッキングだろう。9曲程度ではない、27曲もの交響曲全集の廉価復刻というのは大きい。しかしこれで晴れて皆がミャスの「とりあえずの」全貌を容易に俯瞰できるようになる。その耳で聴き、その頭で判断できるのだ。他人の言説の継ぎ接ぎで「聴いたフリをして」論じる必要もない。皆が「聴いて言える」ようになることが、逆に楽しみである。
Miaskovsky: Complete Symphonie

Wcj

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ヤルヴィはやはり要領一番の指揮者である。今やネーメとつけないとややこしいことになってしまうが、依然としてかつてのようなスマートですぐれた技巧を示す演奏振りを見せてくれている。もちろんこのような「そつない」指揮者は実演で判断しないとならないのだが。この録音も引いた様な解釈ぶりが「つまらない」と判断されるようなところは否定できない(スヴェトラのアクの強い演奏に慣れていたら尚更)。前ほどではないが時おりライヴ放送や実演の機会もある指揮者だ。
Maskovsky: Symphony No. 6

Deutsche Grammophon

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1楽章。軽い響きで要領のいいこじんまりとしたまとめ方は、スヴェトラやロジェストの向こうを張って西側オケにより東側の珍曲を録音し続けた頃の夥しい音盤群から得られる印象とさほど変わっていない。ORFEOのグラズノフに非常によく似た聴感の演奏振りである。ハメを外さず中庸で聞きやすいが、音響的に拡がりがなく、ホール残響があってすらミャスの素朴な書法がどうしても露骨に聞き取れてしまう。この時期のミャスはもっと解釈者がケレン味を持ち込み血肉を盛り付け方向性を明確にしないと、単調でわけのわからないまま、形式的に骨ばった「交響的大蛇」を聴かされる気になってしまう。数少ない楽想をミャスコフスキーらしい文学的・劇的欲求を満たすべく極端に伸縮させ交錯させる音楽にあって(劇音楽的背景があるのならテキストを残して注釈すべき部分ではある)、アンサンブルは緊密であるのに、指もよく動いているのに、正直飽きる。珍曲を職人的演奏家がさばくときにありがちな感じというか、なまじ巧いだけに曲の悪い部分も思い切り聞こえる演奏になってしまい、価値を却って低く印象付けてしまう、ちょっと厄介なたぐいと言えるかもしれない。

2楽章は事実上スケルツォのプレスト楽章。曲がイマジネイティブで変化があるため1楽章より入り込める。三部形式のトリオでセレスタと弦が奏でるなだらかな音楽は澄み切った殆どRVWの教会音楽で、フルートが雰囲気を壊さないようにスラヴィックなメロディを奏で出すあたりはミャスの最良の部分をヤルヴィの音感とテクニックが忠実に繊細に紡ぎ出し成功している。スケルツォ再現で断片的なテーマが交錯しシンバルで〆られるあたりも実にスマートできっちりしている。

3楽章アンダンテは一番謎めいていて、陰鬱な1楽章末尾に回帰してしまう。1楽章第二主題の延長上に甘美な主題もあらわれるものの、2楽章中間部も含めての中から寄せ集められた断片が気まぐれに連ねられていく。難解でやや机上論的な音楽が進み、ミャスの緩徐楽章は独自の旋律が一本しっかり立てられていないとこうも散文的になってしまうのか、という悪い見本に思える。だがヤルヴィが力を発揮するのは俄然こういう「人好きしないのにロマンティックな音楽」である。そつなさが長所に感じられるところだ。独自のと言えば甘美なメロディがまるで世紀末音楽的に・・・書法的影響が指摘されるスクリアビンやよく言われるところのマーラーのように・・・現れて、2楽章のトリオに繋がるところは非常に繊細で美しく描かれている。

終楽章はまるでハリー・ポッターのように能天気な引用革命歌2曲から始まりミャスらしくもない明るさがあるが、虚無的な不協和音を軋ませる半音階的進行がハーモニーの下部に聞かれるのもまたミャスらしさだろう(スクリアビンやグラズノフのやり方に既にあったものだが)。暗さはミャスの多用する「長い音符の伸ばし(弾きっぱなし、吹きっぱなし)」の下に、「怒りの日」の主題がハープとバス音域のピチカートで挿入されるところで反転して表に出る。世界が暗転するこの部分でもヤルヴィは注意深いが、その洗練された手腕がややミャスの「匂い」を抑えるほうに行っているのが気にはなる。既に3楽章で暗示されていた「怒りの日」の主題すら耳をすまさないとちゃんと聴こえなかったりする(この終末論的な曲では重要な提示だ)。この楽章には他にも聖歌引用などが交錯し、音楽的というより文学的な分析を施さないとわからない部分も多い。とにかく音楽がどんどんおさまっていくことは確かである。「怒りの日」から美しい音楽が展開されていく。聖歌「魂と肉体のわかれ」がクラによって提示され、簡素なRVW的世界が回想されたと思ったらまた引っくり返され珍奇なパレードのような革命歌によって再現部が構築される。「怒りの日」をはじめどこかで聴いたようなフレーズも織り交ざり、だがどんどん低音になっていき、宇宙的な深淵の中に無歌詞合唱がムソルグスキーのような響きのバスクラを従えて入ってくる。聖歌の再現である。しばらく合唱曲のような状態が続いた後、その歌詞に沿ったような運命論的な結末へ向けて、1,2楽章からの美しい引用が余韻をたっぷり残した後奏のように響く。ヤルヴィは実に厭味なく清清しい音楽に仕立てているが、本来はもっと「気持ちの悪い感じ」の残るものである。○。
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ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲

2008年05月01日 | ラヴェル
○R.カサドシュ(P)シェルヒェン指揮ケルン放送交響楽団(TAHRA)1957/3/11LIVE・CD

冒頭からやけにリアルなシェルヒェンの重厚音でねっとり始まるが、いきなりカサドシュ、ミスタッチが目立つ。打鍵が弱いわけではないが指の力弱さは感じられる。ひとしきり盛大にやられた(シェルヒェンはこの後も驚異的なスケールと明確さでロスバウトの先輩たる威厳をみせていく)提示主題への答唱がピアノソロで返される部分で初めてリリカルな美質を魅せ始めるが、本当に力が出ているのは末尾のソロのほうだろう。荒くミスはあるが、豊潤なしかし冷たいラヴェルを理性的に表現しきっている。音質の制御も荒くリリカルさが保てていない感もあるが、シェルヒェンの破壊的な表現に呑まれているだけかもしれない。おもしろいが一級とは言えず、カサドシュにしても成功はしていないほうだが、シェルヒェンの実力がよくわかる。○。TAHRAの発掘で拍手はカットされているがシェルヒェンライヴとしてはかなり明快な録音。併録のモルダウとチャイ4はいずれも既出WESTMINSTER正規音源。TAHRAは最近このての抱き合わせが目立つ。発掘が難しくなってきたということか。
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