湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ガーシュイン へ調のピアノ協奏曲(2012/3時点のまとめ)

2012年04月17日 | Weblog
○レヴァント(P)トスカニーニ指揮NBC交響楽団(ARKADIA他)1944/3/2カーネギーホールLIVE・CD

~レヴァントはガーシュインの友人。直截的で速い演奏をする人で、つまらないものもあるようだが、ここではトスカニーニの磨き抜かれた技に融合し、ジャズのエッセンスを吹き込んでいて、悪い録音ではあるが、なかなか聴ける演奏に仕上がった。

~レヴァントはガーシュインが認めただけあってやっぱり巧い。昔はこの人のピアノを聞くといかにも即物的でスピード出してひたすら弾きまくるだけのように感じたものだったが、そのスピードの中のニュアンスが微妙に時代の空気を伝えていて、聞き込むと味が出る(録音は悪いが)。びしっと正確な音符取りは全くジャズ的ではなく、紛れもないクラシック流儀。レヴァントはあくまで「20世紀のピアノ協奏曲」を奏でているのである。けっこうダレる長い曲だけれども、この演奏が飽きないのはその正確さと緊張感、そしてスピードゆえのことだ。速い。3楽章など出色の出来で、疾走するドライヴ感が堪らない。これを直線的でつまらない演奏と感じる向きもあるかもしれないが、元々起伏に富んだ楽想の連続ゆえ(ガーシュインの管弦楽効果も見事だ)それで十分曲の魅力を伝えるものとなっているように思うのだがいかがだろうか。バックオケもトスカニーニでなかったら雑味が多すぎてくどくなるところ、実にスマートに颯爽と振り抜けており、ガーシュイン独特の灰汁が出ずに済んでいる。レヴァントのスタイルとよくマッチした解釈表現だ。音が悪いゆえ○としておくが、この曲の演奏としては個人的にイチオシです。

○レヴァント(P)トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)1944/4/2?live

これが3月2日ともされる既出音源と同じかどうかは議論がある。私は同じと思うのだが、いくらなんでも一月違いの同日ということはないだろうものの記録と照らし合わせ別録であれば45年ではないかという説もある。演奏は作曲家と縁深いレヴァントによるもので異様なテンポに機関銃のような弾き方は色艶に欠ける音楽を提示する。トスカニーニにいたってはまったくガーシュインをやるつもりはなく、グルーヴのカケラもないクラシカルな整え方で四角四面の表現に終始する。オススメはしないがガーシュインをクラシカルな方向から即物的にやるとこうなる、という意味では聞く価値はあるか。○。録音悪。

ワイルド(P)フィードラー指揮ボストン・ポップス(RCA)CD

うわーワイルド激ウマ。パラパラタカタカとよおくもまあ淀み無く滑らかに爽やかに弾きやがる、高速で。これじゃ往年のガーシュイン弾きもカタナシだな、と、思ったのだが・・・なぜかつまらない。聴き進めるうちに、まあもともと冗長な曲では有るが、やはり飽きてくるのである。当たり前すぎるのだろうか。ジャズ味が足りないのだろうか。ジャズ並の編曲を加えているのに、ジャズに聞こえないから、あっけらかん。うーーーーーーーー、無印。

リヒテル(p)エッシェンバッハ指揮シュツットガルト放送交響楽団(VICTOR)1993live

指揮者が弱いものの全ての音はちゃんと発音されているのである。リヒテルの詩情溢れるタッチも魅力的。しかし聞きおわって、冗長で四角四面の演奏を聞いたという印象を持ってしまう。なぜか、つまらないのである。スウィングしない。リヒテルはガーシュインのようなものを好んでいたというが、ガーシュインの自作自演盤(終楽章のみ)やレヴァントのような演奏とは一線を画し、遅めのテンポにあくまで自己流の客観的演奏を載せている。ガーシュイン入門盤にはならないと思う。

ロイ・バーギー(P)バイダーベック(CL)ポール・ホワイトマン楽団(COLUMBIA/PEARL)1928/9/15-17,10/5・CD

シンフォニック・ジャズの提唱者でガーシュインに大出世をもたらした立役者ポール・ホワイトマンの演奏である。当たり前の事だがホワイトマンはガーシュインのこの律義な協奏曲を思いっきりジャズの側に引き寄せている。目茶苦茶手が加えられており、アレンジがきつすぎて違和感しきり。薄いストリングスを全面的に管楽器で補っていて、それがまた楽曲をどんどんクラシックからかけ離している。クラシック的に言うならばホワイトマンはじつに素っ気無い指揮ぶりで、こだわりなく速いテンポでさっさと曲を進めてしまう。楽団は音色(とアレンジ)で何とか起伏を造り上げている、といった感じ。1、3楽章はとにかく速くて揺れない。思い入れとかそういったものはシンフォニック・ジャズには不要、とでも言わんばかりの指揮ぶりだ。一方、2楽章は冒頭から思いっきりジャズの音色で責めてくる。これはちょっと聞き物である。ガーシュインのアンダンテはダレるのが常道だが
(ほんとか?)、ここではジャズ的な吹き崩しと「うにょーん」という音色の妙味が最後まで耳を捕らえて離さない。ジャズをよく知らない私も、これはジャズだなあ、と思うことしきりだ。決してクラシック畑の人間には出来ない芸当が聞けます。差し引きゼロということで無印。2楽章から終楽章へはアタッカで雪崩れ込むが、余りに自然でびっくりする。録音は比較的いいです。

カッチェン(p)ロジンスキ指揮ローマRAI管弦楽団(CDO)LIVE・CD

いくぶん大規模でクラシカル指向な曲であるせいかラプソディよりは聴ける演奏だ、でもカッチェンは余りに堅苦しすぎる。これとマントヴァーニ楽団の演奏の違いにまずは瞠目すべしだ。同じソリストで、こうも違うものか!ロジンスキのオケもちゃんとジャズ奏法を取り入れているのに、ノリが違いすぎる。スピードが違いすぎる。遊び(アレンジ?)が違いすぎる。すべてが娯楽的音楽のために、スポーツ的快感のためにできているようなマントヴァーニの曲作りに対して、カッチェンものびのびと、技巧を駆使してやりきっている。もちろんスタジオとライヴの差もあろうが、この曲はやはり、ジャズなのだな、とも思った。クラシカルなアプローチには、限界がある。正直この駄々長い曲をこのアプローチで聞かせるのはうまいとは思うが、飽きた。無印。ほんと面白いし巧いよマントヴァーニ!スケール感もバンド特有の狭さが録音操作でカバーされていて、スウィング、スウィング!遊び、楽しんだもの勝ち!音色どうこうはあるけれど、起伏に富んだ表現力は初心者を夢の世界へいざなうでしょう。あ、ここロジンスキ盤の項目か。

◎カッチェン(p)マントヴァーニ楽団(DECCA)CD

迫力!興奮!これに尽きる。夢と憧れの時代の音楽!美しい。楽しい。ものすごく、速い。ジャズ人間の書いた曲はやはりジャズ流儀で映えるものなのだ。オケの大編成が寧ろ大げさに思えてくるほど。そのほかの賛辞はロジンスキ盤の項目参照。木管がジャズそのもの。ああ、この時代に生まれたかった。ものすごい力感の終楽章にも唖然。う、うますぎる。音色なんてどうでもいい、スピードとリズムと力がすべてだ。「スピード」プロコのこの言葉はかれの3番よりこのロシア系移民の長大な曲にふさわしい。長大さはスピードが前提にあるのだ、ロシアの曲が長いのは速くて解釈された演奏を前提にしてるからだよ。とにかく、これは極致の演奏。◎以外ありえない。モノラルだけど、モノラル末期はステレオなんか比べ物にならない密度の濃い音が詰め込まれているからね。ハデハデ!史上最高の派手な演奏、史上最強に集中力の高い演奏です。カッチェンはバリバリ系の弾き方をすると味はないが男らしい打鍵に胸がすくなあ。。

○リスト(P)ハンソン指揮イーストマン・ロチェスター管弦楽団(MERCURY)CD

超即物的な演奏で、まったく一直線に感情のなめらかな動きは一切なくただドライに高速で突き進む(ピアニストも同じだ)。あまりにきっちりしすぎており、反してオケはあまり上手くなく、正直まったく惹かれなかったのだが、全くジャズではないながらもクラシカルな趣も皆無な独特さと単純にデジタルな力強さ、クライマックスの畳み掛けるような迫力だけを買って〇としておく。ある意味大人の味わい。

○ワイエンベルク(P)プレートル指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI,DUCRET THOMSON)

ワイエンベルクは技巧派であるがプレートルの爽やかな音にのってここではクラシカルな演奏をきちっと仕上げている。音が軽いのはレーベル特有の録音によるものだと思うし、その点でジャジーな雰囲気がまったく感じられないのはいたしかたないが、brilliantで出ている若手室内吹奏団とのガーシュイン新録を聴いてもダニール・ワイエンベルグはややガーシュインにかんしては引いた演奏を行うようにしているようだ。プレートルがもともとそういう透明感を重視した引いた演奏をするというのは言うまでもないが、ただオケがけっこうアグレッシブであり終楽章のドライヴ感はなかなかのものである。ワイエンベルクもここぞとばかりに弾きまくりアレンジもものともしない(即興的な面白さのないアレンジではあるが)。スピードがあるのでたとえばスラットキンのVOX録音集成に入っているものよりは余程に魅力はあり、人にも薦められる。リヒテルのような珍妙なクラシカルさは無い。○。楽しめます。

○クルト・ライマー(P)ストコフスキ指揮ザールブリュッケン放送交響楽団(SCC:CD-R)1972TV放送用録音

クルト・ライマーは一部で著名なピアニスト兼作曲家だが、映像は自作自演の協奏曲のみでこちらは余り明瞭ではないモノラル録音のみである。ストコフスキのガーシュイン自体が珍しく、小品編曲の非正規録音しか知られていないのではないか。ストコフスキらしさは全般にわたる改変(同曲自由に改変されるのが普通でありまたソリスト意向が強いと思われる)、あくの強いソリストに付ける絶妙な手綱さばきと最後のストコフスキ・クレッシェンドにあらわれてはいるが、けしてジャズ風には流さず比較的実直な解釈をみせており(ソリストは一部ジャズ風にリズムを崩しテンポを揺らした結果オケと齟齬を生じている)、クラシック演奏のスペシャリストとして意地をみせている。

というわけでストコフスキよりライマーの素晴らしい腕とイマジネイティブな表現を楽しむべき録音であろう。レヴァントに近い即物的なテンポでぐいぐい引っ張り、諸所楽しげな遊びを織り交ぜている。ただけして硬質の表情を崩さない。細部まで明確なタッチにもスタンスはあらわれている(事故はあるけど)。スタジオ録音のため即興性が薄まっているところもあるとは思うが、ガーシュインをあくまでクラシック側から表現したということだろう。曲がやたらと冗長で、それがそのまま出てしまったのは裏返しで仕方ないか。わりと攻撃的な演奏ではあるけれど。○。

◎ペチェルスキー(P)コンドラシン指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya)LP

ナイス攻撃性!いやコンドラシンではなくペチェルスキーのぐいぐい引っ張っていく勢いと鋼鉄のタッチ、そしてこの曲には珍しい自在なアレンジ(ジャジーでもクラシカルでもなく、ライトクラシック的、といったら最も適切か)に拍手である。録音もモノラル末期の聴きやすい安定したもの。コンドラシンは余り精彩のみられないものばかり最近は聴いていたがゆえに、ペチェルスキーと丁々発止でやりあうさまにも感銘を受けたことは事実だ。オケもノリまくっており完璧に噛み合ってこの「大協奏曲」を盛り上げている。リヒテルのような間延びしたクラシックのスケール感を目するでもなくジャズ系の人のやるようなアバウトで刹那的な快楽もあたえない、しかしガーシュインが協奏曲という題名をはからずも付けて内心望んでいたのはこういう完全に融合した境界線音楽じゃなかったのか?アレンジが冗長な曲を更に冗長にしてしまっている部分も正直あるし、違和感を感じなくも無い。しかしこれを聴いて私は今まででいちばん、「この曲そのもの」に対する座りの悪さを感じなかった。ちゃんと聴きとおせただけでも、◎を付ける価値が十分にある。いや、ほんとこの曲って難しいですよ。ジャジーにやるにしてもきちっと時系列に音符(コード)の並んだ楽譜があるだけに思いっきり崩さないことにはうまくいかない、しかしそれじゃオケ側がついていかない。必然的にオケを縮小してビッグバンド並にしなきゃならない、それが自作自演抜粋盤だったりもするわけで、それはそれで面白いんだけど、「協奏曲」と名づけられてるからにはここまで大オーケストラをバックに、クラシカルな技巧の裏づけも持って弾きまくらなきゃ。感傷やロマンは薄いかもしれないけどそんなの誰だってこのての旋律音楽でやろうとすれば煽れるものなわけで、異論封殺。◎。 ちなみにこのレコードは流通元がとっくに決済の終わった最後まで送付を渋り、状態が悪いからいいもののコピーを送るなど言い放ってきたりもして(大嘘だった)、結局半年かけてやっと手元に届いたものです。そこまですると思い入れも違うすね。CDじゃ出ない音だ。

○ソシーナ(P)A.ヤンソンス指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

冒頭の太鼓が抑制されすぎだって?ここで大見得を切るのがそんなにかっこいいか?事実この演奏はかっこいい。何がかっこいいって、ジャズにおもねることなくあくまでロシアン・シンフォニーの演奏スタイルで突き通したヤンソンス父がかっこいい。オケもかっこいい。ジャズなど眼中に無い。クラシック流儀で・・・まったく自分達のスタイルを崩さず譜面+解釈だけで・・・最後までやりきっている。ピアノも全くクラシカルで乱暴さの微塵も無い。でも、これはロシアの演奏だ。そういう理念だけのこまっしゃくれた演奏は新しいものにはいくらでもある。この演奏の凄いのはそういうクラシックの形式にはまった解釈と一糸乱れぬ統率力のもとに、奏者それぞれが力いっぱい演奏しきっていることだ。音楽の目が詰まって隙が無いのだ。型に嵌まるということがオケによってはこういう新しい効果をもたらすのか、と瞠目した。ブラスのロシア奏法だって(ヤンソンスだから抑制気味だが)あたりまえのように嵌まって聞こえる。とにかくこの演奏には血が通っている。クラシカルな人たちがよくやるようなスカスカで音符の間に風の通るような演奏ではない。こんな楽想の乏しい長ったらしい曲はジャズ「風」に崩していかないと(アレンジしていかないと)弾いちゃいられないはずなのに、彼らはこの曲を国民楽派のクラシックと同様に強いボウイングとあけすけに咆哮するブラスで楽しみまくっている。それだけなら緩徐主題をデロデロに歌いこんで瓦解していくスヴェトラの穴に落ちるところだがヤンソンス父はメリク・パシャーエフ的にきっちり引き締める指揮者だからそこでも決して緊張感を失わずに聴く耳を離さない。この人らしいところだが雑味がきわめて少なく、モノラルだし雑音は多いが私の厚盤では音にふくよかさがありデジタル変換して聴いても素晴らしく聴き応えのある低音のゆたかな音になっている。ちょっと感動しました。この曲をちゃんと聴きとおせたのは久しぶりだ。さすが20世紀音楽のロシア内における稀なる解釈者!録音マイナスで○としておくが、◎にしたい気満々。

○シーゲル(P)スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(WEITBLICK)1996/9/20live・CD

これは楽しめる。スラットキン盤の緩やかなテンポと透明な響き、整ったリズムを彷彿とさせるスベトラ・スウェーデンのガーシュインだが、よそよそしさを払拭するようにソリストがガーシュインらしさを発揮して、流れをいい方向に持っていっている。ソリストとオケのリズム感に齟齬を生じたような場面もあり、二楽章ではずれて感じるところもあるが、逆に二楽章が一番印象的であり、遅いテンポがリヒテル盤の鈍臭さに近いものを感じさせる三楽章、おなじくリヒテル盤と似て冒頭から重々し過ぎるも、途中からノリが俄然よくなり破裂するようなスベトラフォルテや自在なテンポ変化が驚かせる一楽章とあわせて、聴く価値はある演奏になっている。○。

~Ⅲ(エリオット・ジャコビ編)

◎作曲家(P)他(PEARL)1933/11/9ルーディ・ヴァレイ・ショー放送LIVE・CD

それほど良く回る指とは思えないのに、流れ良く音もパラパラとカッコ良く、非常に魅力的な演奏ぶり。さすがガーシュインと言うべきか。演奏的にそう巧い類のものではないのだが、どこか物凄く惹かれるところのある演奏で、思わず◎をつけてしまう。また、木琴やペットの赤銅色の音色!アンタッチャブル!て感じ(わけわからん)。とても魅力的だ。オーケストレーションは小さくスタジオ楽団向きに変えられているが、ヴァイオリンとかも薄いながらもしっかりした奏者が担当していて不足は感じない。それにしてもガーシュインは幸せになる音楽を書いたもんだなあ。ちょっと暖かい気分になる曲です。この放送ではI GOT RHYTHM変奏曲も演奏され録音が残されている。共にパール盤が初出。途中で一端音が途切れるが、恐らく録音の継ぎ目だろう。
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ホルスト (2012/3時点でのまとめ)

2012年04月16日 | Weblog
合唱交響曲第1番op.41

○サージェント指揮BBC合唱団、合唱ソサエティ、交響楽団、ヘザー・ハーパー(SP) (inta glio)1964/1/3ロイヤル・フェスティヴァルホールLIVE

美しい堂々たる大曲で、惑星を始めとする代表作をあげてのちの1923年から24年にかけて書き上げられた。1楽章のプレリュードのウツウツとした雰囲気を抜けてのち牧歌的なヴァイオリンソロが歌い上げる世界はRVWそのもの。RVWとの密接な関係は他の楽章でも感じられる箇所があるが、この人はもっと複雑で、モダンなコード進行(プログレか?というようなところもあったりする)や激しいリズム要素(まさに惑星、3楽章スケルツォその他一部)、高音打楽器のここぞというところでの導入(静かな場面でやや常套的ではあるが特徴的に使われる)、いずれも「惑星」を彷彿とするところがある。かつ洗練されたシンプルな書法への指向からも、本質的にラヴェルの影響を受けていたことは想像に難くない。結構無駄のないスマートさがあるし、全編効果的とは言わないまでも、ここぞというところはRVW張りに偉大に盛り上がることもできる。とりとめのなさを感じる人もいるかもしれないが(とくに長い曲に慣れない向きは)、サージェントのスマートだが緊密な指揮はこの曲の価値を引き出し欠点を隠すもので、52分弱を飽きずに聴ききることができる。但しモノラル。また、拍手が別録的な感じで、ひょっとすると記載に偽りがあるかも、でもいい演奏であることは確かだ。とにかくとても聴きやすい曲なのに25年リーズ音楽祭での初演の評判は散々で、そのせいか?結局第2番は書かれなかった。「メランコリー・スペクタクル」という当時の評は言い得て妙で、1楽章冒頭や2楽章オードなど、「晦渋なホルスト」がやや目立つ反面、、妙に派手という矛盾をはらんでいるが、そこがいいと感じる人もいるに違いない。テキストはキーツの様々な神話的なものからとられている。ホルストらしいテキストだがワタシはあんまり曲と詩の関係に重要性は感じない。まあ、一度は聴いてみると面白いと思う。ハーパーの歌唱はとくに印象に残らなかった。

組曲「惑星」(1914-16)

<イギリス近代音楽の中で、基準は何でも良くて、とにかく「一番」に位置づけられる曲といえば、一般的にはこの曲が挙がるのではないか。実際この曲は奇跡的だ。印象的でない曲は1曲も無い。現代管弦楽(合唱付)の機能を端から端まで総覧するような壮大な伽藍のうちに、各曲の性格は明確に描き分けられ、それぞれがそれぞれの独創性を主張しあっている。ラヴェルの影響もあるし、ゲンダイの耳からすれば技法的にもさほど特徴的なものは無く思えるのだが、紛れも無くこの曲でしか聴けない“響き”があり、それこそがホルストの天才性なのである。もっともホルストにはこの曲以上のものは書けなかったし、今で言う「一発屋」的な存在でもあるのだが、その「一発」の大きさは計り知れないものだ。この曲は、余りにわかりやすい表現力の強さがハンデとなり、芸術性ウンヌンの理由で不当に低められている。だが、この曲ほど指揮者の性格を反映する曲はそうないのではないか。幾人かの指揮者は、この曲の示す権威性を押しあげるように、色彩性を最大限に引き出し、時には電子楽器の力も借りて、スペクタクル的な音響世界を展開しようとする。だが、本国イギリスの指揮者については、そのような面の強調より寧ろ、イギリス近現代の数少ない名曲のひとつとして、いわば純粋なる「音楽」として演奏していることが多いように思う。産み出された音は、前者の表現とはかなり異なるものとなる。ヴォーン・ウィリアムズ(ホルストの大親友であり、多大な影響関係を結んでいた)と同列の作曲家として、特に中声部以下の音響に細心を払い、豊かでふくよかな音楽を作り出しているのだ。後述のボールトなどはここにさらにドイツ的な重く厚い響きを取り入れて、殆どブラームスやドヴォルザークのような深層的な表現を獲得しており興味深い。しかし行進曲楽章は「戦争の予兆」とされるその内容を、確かにそうだと思わせるような、まるでショスタコーヴィチのような打楽器中心のアンサンブルで、表層性を意図的なものとして逆手に取った表現を行っている。重いテンポでいてしかも跳ね回るような「乖離した心情」が強く感じられるものとなっており、これも印象深い。ショスタコーヴィチを予言するような、といえばスヴェトラーノフの演奏も取り上げずにはおれまい。これもまた従来のスペクタクル的表現とは一歩離れて、ショスタコーヴィチ7番の録音を彷彿とさせる「骨太のガイコツが襲いかかる」幻影を垣間見させる。冨田勲のシンセサイザーやストコフスキーの演奏など、また別の可能性を示すもので、ただ言ってしまえばそれは単なる技術上のことで、スペクタクル性を示す演奏のひとつではある。

「惑星」にはとにかくいろいろな演奏があるものだ。この曲には同時代もしくは少し前の数々の「名曲」たちのエッセンスが隙間無く整然と詰められており、それが多様な表現を可能としているのだろう。>

◎ボールト指揮フィルハモーニック・プロムナードO(LPO)1953

火星が必聴!この演奏(というより録音)は、何といっても打楽器系の強調された耳をつんざく音響が堪らない。後半、速い楽章の集中力がやや薄まっている(ボールトの穏やかなテンポ解釈のせいもあろう)が、総じて一流の表現だ。私はLPで聴いているので、CDだと少し趣が違うように聞こえるかもしれないけれども、ボールトにしては表現意欲がかなり強いように聞こえる。2楽章等穏やかな楽章の音にも時折言い知れぬ悲痛さがよぎる。堅実さのうえに何か個人的な思い入れを感じさせる演奏である。個人的に知る限りの5回の録音で、この演奏ほど印象深い演奏は無いように思う。粗さが目立つ録音も中には存在している。

ボールト指揮BBC交響楽団(HISTORY他)1945・CD

古い録音に残響を加えた廉価盤。まあ、この曲はいい録音で聞くに越したことはない。火星も録音のせいかぱっとしない(元々ボールトの火星はそれほど自己主張が強くないのだが)。最後の音の決然とした伸ばしに、がっと捕まれるものはある。録音が悪いため精妙な遅い楽章は殆ど鑑賞の対象にならない。さいきんはやりの木星など、このころのボールトの急くようなテンポが気分を煽りまま楽しめる。総じて無印。

○ボールト指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1946/2/2live

BBCオケ時代のボールトの貴重な客演記録だが、この指揮者はオケによってかなり相性の問題があり、ボストンのような中欧的なオケとは相性がいいと思いきや、何かアメリカの二流田舎オケを聞いているような、あっけらかんと明るくもばらけたアンサンブルを聞かされてしまう。特に前半乱れる。ヴァイオリンが好き勝手に歌い(曲に慣れていないせいで魅惑的な旋律をソリスティックに歌ってしまったのだろう)、ブラスは下品に吹きっぱなし、木管は技巧的フレーズを吹きこなせず、ティンパニのみがしっかりリズムを締める。VPOとの惑星もこうだったように思う。オケのセクションがバラバラになる、これは練習時間が足りないせいなのか?それでも説得力はあり、最後には聴衆の盛大な拍手が入るが、古い録音でもあり、ライヴなりの面白さだけを聞き取るべきか。その点、各楽章間にアナウンサーの解説が入り、わかりやすい。惑星はアタッカでつながった曲ではないのだ。マジシャンの、デュカスをカリカチュアライズしたようなリズムにはっとさせられた。ああ、惑星の名前にしばられてはいけないのだ。ホルストは完璧なオーケストレーションを目指し、曲の中身よりもそちらの整合性を重視しているようなところがある(じじつ編成をいじることは自らやむを得ず作った小編成版以外禁止していた。ジュピターもアウトだ)。だがやっぱり表題性をちゃんと意識して聴くと非常に世俗的な目から神秘主義を見つめたなりが面白く感じられる。○。

(参考)正式には五回録音していると言われる初演者ボールト。どれが好みかは人によるだろうがイギリスオケに越したことは無い、イギリスオケでやるように解釈されている、と言ってもいいセンスが反映されているのだから。民謡旋律を木管ソロでえんえんと吹かせる、などいかにもだ。この曲を一面真実であるスペクタクル音楽としたのはオーマンディやカラヤンだが、ボールトはあくまでRVWらと自らも同時代者として新民族主義的見地から、そして少し古風な重厚さをもってさばいている。惑星を浅薄と断ずる人はボールトを聞くと理解の仕方がわかるだろう。ただ、人によってばらけた演奏とか(上記ライヴはそれが極端にあらわれた状況ともとれる)躁鬱的とか感じるかもしれない。

作曲家指揮ロンドン交響楽団(pearl)1922-24
作曲家指揮ロンドン交響楽団(koch他)1926

音が貧弱で当時の録音技術の弱さゆえ編成もかなり小さく、薦められるとは言い難い。このことはホルスト自身の言葉としても伝えられている。録音場所も狭すぎて、バルコニーから指揮したとか。ただこの曲を「再発見」するのにこれほど好都合な音は無い。虚飾の無い響きが却って本質を浮き彫りにする。2枚は互いに少し違う表現だが、パール盤のほうは余りに音が悪く聞きにくい。木星中間部旋律の表現がエルガー行進曲風のところなどは、ホルストの音楽経験を物語っているような気がする。

○カラヤン指揮BPO(DG)
○カラヤン指揮VPO(DG)

同曲の復活に功績のあったカラヤンの古い盤は、私がクラシックを自主的に聴いた最初のクラシックだ。今聴くとやはりスペクタクル型の演奏でもあるのだが、安心して聞けることと、緩徐楽章での適度に思索的な雰囲気が良い。古い演奏の方が良い気がする。後年導入したシンセサイザーは少し唐突過ぎる響きで馴染めない。

○スヴェトラーノフ指揮フィルハーモニア管弦楽団(EDGESTONE CLASSICS/COLLINS)1991/11

本文中にも挙げた「火星」が名演。重戦車的な音がレコード屋に流れていたとき、私はこの曲を再発見した。(1997記)

昔持っていたときはいたく仰々しくまた激しい音響効果の施された演奏のように感じたものだが、このたび改めて手元に来た盤を聞く限り、弛緩するほど横拡がりの演奏で、盛りあがりどころでもブカブカやっているだけ、といった印象を持ってしまった。とくに暴力的なはずの1楽章火星がどうも弱い。冒頭からの最初のクレッシェンドはものすごいのだが、あとがなぜか足踏みするようなテンポで気持ちの持っていきようがない。考えてみればスヴェトの晩年の演奏はみなテンポが遅く、昔の突き刺すようなソリッドな音作りは殆ど見られないものになっている。ブラス・・ここでは火星のホ
ルンの咆哮・・の力強い音にロシアの香りが残るのみだ。とくに弦が柔らかく、ふぬけた感じもなくはない。だが、非常に荘大ではあるし、細部のニュアンス表現に拘った、より内面的で掘り下げた演奏になっていることも評価できる。表面的な演奏とは一線を画している。5楽章など暗い曲想の運命論的なダイナミズム(大太鼓の地響きが凄い)ののちどこか空虚さを残した解釈は、やはり内面的な解釈をしたボールトとは別種の感動をあたえる。これはむしろマーラーだ、と弦のピチカートの向こうにひびく遠い鐘の音を聞きながら思った。6楽章天王星もマーラー的。7楽章海王星は印象派的な神秘的なひびきをよく出している。非常に繊細だ。総じて○。(2003/12追記)

オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団

結構粗い演奏だが、スペクタクル的な演奏とは一線を画した純音楽的印象を持った。

~抜粋

〇コーツ指揮LSO(KOCH)1926-28・CD

雑然とした録音に演奏といったイメージを覆すものではないが特徴的なところはある。火星はせかせかした前のめりのテンポで思い切りずれてるように聞こえる箇所もあり録音の悪さもあって苦笑してしまう。しかし力ずくで押し通す気迫は聞き取れる。悪い音のわりに曇ったところのない響きが現代的でもある。金星も速い。SPの宿命だ。ここでもずれているような感じのところがある。木星は非常に抑揚があり特徴的な演奏になっている。中間部旋律のてんめんとしたポルタメントに異様な音量変化は耳をひく。前のめりはあいかわらずだが面白い。最後はかっこよさすら感じられる。土星もやはり速い。攻撃的だ。あまつさえズレ易いセレスタがなぜかズレないのがおかしい。勇壮な第二主題も力強い。〇。

○バルビローリ指揮NYP(DA:CD-R他)1958-59放送LIVE

恐らく編集ミスで順番が入れ替わっているが、最後の木星のあとは拍手とナレーションが入るのでそこは正しい順番だと思われる。暗い土星と海王星が抜かれ、

火星、金星、水星、天王星、木星

の順番に編集されている。録音状態が非常に悪く、(恐らく元からの)媒体劣化音含め不安定で全般聴きづらい。が、エッジの立ったこの時代にしては迫力ある音にちょっと驚かされる。ガツンガツンと重くはっきりした凶悪な音楽に、火星の冒頭こそか細いもののすぐにびっくりさせられる。バルビとしてもまだ後期の歌心あふれる様式に移る前のトスカニーニ色のあったころの推進力を明確に示したものとして聴ける。しかしトスカニーニのような無味乾燥さはなく、しっかり「音楽」している。個性的な解釈こそさほど聴かれないものの比較的遅めなのに遅いと感じさせないコントラストのはっきりした音作りには心躍らされるところもある。緩徐楽章も後年ほどのカンタービレはないがゆったりした静かな点景が薄い情緒をかもす。録音状態や編集ミス等をかんがみたとしても、これはこれで楽しく聴けます。まあ、バルビはあまりホルストに向いていなさそうな感じもあるけど(解釈に思い入れがない!)。○。 後補)WHRA盤(1959/1/18)と同じ可能性あり。またバルビローリは曲選・曲順はこの通りで行っていた模様(他録に同じ順あり)

○バルビローリ指揮NYP(whra他)1959/1/18live・CD

恐らくCD-Rで何度か出た音源と同じと思われる(むこうのデータが不確かなため断言はしない)。音は同じく悪いもののややリマスタリングしているようで立体感がある。曲を選びいかにも大衆受けする順番に再構成した、バルビしかやってないような抜粋だが、ダイナミックな起伏をつけて見得を切るような表現、威風高々旋律の雄渾朗々と流れるさまは中期バルビの真骨頂を思わせる。そういうやり方は表層的ではあるが、それにとどまらないところがあって、いわばブラームスのシンフォニーを描くような、ちょっとおかしくもしっかりしたところのある惑星に仕上がっていると思う。リズム表現の強く出る場面でテンポが少し停滞するのはいつものバルビだが個人的にはすっきりいってほしい感あり。○。

○バルビローリ指揮ツーリンRAI交響楽団(BS)1957/11/15live・CD

他録とされるものと抜粋も録音状態の悪さも似ていて疑問はあるが、荒々しい表現、あけすけなブラスは放送オケらしいところが聞き取れる。50年代の覇気が漲り独特の歌謡性が聴き易さをあたえ、けっこう面白い。金星の美しさは特筆すべきか。○。残響がややうるさい。

~冥王星(マシューズ作)付

○ロイド・ジョーンズ指揮ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団(NAXOS)2001/2・CD

無難な演奏。しかし悪くはない。スコティッシュ管らしいちょっと硬質でささくれだったような音も録音のやわらかさによっていかにもイギリスらしい柔軟な音にきこえる。しっかりした指揮ぶりではあるもののいささか無個性さがあって、個々の楽章のコントラストもいまひとつ。演奏レベルは高いと思うけど。。ちなみに蛇足の冥王星は作曲されてまもなくあっというまに太陽系の惑星から除名されてしまったが、アイヴズをリゲティふうに仕上げたような変な曲。スクリアビンのプロメテあたりに近い合唱が奇異さを煽る。もっと小さい星でしょ、だから除名されたのに。

<ピアノ連弾(原典)盤>


ゴールドストン&クレモウ(P)(新世界レコード/OLYMPIA)

録音の輪郭がぼやけている。打鍵も柔らかく余り力を感じない。曲が曲だけに、火星などは仕方ないかもしれないし、いくら作曲家の手による編曲にして、管弦楽版よりも早く私的初演されたものとはいえ、単にピアノ曲としてはいささか単純にすぎる感がある。演奏解釈も非常に穏やかで、ダイナミクスの変化も余り聞こえてこない。表現という点では物足りなさを感じる。但し、音構造がすっきり見やすくなっているぶん、作曲家の意図したハーモニーの綾の美しさや、重層的な表現の面白味がはっきりと聞き取れ、細かい音符の端まで楽しめる。ジュピター以降の後半楽章の響き、また緩徐楽章の初期ラヴェル的な趣が聞き物だろう。夢見心地。

イモージェン女史がピアノ初演時の父親とヴォーン・ウィリアムズの背中について語った言葉がライナーに併記されている。二人の暖かい仲をよく物語っている。

エルガーの弦楽セレナーデのピアノ版や、ホルストの「ウィリアム・モリスの想い出に」等も収録。ホルストの同曲は最近補完録音が出た、「コッツウオルド交響曲」のエレジー楽章より作曲家本人による編曲版だ。私は何故か初期~中期スクリアビンを思い浮かべる。ショパン風に聞こえる。「惑星」の方がずっと魅力的に感じた。

日本組曲

○ボールト指揮LSO(lyrita)CD

有名な珍曲で以前書いたおぼえがあるのだが消えているようなので再掲。ボールトの指揮はホール残響のせいで細部がわかりにくくなっているものの、客観性が勝っており、しかし精度的にはボールトなりのアバウトさが感じられる。曲はまさに「オーケストレイテッド民謡」で、ドビュッシー後のイギリスの近代作曲家たちが自国内の民謡旋律に施したオーケストレーションを、単純に日本の民謡に対して施した6曲からなる組曲。だから旋律は完全に日本の馴染み深い民謡からとられているものの、ハーモニーは西欧の語法によっており、そこに歩み寄りやどちらかへの傾倒はみられない。変な作為がないだけ違和感も薄いが、それでも「ねんねんころりや」などが出てくるとむずがゆい。「まんが日本むかし話」とか、そのへんのBGMを想起するが、これはつまり「日本の国民楽派」がやっていたものと同じ路線であること、NHKのドキュメンタリーや時代劇で慣れっこになった「音世界」を先駆けたものであるせいが大きい。リズム的には西欧のものが使われるので、「水戸黄門」にみられるエンヤコラドッコイショ的な感覚は皆無である。オーケストレーションはおおむねわかりやすい。RVWのあけっぴろげな民謡編曲にかなり近いが、「惑星」を思わせる楽器の組み合わせが時折耳新しい。演奏的にそれほど惹かれなかったが、曲の希少価値を買って○。

エグドン・ヒース~ハーディを称えてOP.47

ブリテン指揮ロンドン交響楽団(BBC,IMG)1961/7/6LIVE

うーーーん、ホルストの晦渋とはこういう曲のことを言うんですよ。現代好きにはアピールするだろう。イギリスという国を考えると、こういう同時代の前衛に食い付いていこうとしたものは奇異であったろう。しいていえばRVWの4番シンフォニーの世界に近くなくもないが、部分的にストラヴィンスキーであったり新ウィーン楽派であったりいささか節操が無い。とにかくあんまりわかりにくいので、好悪は凄く別れると思う。個人的には無印。

「神秘のトランペッター」Op.18(マシューズ&I.ホルスト編)


○ロイド=ジョーンズ(指揮)ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団、クレア・ラター(SP)(NAXOS)2001/2・CD

極めて美しい。このドイツ・オーストリア臭たっぷりな歌曲をディーリアスよりむしろRVWのように透明感のある(一種常套的で耳なじみいい)音楽として壮大に盛り上げている。ドラマティックな「惑星」でも晩年の晦渋な作品でもない、特定してしまえばマーラー「復活」終楽章終幕あたりからの影響を和声展開や旋律線に多大に受けながらも、RVWや前期スクリアビンが「そのまんま」写してしまったところをホルストらしく鮮やかな転調と意外な旋律の繋ぎ方を駆使しているさまが、RVWのような耳優しさの枠にはまらない現代好きにもアピールすると思う。演奏も素晴らしく透明感がありいっそうRVW的に聞こえるが、惑星を期待したら余りの牧歌的なさまにあてが外れるかもしれない。亡くなってしまったが娘さんのイモーゲン氏の手も入った編曲で、マシューズ氏の冥王星付き惑星~今となっては完全なる蛇足だが~の余白に入っている。

一つだけ・・・CD時代も長くなり、劣化や不良品が予想外の拡がりを見せる中、中古市場での品物の扱いというのは非常に微妙なところに入っている。検盤しないのが今の中古レコード屋でのCDの扱いであり、そういった欠陥品を入手してしまう場合がここ数年非常に多くなっている。この盤も中古で入手したが、劣化ではなく不良だと思うが、最後に収録されているこの曲でかなりひどい音飛びがする。アナログを手放してCDで買いなおすという人も今は余りいないとは思うが、これではCDなんて媒体よりも、ナクソスが先駆けて始めているようなネット配信という形のほうが普及して仕方ないなあ、と思った。少なくとも80年代の、イタリア系海賊盤は論外としてイギリス焼きのCDは注意です。

組曲ホ短調

~Ⅰ.行進曲(ジャコブ管弦楽編)


○ボールト指揮ロンドン・フィル(LYRITA)1973/11/13・CD

派手なブラバン曲でどこを管弦楽編曲したのかよくわからないほどにすぐに終わるが、ホルストの曲がそもそも内容的に大曲指向であり余り小規模な曲では魅力が十分伝わりにくい側面をよくわからせてくれる。ボールトも覇気に満ちた老齢とは思えない指揮ぶり。○。

歌劇「どこまでも馬鹿な男」よりバレエ組曲

○サージェント指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(DA:CD-R)1945/3/11live

録音の悪さは同日のウォルトンのヴィオラ協奏曲同様。ただ、オケの繊細で金属的な響きがよりビビッドに捉えられていて、雑音を除けばサージェントがホルストに示した適性というか、近現代作品を鮮やかにさばく手腕を感じ取ることもできる。

惑星と同時期の作品というのはどうしても惑星と比べてしまうものだが、素材や書法に共通するものがないとは言えない。正直、多い。目立つのは天王星と共通する箇所だろう。作曲時期によって晦渋であったり平易であったりその極端な差がホルストであったりするのだが、惑星程度の近代性を主張し、それでいて平易な曲というのはやはり、このあたりの似通った楽想をもつ作品ということになる。ブラス、とくにボントロの重用は後年よく作曲した小規模作品とは異なり、大管弦楽をメインに据えた野心的な作風のころをよく示している。同時に神秘主義が最も「雄弁に」表現された時期とも言える。「ポジティブな神秘主義」とでも言うべきか。「アグレッシブな神秘主義」でもあろう。なにせ、魔術師がダンスしてしまうのだから。

オペラ嚆矢のバレエ音楽としてよく取り出して演奏されるものだが、オペラティックな構成の中で生きる部分と明らかに独立した楽想として舞踊的にもしくは「印象派的に」かかれた部分が交錯し、前者は陳腐ともとれるロマンティックなものとしてあらわれ、後者は神秘的な音楽としてあらわれ、ほぼ繋がってメドレーされていくが、噛み合わせが少しちぐはぐな感じもする(そもそもバレエ音楽部分は他作品からの転用らしい)。その後者において、まさしく惑星の各楽章を髣髴とさせるものが多く聴かれる。それゆえ楽しめる向きも二番煎じと捉えてしまう向きもいるだろう。形式上神秘主義的題名を冠された三曲からなるが楽想自体はそれぞれの中に更に詰め込まれている。

サージェントは弱音部においては金属的な音響を緻密に響かせながらメランコリックな楽想を陳腐化させることなく爽やかに昇華させており、舞踏的表現においてはトスカニーニを彷彿とするような前進力に明快なリズム処理で清清しい感興をあたえている。メインプロとしてはいささか短い曲だ。○。

ブルック・グリーン組曲(1933)

○イモージェン・ホルスト指揮イギリス室内管の弦楽セクション(lyrita)1967

かつてホルストを特徴づけていたオリエンタリズム、実験的な不協和音やポリリズム要素がすっかり昇華され、非常に近接した作曲家ヴォーン・ウィリアムズのそれよりも平明で、一種無個性な美しさを得た晩年の室内作品のひとつ。あくまで典雅な雰囲気は同盤に併録されたイモーゲン女史編曲の「管弦楽の為の奇想曲」(原曲は「ジャズ・バンド・ピース」・・・これがジャズ???初演1968年)の示すウォルトン的攻撃性とは対極だ
が、同じ1933年の作品だ(ホルストは1934年病に弊しており、ブルック・グリーン組曲は死の僅か2ヶ月前(3月)に学校で初演された)。ちなみに同曲機知に溢れじつに恰好良い映画音楽風の小曲だが(私は大好き!)、「ホルスト」としての作家性は同様に薄いようにも思う。中間部にはヴォーン・ウィリアムズの5番交響曲のような憧れに満ちた雄大な情景も混ざる。終わりかたがやや唐突なのが玉にキズだが。

話しを戻す。一音楽教師として女学校のジュニア・オーケストラのために作曲した曲であるから、息の長い旋律の単純な流れは、例えば1楽章「前奏曲」の最後にみられるピツイカートだけの終止形など、かつてのロシア室内音楽・・・チャイコフスキーの「弦セレ」等・・・を想起するもので、あくまで主題はイギリス民謡風でありながらも、それらクラシカル・ミュージックの伝統を意識して模倣したようであり、矢張り一種練習曲風といえよう。しかしこの曲全般に聞かれるひたすら軽く舞うような雰囲気、じつに品が良いものだ・・・お蝶夫人が出てきそうだ(古い)。全般アンサンブルがとりやすそうで(ホルストは時々複雑なリズム構成をとるがここでは目立たない)、アマチュアにはうってつけの曲だろう。ごくたまに、やや不格好な和音が横切るが、これこそホルストの個性の残滓。作曲技巧の綻びではなかろう。個人的にはアリアと称される古風な佇まいの緩徐楽章(2楽章)については、いくつかの主題がおしなべて弱く感じる。これらは民謡そのものに基づいているそうだが、しかし近代のこの手の擬古典曲では、全世界的に似たような主題が使われており、私個人がそれらを聴きすぎているから退屈するということだけかもしれない。ただ、構成的にも一番特徴がない気もする。主題の魅力でいうと1楽章の(第一)主題に尽きると思う。てらいのない終楽章「舞曲」(2拍子のタテノリ・ジグは、単純すぎて余り踊るような雰囲気でもないが)はどうしてアンサンブルの妙があり面白い。なにもこの曲に限ったことでもないが、同時代のフランスの曲を思わせる。この和声の流れは誰かの曲に似ている気がするが・・・失念。イベールあたり?休暇中シシリーで耳にした人形芝居の音楽に基づいている、とイモーゲン女史は書いている。ヴァイオリンと低弦のがっちり噛み合う単純な対位性がとても聴きやすい。後半少しくすんだ心象風景を呼び覚ますところがあり、ヴォーン・ウィリアムズ的であるが、時期的にみると寧ろヴォーン・ウィリアムズに先んじたものといえるかもしれない。

演奏に関しては比較対象となるものがないので敢えて書かない。作曲家の娘さんがイギリス瑞逸の室内管弦楽団を振った演奏だから悪くはないだろう。イモージェンさんは最近逝去した。合掌。(2000/2003記)

セントポール組曲

○ボイド・ニール弦楽合奏団(HMV)1948-49・SP

いかにも英国民謡音楽に新古典的な編曲をくわえた職人的な弦楽合奏曲で、終楽章で1楽章が回想される段にいたっては少々飽きる。むろんRVWほどに割り切ってはいないホルストのこと、惑星を思わせる神秘的な和音がひょっと顔を出したり、フランスの一昔前の前衛を思わせる和声をちょっと入れてみたり、わりと若い人に人気があるのがわかる。SPでも素晴らしい録音でこの合奏団の求心力の強さとブレのない技量の高さをちゃんと届けてくれる。web販売されている音源では2楽章の原盤が悪く、そのあたりは何ともいえないが、ノイズ除去すれば十分今でも通用するだろう。○。

フーガ風協奏曲OP.40-2

○アデネイ(Fl)グラーム(O)イモーゲン・ホルスト指揮イギリス室内管弦楽団(BBC,IMG)1969/6/15LIVE

ホルストらしい室内楽である。完全に古典主義の立場から往古の音楽の復刻に挑み、あるていど成功している。さすがイモーゲンの指揮はよくわかっているというか、曲の勘所をよく掴んだ聴き易いものになっている。音の綺麗さよりもアンサンブルのスリリングさが魅力だ。ブリテンの指揮とはやはり違う。○。

インヴォケーション

○J.ロイド・ウェバー(Vc)シナイスキー指揮BBCフィルのメンバー(放送)2011/8/11プロムスlive

ロイド・ウェバーは作曲家アンドルーの弟。この曲はチェロを中心とした室内編成の典雅な小品。ハープのしらべがホルストのフランス趣味を反映している。やや生硬なチェロだがアンサンブルとしてはシンプルな輝きを示すものとなっている。

夜想曲

○マッケイブ(P)(DECCA)

このアルバムではRVWの曲の次にホルストのこの曲が収録されている。その差は歴然である。余りに素朴で親しみやすいRVWの民謡風音楽に続いて顕れるこの曲は、ドビュッシー的な妖しい雰囲気の中に硬質のフレーズを散りばめた、まるで異なる視座の音楽になっている。格段に複雑だ。といっても影響色濃いドビュッシーのものより、やや特異さがあるというだけで要求される技術は下るであろう。しょっちゅう変わる不安定な調性もホルストらしい尖鋭さを象徴している。冒頭は「お、夜想曲」という雰囲気なのに、進む音楽は不気味な自動機械の徹夜操業のようだ(言い過ぎ?)。でも雰囲気は満点である。妖しいといっても南欧のぬるまゆい空気の放つ妖しさではない、冷え冷えとした金属の輝きの醸す妖しさだ。決してクラ界に溢れる夜想曲の系譜において輝きを放つ作品とは言えないものの、面白いことは確かであり、イギリス好きなら聴いてみてもいいと思う。○。

ジグ

○マッケイブ(P)(DECCA)

恐らくこのアルバムの中ではこの曲がいちばんホルストらしい尖鋭さをもったピアノ曲といえるだろう。いきなり電子音楽的な非調的な単旋律で始まるのが面白い。前期アイアランドぽい不可思議な音階にクラシックというよりEL&Pのような呪術的で扇情的なフレーズが重なり、それほど難しくないわりになかなか書き込まれており、しっかり聞き込むと非常に楽しめる。漫然と聞くと気持ち悪い瞬間もあるかもしれないが、夢のように美しく世俗的な旋律が織り交ざり(EL&Pだねへ)変化に富んでいる。マッケイブはしっかり弾き切っている。○。

二つの民謡断片op.46-2,3

マッケイブ(P)(DECCA)

ホルストもRVWも間違いなくフランス音楽の影響を受けているわけだが、そこにイギリス民謡のエッセンスを注入ししっとりした抒情を持ち込んだところで独自性を主張している。ホルストは更に一歩進めて晦渋な現代的音響を指向していったが、この曲では殆ど素直な抒情のみを打ち出している。マッケイブのイギリスピアノ曲集を聴いていると昔流行ったウィンダム・ヒルの音楽を思い出す。あれにもっと深い心根を忍ばせたような爽やかで仄かに感傷的な音楽だ。この断片は余りに短いため論評のしようがないが、近代イギリス・ピアノ音楽の最も一般的なイメージを象徴しているように思える。2番はまるで沈める寺。ドビュッシーだ。3番の俊敏な音楽は微妙に不協和で半音階的な動きがちょっと個性的。無印。

合唱幻想曲op.51

ボールト指揮ロンドン・フィル、ジョン・オールディス合唱団、コスター(MSP) (inta glio)1967/8/30ロイヤル・フェスティヴァルホールLIVE

合唱交響曲とのカップリングだがこちらのほうが有名だろう。ワタシも最初このCDを聞いたときはこちらのほうにより魅力を感じた。しかしこんかい聞き直してみて、あれ・・・と思った。オルガンの余りに押し付けがましくけたたましい始まりかたからして幻想ではない。曲の内容も複雑でいわゆるホルストの晦渋も出てしまっている。1930年の作品でテキストは完成直後に死んだブリッジェスのものからとられている(そのため献呈もブリッジェス)。パーセル没後200年を記念して1895年にかかれた詩で、その採用からしてもホルストの古典趣味があらわれている。オルガンと合唱という形式を前面に押し出した背景にはビクトリア朝の音楽があることは想像に難くない。イマイチな感じだった。ボールトもとくにスバラシイとは感じないというか、これはボールトが統制した音楽とも感じない。無印。
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オネゲル 夏の牧歌 (2012/3までのまとめ)

2012年04月16日 | Weblog
夏の牧歌(1920/8)

<若きオネゲル、フランス六人組時代を象徴する美しき異色作。ランボー「私は夏の曙に溶け居る」にインスパイアされ、両親の故郷でもあるスイスにて書き上げられたもので、アルプスの爽やかな朝をやわらかに活写した詩的音楽となっている。しっかりとした旋律構造と理知的構成にはオネゲルならではの計算が行き届き、それでいて何等抵抗感無く自然に聞くことができるところに、丁寧に作られた作品であることが窺える。低弦のかなでる船に揺られるが如き音形のうえに、少し久石譲を思わせる主旋律がはじめは低音管楽器から、緩やかに音高を上げて高弦に謡われゆくところは、聴くものの心を浮き立たせる。これら旋律の花々はこの作曲家としては意外なほど魅力的だ。オネゲルらしさといえば展開部の不協和な律動・・・瞬時にあらわれ瞬時に消える・・・が、オネゲルの出世作となった一連の「交響的運動」~便宜上「パシフィック231」「ラグビー」などと名づけられた~と似通った調子となっている。ただ曲の大部分は眩く牧歌的な情景のなかにただ繰り返しおだやかに歌われる抒情により成り立っている。ミヨーのような個性は無いし、ラヴェルのような実験も無いし、尖鋭さを求める曲ではない。しかしここに聞かれる素直な音楽の閃きは、完璧な精妙さをもって聴くものの心象を包み込む。ドゥビュッシー以降尖鋭たる作曲家として活躍を目指した群小作曲家にありがちな「座りの悪さ」が無く、穏やかな心地を害する作曲的瑕疵のひとつもないのはさすがである。ディーリアスの軽い曲や、ヴォーン・ウィリアムズの牧歌的な曲(展開部に入る部分での仄暗い響きは、複調性を用いるときのRVWとよく似ている)との共通点を指摘されるが直接的影響関係というよりは同時代的なものの反映ととらえるべきだろう。同曲、驚異的な機知の書「わたしは作曲家である」(オネゲル著ガヴォティ編吉田秀和訳、原著1951・音楽の友社1970(創元社1953))では一切触れられていないが、輝かしく若い雰囲気に満ちいくぶんの青臭さも伴った曲想に、健康上の問題を抱えいささか偏屈になっていた晩年の作曲家は、余り触れたくなかったのかもしれない。>

○作曲家指揮管弦楽団(EMI,M&A他)1931
○アルベール・ヴォルフ指揮デンマーク放送交響楽団(ARTESYMFONIA)1965/1/28ライヴLP
アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(LYS,1942/10/1)
◎マルティノン指揮フランス国営放送管弦楽団(EMI)
○シェルヒェン指揮ロンドン・フィル(westminster、国内盤CD化)

アンセルメ盤はここにあげた中では異色で、感傷的な雰囲気を一切盛り込まない独特の演奏だ。水晶のような響きを細工もののように組み合わせて曲作りをしているが、録音が古いために肝心の美質がよく聞き取れないという、決定的な難点がある。マルティノンはラムルーとも録音を残しているが、この新録は明晰な解釈と適度に喜遊的な雰囲気の持っていき方が絶妙。音質も含めて一番推薦できる。颯爽とした棒はマルティノンの長所だが、一音一音がはっきりしすぎていて、柔らかい抒情がいささか失われがちだ、と思う時もある。アルベール・ヴォルフのライヴは最も叙情的な演奏といえよう。細かいルバートや謡いまわしを込めて、優しく歌っている。仄かな感傷性を感じたが、いささかの音の悪さが難点といえば難点。シェルヒェンは一緒に入っている交響的運動三部作のほうが流石聞き物だが、この静かな曲は情深く感慨を受ける演奏に仕上がった。なかなか。最後にオネゲルの自作自演だが、悪い音は仕方が無いとして、解釈の素直さと演奏者の感傷的音色が適度に噛み合い、まま心地よく聴くことができる。(2005以前)

◎マルティノン指揮ORTF(EMI,TOWER RECORDS)1971/6,7・CD

マルティノンは磨き上げたオネゲルを提示する。フランスオケ特有のソリスト級個人技や特徴的な音色に依存した柔らかい表現より、きちんと律せられ硬質とすら感じられる音を正確に緻密に組み合わせ、じつにオネゲル的な立体構造物を作り上げる。夏の牧歌が他の交響的運動作品と地続きの曲であると気づかされるのである。作曲家指揮者ならではというところだが、この曲には別の情緒的な、ふわふわした、緩い雰囲気が欲しい気も否めない。美しく曲の美質を正しく忠実に取り出した演奏ではあるが、簡単に全肯定もできないかな。なんか、古い演奏録音とくらべ時代もあるのだろうが、オケが窮屈で、ニュートラルだ。 (2009/10/21)

実に雰囲気のある音。精妙な響きの美しさがマルティノンの持ち味でもあろう。ガチガチのロマン派の曲だと堅苦しさや冷たさも感じさせるが、スコアがそのロマン性を含めしっかり描いている場合は曲のままに香気が立ち上る。◎。(2011/7/31)

ミュンシュ指揮フランス国立(放送)管弦楽団(DISQUES MONTAIGNE)1962/6/8LIVE

モノラル。テンポ等、ちょっとロマンティックに揺れすぎる感がある。また、ミュンシュらしいのだが、1音1音が強すぎて、元の曲の繊細な美しさを殺してしまっている。この美しい曲には柔らかい抒情が欲しい。無印。

○ゲール指揮パリ国立歌劇場管弦楽団(EDITION LIMITEE)LP

曲がとても巧くできているためどんな演奏でもソリストがこけなければ成功するたぐいの曲である。フランス六人組が得意とした牧歌的な風景の描写。夏の真昼の香りがする名曲だ。だが、ゲールは少し重い。ホルンからオーボエへ息の長い旋律・・とても美しい名旋律だ・・を彩る他の管楽器や弦が、がしがしと合いの手を入れてくる。解釈がそうなのかもしれないが、夢幻的な雰囲気が途絶えてしまう。全般に武骨な解釈はホーレンシュタインを思い起こした(あれほど武骨ではないが)。特徴的な演奏ではあるので、手元の盤は盤面が悪いのであまり良くは評価できないが、○ひとつということで。

ゲール指揮オランダ・フィル(CONCERT HALL)LP

この盤のラインナップの中ではぱっとしないか。別記の演奏と恐らく違うものだと思うが、手堅さ以上のものを感
じなかった。まあ私の盤面が悪くてダメダメ聞こえるせいかもしれないが。無印。

ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(CAPITOL)LP

じつになんの感傷もなくさっさと進んでいく音楽に疑問。ほのかな感傷性がなんともいえない曲なのに、速過ぎだ。
弦が薄いのは単純に編成上の都合か。音は透明感があって綺麗だがケレン味のなさがひときわ即物的な音楽作りを
際立たせて、つまらない。無印。ま、私のLPが余りに悪い状態なせいも・・・。

奏者不明ORTF?(FRENCH BROADCASTING PROGRAM,NATIONAL RECORDING STUDIOS N.Y.)LP
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オルフ (2012/3までのまとめ)

2012年04月16日 | Weblog
オルフ

<(1895ー1982)「カルミナ・ブラーナ」をはじめとする「トリオンフィ(三部作)」だけでクラシック音楽史に深く名を刻んでいるオルフだが、教育用作品にもかなりの力を注いでいた。プリミティブなリズムと単純な歌唱は単調な繰り返しもかかわらずとても印象的で、「カルミナ・ブラーナ」の誇大性とは対極にあるが根は同じ。ナチス協力者の謗りを受けていた。>


世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」
<67年のヨッフム・ベルリンドイツオペラ管弦楽団他の録音(ディースカウが参加してるけどどうでもいいや)は作曲家監修の定番。個人的には録音や演奏精度はともかく解釈表現にそれほど野性味は感じないが、普通の人は地元バイエルンの荒々しさに感銘を受けるらしい。リマスター新盤のほうが迫力がある。トレッチェル参加の53年モノラル旧録(DG)もある。>


◎ライトナー指揮ケルン放送交響楽団他(ARTS ARCHIVES)1973作曲家監修

これが予想に反して(失礼)いい演奏なのだ。まるで劇音楽のよう。冒頭(と最後)の「おお、運命よ」はややフツーの感もなきにしもあらずだが、聴き進めるにつれよく計算された音楽の流れに魅了される。第3部の後半で丁々発止の歌唱を聴いているうち、ああ、これはミュージカルだ、と思った。決して軽んじて言っているわけではない。ライヴ感にあふれ、生き生きと演じられる音楽はたとえようも無く美しい。これほどわくわくするカルミナ・ブラーナを初めて聴いた。そういえばこれは作曲家監修のもとにつくられた音源だった。オルフの手により音楽はその本来の姿を取り戻したのかもしれない。こういう面白い演奏でこそ生きてくる音楽。ピアノの効果的な導入やリズム性など、前期ストラヴィンスキーの影響は否定できない曲だが、娯楽的演奏を許すという点でストラヴィンスキーの世界とは隔絶している。オルフについては親ナチ派だったとかいろいろキナ臭いことも言われているが、イデオロギーと音楽は全く違うもの。オルフの個性は21世紀の今においてもその輝きを失ってはいない。

○フリッツ・マーラー指揮ハートフォード交響楽団、合唱団、スタールマン(SP)他(VANGUARD)CD

グスタフ・マーラーの甥フリッツとオルフは親交があったと言われる。後半生ハートフォード交響楽団のシェフとしてドイツ的なしっかりした腕を振るい録音も結構なされたが、いかんせんオケの知名度に欠けるせいか現在現役盤は殆ど無い。オケは結構巧いので見くびらないように。この演奏もよくできていて、日常的に聴きたくなったらいつでも聴ける類の演奏、と言ったらいいのか、変な山っ気もなくソリストが突出して芝居じみた表現を繰り出すこともなく、かといってヨッフムのように少々真面目すぎてつまらなく感じることもない。長く連綿と続く簡素な歌を聴き続ける部分が大半の曲で、結構飽きるものだが、これは締まった音が心地よく、耳を離さない。全体のバランス、設計もいいのだろう。力感溢れる両端部は録音マジックの部分も多少あるかもしれないが、誇大妄想的表現にも陥らない立派な表現である。いい演奏。○。

○コンヴィチュニー指揮プラハ放送交響楽団・合唱団他(MEMORIES)1957/4/31プラハの春live・CD

冒頭はいきなりの迫力ではあるものの、鈍重で、合唱とオケがすぐにずれ始めるのががくりとさせるが、ホール残響のせいでそう聞こえてしまっただけなのかもしれない。そのあとは徐々にまとまってきて最後には合唱・オケが素晴らしく規律のとれた迫力ある盛り上がりが出来上がる。録音がやや弱くバランスもインホール録音的な悪さがある。モノラルでも迫力のないほうのモノラルでコンヴィチュニーの実直さが表に立ってしまう、歩み淀むような遅いテンポが気になる箇所も。しかし独唱が素晴らしい。抜けがよく透明感があり綺麗にひびく。これも録音特性かもしれない。チェコとは浅からぬ仲のコンヴィチュニーだが正直コンヴィチュニーのよさはドイツでしか表れないような気もしていて、オケの光沢のある艶やかな特性とややあっていないようにも思った。○にはしておく。

○テンシュテット指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団他(rare moth:CD-R)1980live

この曲はじつはヨッフムとケーゲルくらいしか知らない。オルフは好きだが、どちらかというと教育用に作曲されたオスティナート・リズムのつづく素朴な歌を寝る前などによく聴いていた。だが、そういった軽い曲はオルフの本領ではないのだろう、ほとんど話題にのぼらない。カルミナ・ブラーナは最初だけが異様に人気があり、テレビのBGでもしょっちゅう聞かれる。第二曲あたりは「スター・ウォーズ」の新作の音楽にそっくり。人気があるなあ。このテンシュテットの盤は、なんと80年代にもかかわらずモノラルである。モノラルはそれなりに聴き易い場合もあるが、できれば壮麗にステレオで聞きたかった。ラジオ放送をエアチェックした盤なのか、と思わせるほど細部が聞き取れない音質だったりする。しかし、ヨッフム盤からは聞き取れないようなダイナミックな音楽性が発揮され、聴き進めるにつれ疲れてやめてしまうことの多かったこの曲を、最後まで飽きさせず聞かせてくれた。付文にもあるが「生々しいまでの官能性」というのはたしかに感じるし、また、私個人的な感想かもしれないが、これは「マーラー」そのものの解釈であり、静かな局面では「大地の歌」を想起するほど諦念に満ちている。音楽の様々な側面を描いたこの曲の特質をよくとらえた演奏だ。魅力的な演奏。

○テンシュテット指揮トロント交響楽団他(rare moth:CD-R)1979/12/13live

オルフの世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」、”トリオンフィ”(三部作)の嚆矢にして、オルフの代表作である。少々ストラヴィンスキーの作風を思わせるところもあるが、より単純で、ひたすらのリズムのくりかえしが脳内に言い知れぬ液体を分泌させる。強烈なリズムと非和声的な音楽、とあるが(「クラシック音楽作品名辞典」)このカルミナ・ブラーナにはとてもその特質がよくあらわれている。南独の修道院で発見された坊さんたちの破戒詩「ボイレン歌集」から、24の詩とオルフの1詩により編み上げられたものである。さて、テンシュテット盤。同じレア・モスからのハンブルグ盤とくらべ、派手である。ひとつにはこれが曲がりなりにもステレオ録音で、ハンブルグ盤がモノラル録音だった、ということがあるが、私はそれよりむしろトロントといういわば「外様」の楽団がこれを演じるという「異様」が、奇矯なテンションをあたえたのではないかな、と思う。終演後の異様なブラヴォも会場の熱気を伝える。技量の問題もある。ハンブルグのほうが全般的に一ランク上の技量を持っている。がそれゆえにといおうか、ここでは足りないところをテンションで押し切っているさまが聞き取れ、却って面白い。テンシュテットはしかし面白い指揮者だ。緩急の差も著しくつけられており、圧倒的な声量の歌を聞かせたかと思えば、緩やかな歌などヴォーン・ウィリアムズあたりを思わせる
鄙びた美感をもたせ秀逸である。おそらく受信機からの録音、テープヒス等は例によって聞かれるし、通常のCDに求められる音質にはかなり足りない音だが、まずもってテンシュテットの「異様」を聞こう。最後に初曲が戻ったところの凄絶な表現に仰天、佳演だ。音質がもっとよければね。。。

シュミット・イッセルシュテット指揮ストックホルム・フィル(BIS)1954/11/26live

ストックホルム・フィル75周年記念ボックスより。リズム感がイマイチか。カツゼツがあまりよくない。横の流れが重視されているかといえばそうでもなく、歌唱を含め今一つだ。だいたい真面目すぎる。滑稽な歌は崩してほしいし、深刻な歌はきわめて厳しく表現してほしい。無印。

○ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団&合唱団、ヴェヌッティ(SP)他(Profil、Hanssler、NDR)1984ハンブルグlive・CD

ちょっと冷静な演奏だがいつもの狂乱的なカルミナ・ブラーナではなくケーゲルらのやったような「構築物としての」ブラーナが聴ける。ここには歌詞の意味内容より純粋音楽的な興奮をそそられるものがあり、もちろんそういうものはこの曲にはほしくない、という向きにはまったく薦める気はないのだが、静謐さや純粋さ、鋭さといったヴァントならではの持ち味がこの曲に違和感なく入り込んでいるさまには感銘を受ける。○。

○パレー指揮デトロイト交響楽団他、アレクサンダー、ボートライト、ババキアン(LANNE/DA:CD-R)1960/12/29live

破滅的な音響と爆発的な推進力で最初から最後まで突き進むパレーだが、管弦楽の強烈なリズム表現に派手なデュナーミク変化はいかにも凄まじいとして、合唱・歌唱の扱いがやや雑に感じられるところもある。ソリストはわりと自由に歌唱し、合唱は強烈さをアピールするために敢えて自発的な迫力に任せているようにも聴こえる。比して中盤歌曲の単調さは管弦楽にしか興味がないパレーの意図?とはいえこのわりと散漫なオラトリオの最初と最後の「おお、運命の女神よ」だけでも聴く価値はあり。録音がとくに前半悪すぎるが、パレーのこの曲、というだけで食指が動く人もいるのではないか。そもそもオルフは管弦楽は伴奏と位置づけ、あくまで演劇的連作歌曲として描いているのにこの管弦楽曲みたいな音楽は何だ、という教条主義者はヨッフムでも聴いとけ。新旧どっちの録音を選ぶべきかちゃんと調べろよ。○。そりゃ終演後は大ブラヴォ。冒頭がBGMに使いまわされて久しい運命論的なこの曲だが、オルフの本領はむしろオスティナート・リズムに貫かれた簡素な本編歌曲にある。数々の教育用作品に通じる特有の平易な表現だ。オルフが発掘した「とされている」中世大衆歌の味ももちろん両端だけでは味わえない。体臭をふんぷんとさせながらあけすけに大声をあげる下品さが求められるところもあり、パレーの芸風は曲にはあっている。歌唱は何とも言えないが俗っぽいところはきちんとそれなりにやっている。何よりアメリカだから俗っぽさでは中世ドイツ顔負けである。音色は明るいけど。

◎ストコフスキ指揮ボストン大学管弦楽団(DA:CD-R他)1954/11/19live

とにかく攻撃的な演奏である。スピードもさることながら音のキレが非常に激しく、とくに合唱の音符の切り詰め方にはしょっぱなからから焦燥感を煽られある意味小気味いいくらいだ。シェルヒェンの芸風をやはり想起してしまう。歌によってばらつきがないとも言えないしブラスはどうもブカブカとふかす感じだが、総体として終始楽しめるようにできており飽きさせることはまず、ない。盛大な拍手もわかる非常に興奮させられる演奏である。ストコの生命力は凄い。原典主義とは無縁の世界だってあっていいし、だいたいビートルズの弦楽四重奏編曲とか平気でやる分野の音楽家が、近現代の作品で多少譜面をいじることを何故躊躇し嫌うのか、金銭的権利的権力的問題以外の部分では私にはとうてい理解し難い部分があるなあ。 後注:DA盤はBSOではなく大学オケ盤(現在プライヴェートCD化)と思われる。そちらのデータに基づき書き直した。なおメンバーはそちらによれば以下。 Ruth Ann Tobin, soprano / Gwendolyn Belle, mezzo-soprano / Elmer Dickey, tenor / Kenneth Shelton & John Colleary, baritones / Boston University Chorus / Boys Choir from the Newton Public Schools

~リハーサル

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団他(DA:CD-R)1969/5放送live

1時間余りにわたってリハ風景が聴ける。こういうラジオ放送も古きよき時代ならではのものだ。流石アグレッシブなアメリカ交響楽団に対して比較的「抑える方向で」表現の機微を付けコントラストを明確にしていくストコフスキの方法がよく聞き取れる。比較的穏健に、冷静に、余り多くの説明をせずに(ここが肝心)、演奏の強弱を中心にしたかなりわかりやすいリハ風景といえるだろう。曲がまたダイナミックで単純なだけにオケもガシガシと攻めてくるのがリハとは思えない側面もあり面白い。もっともリハならではの一種楽にやっているふうな感じは弦に聞き取れる。声楽陣が素晴らしい。なかなかに飽きない。○。
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プーランク (2012/3までのまとめ)

2012年04月13日 | Weblog
ピアノ協奏曲

○作曲家(P)ミュンシュ指揮フランス国立放送管弦楽団(INA)1950/7/24エクス・アン・プロヴァンス音楽祭live・CD

録音が少し悪く私のCDは1楽章の末尾近くで明確な断裂があるが、媒体自体の品質の問題かもしれない。プーランクは調子がよく、さすがに専門ピアニストに比べると荒いが力強く引っ張っていく意気には欠けていない。何よりミュンシュの棒が作曲家が崩しがちなテンポをしっかり前進的に維持していて、弛緩しそうな旋律に貫かれた曲全体を引き締めている。2楽章のロマンティックな部分を重くならずに爽やかにすっと通すところなどいい。特有の世俗性をはなつ和声を伴うプーランク節を、古典からラヴェルやラフマニノフといった先行作曲家の手法を露骨に引用しながらアレンジしている作品で、けして名作ではないがプーランクの楽しい音楽が好きな向きは楽しめるだろう。終演後の拍手がかなり撚れているのだがブーイングが聞かれるのは何故なのか知らない。○。

○ハース・ハンブルガー(P)デルヴォ指揮パドルー管弦楽団(Felsted他)1952・LP

初録音盤。ソリストはプーランクと同じアパートの階上に住んでいて親密な交流があった。腕は確か。真面目腐らず、かといってふざけず、響きの薄さはいつものプーランク節であるが、しっかりピアノ協奏曲として楽しめる。この作曲家は思いつきで書いているような非論理的な構成、メタミュージック的な遊び(この曲だとラフマニノフが思いっきり響きを軽くして表われる)を孕む軽さを感じさせるためか、ピアニストが主要レパートリーとして組み入れる例には殆どあたらない。確かにそういった協奏曲を書いた人ではあり、聞き流すのがいい聴き方かもしれない。それらの中でもこの曲はちょっと長いけれども。今はネット配信中。

2台のピアノのための協奏曲(1932)

○作曲家,フェヴリエ(P)デルヴォー指揮パリ音楽院o(ANGEL/EMI)

カッサンドルのジャケットデザインで余りに有名な自作自演の旧録。EMIで最近復刻した(2003年)。新録に比べて生気に満ち、切れも良いようです。デルヴォーの颯爽とした指揮によるところも大きいでしょう。何しろ、いろいろな要素のごった煮ですから,悪趣味と聴かれてしまってはもとも子もありませんが、リストを初めとするピアノ協奏曲の歴史、特にプロコフィエフなどの残響〔意図的でしょう〕が、プーランク流儀で次から次へと紡がれていくその流麗さを楽しんでください。終楽章などフランクの交響曲終楽章をちょっと思い浮べるところもありました。

作曲家、クロシェ(P)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1961/1/21(2/21?)live

プーランクのピアノははっきり言ってうまくない。後ろ向きにテンポを調えて硬直した遅い演奏になりがちで、恐らく技術的限界が背景にあることは想像に難くない。録音がステレオではあるのだがインホール録音に近く二台のピアノの音がいずれも引っ込んでしまいほとんど聞こえない。前へ向かおうとするミュンシュとのアンマッチもある・・・このミュンシュの芸風に揃えてくれればカタルシスが得られたのに!「グロリア」初演の中プロとして演奏されたもの。無印。

リヒテル、レオンスカヤ(P)マギ指揮ラトビア交響楽団(doremi他)1993/6/26live・CD

晩年のリヒテルは好きでよく近現代もの、しかもガーシュイン以下軽音楽系クラシックもライヴでは楽しんでいたようだが、スタイルはいつものリヒテルでタッチは重く(音はけして重くは無いがテンポや表現解釈が重い)前進力の無いどうにもミスマッチなもの。レオンスカヤもリヒテルにあわせている部分もあって生硬で無機質。この曲特有のエスプリ、スピーディにくるくる廻る舞台展開、繊細な情趣が一切抽象化されていて、底浅い曲と「誤解させてしまう」。こころなしかオケまでどんくさい。聴衆反応も正直余り乗っているものではない。晩年リヒテルはこういう若々しい曲には向かないなあ。無印。確か海賊盤では既出だったと思う。

田園コンセール

○作曲家(P)ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1948/11/14LIVE

クレンペラーがプーランクの協奏曲を作曲家独奏でやったとき、まったく理解できない、どこかいいんだ、とグチっていたそうだが、プーランクのよさというものは物凄く人を選ぶと思う。私だって5人組の中ではいちばん苦手なクチだ。代表作がない、中途半端な前衛性、しょせんシャンソン作曲家、などなど言おうと思えばいくらでも罵詈雑言を書ける。でもたとえば今日のような青空のもとで、田園のコンセールなぞを聞こうものなら、ぼーっと、漠然としあわせな気分を味わえるだろう。散発的な不協和音(サティのエコーだろう、せっかくの「美しい旋律」に不協和音を叩き付けてだいなしにするような・・・ミヨーにも多い現象)にダダ的なイヤな感じを受けるかもしれないが、それも慣れてくるとむしろ「匂い消し」のような役割を果たしているというか、通俗的でありきたりで世俗の匂いのする旋律に、一種のスパイスとしてはたらいている。また、異種混交性の妙、と言ったらいいのか、プーランクの様式は古典からストラヴィンスキーまでさまざまな要素のごった煮だ。それをそういうものだとわかって聴くのとわからないで聴くのではちょっと結果が違ってこよう。・・・なんだか散発的にごちゃごちゃ書いてしまったけど、さあこの盤。まずミトロプーロスの丁々発止には舌を巻く。ランドウスカのストコフスキ並。そして私は他ではいい印象がなかったプーランク自身の独奏(ピアノを弾いているがあまりペダルを使わないし、弾き方も軽く叩き付けるようでチェンバロを意識している模様)はここではヴィニェスの弟子たるところを見せている。悪い録音のため細部が聞き取りづらく、細かい音符の箇所をちゃんと弾いているかどうかわからないが(はしょってる感じもしなくはない)作曲家だけあって重要な音符のみをしっかり聞かせるように弾き分けている。この演奏も速い。プーランクはこういう演奏を理想としていたのだ、という意味では勉強になる盤でもある。

◎ランドウスカ(献呈者)(HS)ストコフスキ指揮NYP(MUSIC&ARTS)1949/11/19

この曲はチェンバロで聞くとぜんぜん違う。オケの音量とのかねあいが難しい所だが、音色が独特なため、けっこう目立って聞こえるようだ。擬古典的な面が強調される反面、擬古典的でない場面では現代曲のように奇矯な印象をあたえる。献呈者ランドウスカはさすが、ものすごい勢いで弾きまくる。自作自演盤もそうだけれども、いきなり異様なスピードで始まる。この曲はそれが正解なのかもしれない(ギレリスは遅すぎた?)。オケもうまいですね。ソリストとの距離感をはかって、適度に調子をあわせていく。きちんと主張し、クライマックスではソリストに配慮しつつも爆演を聞かせる。ストコフスキの伴奏というのはラフマニノフの協奏曲などで馴染みがあるが、やはり新し物好きだけあって新しい音楽を理解し咀嚼し音にする技術にはものすごく長けている。ランドウスカの演奏は火花が飛び散るようだが、古典を得意にしているにもかかわらず、擬古典「でない」箇所ではしっかり旋律線を歌いきるし、しっかり主張する。並ならぬ奏者だ。この盤、音は悪いが終楽章などかなり楽しめるので、機会があれば聴いていただきたい。名演。

○ランドウスカ(HS)ストコフスキ指揮NYP(DA:CD-R)1949/11/20LIVE

M&A盤と同じかもしれない。ランドウスカのバリ弾き状態はすさまじく、典雅さよりわくわくするような高揚を感じさせる。じつに若々しい。ストコもはっきりした表現でプーランクの一種マンネリズムを覇気の方向で書きなおしている。○。

○プヤーナ(HS)ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1966live

こういう曲は聞けるときに聴いておかないと聴かないまま何十年もほうっておくことになる。プーランクには「びみょうな」曲が多いがこれなどプーランクのイメージをかなり決定付けるような世俗性と擬古典性のミキシングミュージックで、ラジオで好きになった向きも多いだろうが、私はどうにも、苦手な部類である。だいたい六人組なんてストラヴィンスキーの影響がどうにも時代的に強いわけで、これもストラヴィンスキーの新古典主義に非常に近い擬古典作品である。単線的に旋律をつむいでゆく、もちろんプロフェッショナルな技巧の裏づけはあるにせよ結局かなり単純な構造の楽曲であり、更にハープシコードという音量の小さな楽器をソロに迎えなければならないことからも、管弦楽は合いの手的に挿入し絡みは最小限になっている。簡素なのはプーランクの持ち味でもあるが、オケの各パートにソロ的な動きが多いのもプーランクらしさではある(オネゲルやミヨーとは対極だ)。深刻な宗教的作品とは一線をかくした世俗的な古典音楽の世界を楽しめる人は楽しんでください(投げやり)。でもストコフスキはさすがです。大管弦楽の響きをハデハデにぶちあげるストコ流儀が、ここでは巧く曲構造を壊さないように配慮されて響いている。録音を前提としていないライヴであるにもかかわらず、よくハープシコードの金属的な響きが捉えられている。もちろん爽やかな朝の田園を演出する配慮は無いが(録音音質的にもそれを聞き取るのは無理)、素直にこういう音楽をどう楽しめばよいのか、別に古典を意識しなくても楽しめるんだ、という一案を提示してくれている。とにかく終始勢いがあり、プーランクが好むソリストとソロ楽器の丁々発止のかけあいが速いスピードの中でもしっかり聞き取れる。ソリストも楽器を壊さずによく響かせている。ストコはやはり弦楽器主体の音楽だと素晴らしい響きを引き出してくれる。古典的な小編成の演奏に一長を持っている。いい演奏です。拍手も盛大。○。

◎ウィーレ(Hps)アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(Theatre Disques:CD-R)1961ジュネーヴLIVE

モノラルだがクリアな録音でまったくストレスはない。演奏はモノラル録音期のアンセルメの持っていた溌剌としたリズム感覚が清清しく、ハープシコード(表記上はピアノで音量的にも出すのは無理ではないかという迫力があるから仕掛けのあるものかもしれない)もオケとかっちり組み合い、尚強い打音表現で胸のすく思いがする。曲もこの組み合わせにはあっている。双方が俊敏な動きで主張しながらも、しっかりアンサンブルがとれている、協奏曲の演奏として非常によくできているのだ。透明感がある音響、世俗的楽想がその中に昇華されるというプーランクならではの「朝の音楽」。非正規とはいえ◎にせざるを得まい。正直この音質に環境ノイズのなさだと「スタジオ録音では?」と疑ってしまうが一応盛大な拍手が入っている。

○ギレリス(P)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(MELODIYA/BMG)1962/10/12LIVE

もともとランドウスカのチェンバロのために作曲されただけあって、第一楽章硝子質の打楽器的な出だしはチェンバロ向き。但しプーランクはピアノで弾く事も容認していたようであり、この長大な序奏部を過ぎるとそれほど違和感はなくなるので、現代ピアノでもいいだろう。私はランドウスカ+ストコフスキ等の古い録音で親しんできたため、ステレオにしては悪いという録音状態も容認できる。プーランクらしい小技が効いていて、内声部の尖鋭性もよく聴き取れて面白い。プーランクは基本的に歌謡作曲家である。洒落た節回しに最低限の伴奏さえあればいい、という曲もけっこうあると思う。この曲もそういった印象が有り、あまり良く書けた協奏曲ではない、と思っていたのだが、クリアな音で聞くとなるほど世俗的な雰囲気を持った歌が主体ではあるものの、それを支える土台のしっかりしたことといったらない。コンドラシンのプーランクらしからぬびりびり引き締まった演奏ぶりのせいもある。ホルンが狩りの角笛を模しているはずなのに、気合のあまり?妙につぶれて浅く響いてしまっているのは惜しい。ロシア式が今一つ曲になじまない伴奏ではあるが、そういう欠点は無視してギレリスのそつのない高度な技巧をただ楽しもう。どちらかというと前半楽章(2楽章まで)は擬古典ふうで、ストラヴィンスキーらと期を一にした新古典主義の作曲家たるところを見せている。3楽章はダブル・コンチェルトなどと共通するプーランク節が聞かれるが、気まぐれで、ちょっと謎めいたところもある。まあ、全般余り印象的な曲ではないが、古典好きで20世紀音楽にも手を伸ばしてみたい、と思っている方は入り易いだろう。ギレリス盤は録音状態、コンドラシンのスタイルの違和感もあってあまり高く評価できないが、ギレリスの素晴らしいピアニズムと併せて、○一つとしておく。この曲は良い録音で聞くべきかも、と思った。プーランクの特質に「透明感」というものがあり、悪い音ではそんな美質が大きく損なわれてしまうから。

~リハーサル

○マルロウ(hps)ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1963/2/23live

ハープシコードの非常にアグレッシブな演奏ぶりにびっくり。大音量で弾きまくり、ストコは色彩感は保ちつつも直線的で強靭な推進力をもってのぞみ、NYPとやるときのような感じを持たせる。スリリングで聴き応えあり。比較的演奏部分が多い。○。

ピアノと18楽器のための協奏舞踏曲「オーバード」


○リヒテル(P)J.F.パイヤール指揮パイヤール室内管弦楽団(doremi他)1965/7/3トゥールlive・CD

このプーランクはいい。リヒテルものっていて、強過ぎるところはあるけれども、プーランクらしい洒脱さと陰影を楽章毎に描き分けている。きほんプーランクのピアノ付き室内楽はこの曲のような調子で、構成も似通ったところがあり、編成で幅が出てくるわけだが、特に得意とした木管アンサンブルを背景とした曲、パイヤール室内楽団というバックはソリストとしての腕も素晴らしく、「朝の雰囲気」の醸成にとても貢献している。もっと軽快に攻めた演奏や透明に組み立てた演奏もできる曲だが、ライヴということもあり、刹那的な感情に訴えかける演奏になっている、それはそれでいいのだろう。

六重奏曲(ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン)1930ー32、改訂39ー40

<プーランクの曲は多様だ。それは技法が探索され尽くしたあとの芸術の有り様を示している。20世紀の作曲家。ストラヴィンスキー、ラヴェル、プロコフィエフ、エリック・サティ、様々な同時代人の息吹を吸収して自己の作風に取り込んでいった作曲家。その姿は初期のミヨーに似ているけれども、肩肘張らずに音を愉しみ酒を傾ける人々のかたわらで、アップライト・ピアノの上にグラスを置いたまま、笑いながらかなでる類の気軽な音楽は、フランス六人組で最も人気のある作曲家たらしめている。おカタイ芸術至上家は「モーツアルトの再来」とたたえたが、少し違うように思う。即興的で一種ジャズ風ともいえる小曲の数々を注意深く見るならば、”無類のレコード好き”の、数々の音楽経験が結晶している様を至る所に見ることができよう。又、わかりやすい・・・深刻な「カルメル派修道女の会話」でさえ、わかりやすい・・・場面の数々をつなぐのは、オネゲル風の渋い音響であることにも気が付くだろう。プーランク自身の音楽評論などを読むと、この人は決して快楽主義的作家なぞではなく、新ウィーン楽派以降の音や、中期より後のストラヴィンスキーに敬服するような趣味の作曲家だったことに今更ながら気付かされる・・・そう「前衛」だったのだ、かつては・・・。プロフェッショナルな作曲家としてのアイデンティティを、自身の音楽的探求(研究)から完全に切り離していたようだ。自分の中の「音楽的系統樹」の、決して幹の方ではなく一枝の先端に、「プーランク」という作曲家の名をぶら下げ、飄々としていたのだ。まさしく六人組、フランスの作曲家。さてこの管楽とピアノの為の組曲は、プーランク室内楽の最良の所を見せている。愉しさの面でも何気ない渋味の面でも、ノスタルジック、だが乾いているこの作家独特の感性をひときわ強く感じさせてくれる。ききどころは終楽章、喜遊的な律動と感傷的な旋律の応酬だ。 >

◎ジャン・フランセ(P)デュフレーヌ(Fl)ほかORTF(フランス国立放送管弦楽団)木管五重奏団(EMI等(国内盤で「デュフレーヌの芸術」の1枚としてCD化している))1953・CD

ジャン・フランセのピアノは驚異的で、他メンバーの技術も冴え渡っており、今後もこれを超えるものは現れないのではないか?フランセは「イベールの息子」とも呼ばれるが、その作風はプーランクとミヨーの良質な部分を重ね合わせたようなところがあり、異常なまでの適性をここでは感じる。兎に角巧いピアノだ。又この古いモノラルの音からは、古い映画の背景音楽のような芳香が立ち昇っており、感動的ですらある。だがベタベタせず下品にならない。曲の良さを曲自体の価値以上に引き出している類の演奏だ。(2005以前)

最初から掛け合いの嵐でさすがに軋み生硬なテンポをとらざるを得ない曲だが、ここで牽引役としてそつない流れを作りテンポを安定させていくのはやはりフランセ。細かなフレーズも流れるように軽やかに、しかししっかりしたタッチで発音にいささかの「時差」もない。ORTFメンバーからなるこの木管五重奏団は仏EMIの例の二枚組みCDでまとまったものが復刻されており(一曲欠けているが山野楽器・EMIの「デュフレーヌの芸術」は現役盤として入手可能)現代的な洗練された「フランス式木管楽器によるアンサンブル」を楽しめる。じっさい室内楽団としてはローカリズムをさほど感じさせないが、鼻にかかったような「ザ・木管」な音色や露骨ではないにせよソリスティックな趣のあるヴィブラートなど、低音楽器すなわちバソンとホルンに聞き取ることができる。

六重奏曲ではどうしても低音楽器は下支えに回る場合が多く、バソンなど横長の旋律でないと表現の差が出ないが、ユニゾンで旋律メドレーを続けるプーランクの特質のうえ、さすが弦楽アンサンブルを捨てて管楽アンサンブルのみに作曲の腕を注ぎ込んだだけあって、特にこの曲ではフランセの曲のような機械的な「役」の割り振りは無く全楽器に聴かせどころが分散しているので、そういったソロ部をあまねく楽しむにはいい曲である。アンサンブルを楽しむ、もしくは勉強するにはうってつけではある。

急峻な楽章では一人律動的に動き続けるピアニスト次第なところも否めないが・・・とにかくやっぱりフランセ、デュフレーヌを始めとする奏者の方向性が一致しているというか、甘い音色をほどよく維持しながらも世界に通用する抽象音楽を表現する意思が感じられる。これに比べればアメリカの楽団のものなど素っ気無いわりにジャズ風の奏法など取り入れて寧ろローカリズムが強い感は否めない。さすが、ORTF黄金期メンバー。

後半になればなるほどいい。○。これはアナログで死ぬほどハマった盤なのだが、CDになって「あれ、こんなに醒めた演奏だったけ?」と距離を置いていた。バソンの話題が別のブログで出たので、あ、バソンって意識したことあんまりないや、と思って聴いたら、楽しめた。バソン自体ソリスト向きの楽器で奏者によっても音が全く違うなあとも思ったけど(プレシエルはそれほど独特の音は出さない人の感じがする)、1楽章ではサックスぽい赤銅色の旋律表現が聴ける。伴奏やユニゾンの時とは音を使い分けるんだなあ。

デジタル化は一長一短ではある・・・古い弦楽アンサンブルの録音が復刻されると倍音が減って(正確に響いて良いという見方もできる)金属的になるのに似た難しさを感じる。書法の多彩さが、特にハーモニーバランスの完璧なこの楽団の長所をいったん解体したところで、俊敏なフランセのもとに再構築された精度の高い演奏ということはちゃんと聴きとれる。モノラルだがクリア。○。(2009/1/14)

作曲家(p)フィラデルフィア木管アンサンブル(COLUMBIA他)

EMI国内盤の、デュフレーヌをはじめとするORTFメンバー+ジャン・フランセ!による演奏が何を置いてもベスト版ですが(フランセのドライヴ感といったらもう…)、プーランクの独奏の衰えを感じさせるこの盤も…聞いておく価値はあります。プーランクはかなり沢山の歌曲伴奏を残しており,ピアノ独奏も少なからずあります。盟友ベルナックとのタッグで、バーバーの歌曲なんていうのも残っています。自作自演以外においては、曲の本質をさりげなくすくいとることのできる感性の閃きを感じさせ出色です。サティのジムノペディなんて強い表現性に満ちた演奏で、同曲のイメージに固執しない個性的な演奏様式を示しています。2002年CD化。

○フェヴリエ(P)パリ五重奏団(PATHE)

プーランクの室内楽の代表作だが、その無邪気な美しさや歌謡的な旋律の面白さだけに着目していてはプーランクの本質を見失うおそれがある。プーランクは(その伝記などを読めば良くわかるのだが)ほんらい前衛的な感性の持ち主であり、その一見古臭い作風のウラに何かクセのあるものを忍ばせていることが多い。ピアノにフルート、オーボエ、クラ、ファゴット、ホルンという組み合わせであるが、つねにピアノが前面に立ち演奏を先導していく。このアンサンブルは叙情性よりも曲に内在する現代性を浮き彫りにしていくようなところがあり、プーランクという存在を考えるときに必要な一面を思い出させてくれる。ひびきの新鮮さを浮き立たせるような演奏で、とくに穏やかな場面でのハーモニーが硬質な抒情を引き出し秀逸だ。解釈としても起伏に富み一本調子な解釈の多い同曲の演奏としては特異だ。フェヴリエは余り器用ではないピアニストの印象があるのだが、この演奏では達者なところを見せている。速いパッセージでもそつなくこなしていて、危なげない。ややゆっくりめの終楽章の最後、喜遊的なパッセージがおさまり、プーランクが時折見せる真摯な表情が垣間見える最後の緩徐部、少々さびしげだが、壮大で、その中に高潔な気品を感じさせるフェヴリエのタッチが印象的。佳演だ。

三重奏曲

○作曲家(P)ラモーレット(O)デラン(B)(EMI/pearl)1928/3/7・CD

自作自演の旧録。EMI正規としては10年前の作曲家自作自演シリーズがまとめて廉価復刻されたものが現役(と思う)。オーボエ、バソンの「棒吹き」など素朴な味わいがあり音量的な不足や運指の不安定さはフランス派の奏法(と楽器)によるものだろう。あとは録音のせい。ここで聴くべきはプーランク自身のとる攻撃的なテンポでピアノトリオらしい力関係のこともあるが、ヴィニェス門下としての即物的な表現が残っていることが感じ取れる。アンサンブルとしてはもっと新しいものに聴く価値があるが、「伝統的な楽器表現による同時代の演奏」という価値はあり。アラールの教授職前任者デラン若き日の貴重なバソン演奏ということも資料的に意味があるか。

◎作曲家(P)ピエルロ(O)アラール(B)(Ades他)1959・CD

優秀なステレオ録音。現在聴きうる最もレベルの高い演奏記録と言えるのではないか。楽曲の古典性を明確にしそこに新しい和声や世俗的なフレーズを有機的に織り込んでいくプーランクならではのモーツァルト的な喜遊性が、ここまではっきり意識して表現された演奏は無い。ピアニスト作曲家自作自演ならではともいえる。ただ、トリオという編成はソロ楽器が互いに個性を主張しあうという、「アンサンブル」とは少し違った視座で楽しむべき(というかそうなってしまう)もので、これもその多分に漏れない。作曲家後年のピアノは不安的な録音もあるがここでは調子がよく、30年前にくらべてはテンポも落ち着き円熟味があるものの、攻撃性は失われていない。表現が大きい。ピエルロはただでさえ饒舌なオーボエという楽器の機能性を駆使して自己主張する。一番印象に残るだろう。アラールはバソンということを感じさせない安定感があり、曲的にそれほど前に出てこないにもかかわらず完璧な技巧と、時にアルトサックスのような音で個性を出しオーボエに対抗する。スリリングですらある。◎。

○フェヴリエ(P)カジエ(O)フザンティエ(B)(EMI/brilliant)CD

この演奏を含むプーランク集を私は少なくとも三つ持っている。組み合わせを変え全集化しCDになり、更にはbrilliantが超廉価ボックスにまとめるという、このクラスの演奏家のものにしては(逆に知名度が高ければ廉価化されるというのもわかるけれどそこまででもないのに)珍しい。演奏はいずれもフェヴリエが絡んでおり、フランス・ピアニズムの生き字引のようなこの人はしかし特異なスタイルを持っていて、けして激せず遅いテンポで、タッチやアーティキュレーションの細部にのみ独特の変化をつけていく。上品である。ラヴェル的というか、およそプーランクの芸風からは遠い人のイメージがあり、じっさい世俗性のなさがマイナスと思いきや、他二人はじつに素朴な演奏をなし悪い意味でもないのだがフランスの田舎楽団のソリストを聴いているような味わいがある。だからアナクロで腕も超一流というわけではなく音に雑味があり(アンサンブルはそのくらいがいいんだけどね)、地味でもある。全般、素朴で統一されているという意味ではピアノトリオには珍しいまとまりがある。録音は不安定な感じがする。○にはしておく。フェザンティエはシャトー・ラ・バソネリー・・・バソンがバッテンマークに交差したラベルのワイン・・・の醸造家としてのほうが有名か。しょうじき、音的にそれほど陶酔させるような要素はここではなかったけど。

ヴァイオリン・ソナタ(ロルカのためのソナタ)


○ルビン(Vn)スパロウ(P)(fantasy)

感傷的な旋律がヴァイオリンとピアノでひたすら線的に絡むという、プーランクらしい独特の「世俗美」が最初から最後まで貫き通される。マンネリズムの中に点描的にたち現れる感傷はそのすべてが歌謡的な旋律からきていることは言うまでもないが、やはりこのプーランク的な和声変化は世俗的だろうがどうだろうが感情を動かされざるをえない。このコンビはそういう意味で言うとやや感傷を排したようなところがあるが、雄弁であり、それゆえ少し皮肉な調子が聞き取れるのが面白い。曲的にはかなり簡素ではあるが、こういう平易な「横の音楽」こそセンスを問われる。この演奏にはセンスがある。○。

歌劇「カルメル派修道女の対話」

○サンツォーノ(サンゾーノ、サンツォーニョ)指揮ミラノ・スカラ座、ゼアーニ、ジェンチェル他(Legendary Recordings)1957/1/26初演LIVE

何とも後味の悪い歌劇だが、キリスト教ミステリー流行りの昨今題名で食いつく人もいるかもしれない。長いし言葉の問題もある(これはイタリア語版)ので音だけでは何とも楽しみ(?)辛いところもあるが、劇場の生々しい実況録音として、プーランクの目前で繰り広げられた傑作の「今生まれいづる音」におもいはせると、なかなかどうして、例え放送エアチェックで録音最悪としても、歌のひとつひとつの情感の深さ、あらわな劇性に心奪われないといったら嘘になる。演奏も歌唱も朗誦もとにかく見事。総合力がある。最後のギロチンのドラマが録音のせいでイマイチがちゃがちゃしてしまった感もあるが、プーランクの深い宗教観が、様々な色彩・・・意図的に配された中世宗教音楽につながる擬古典的作風からウィーン世紀末やディーリアス、サティやベル・エポックの群小作家の作風など・・・によって巧みに浮き彫りにされていくところに妙がある。ただ模するのではなく確信犯的にシナリオにそい配置され、しかもどれも擬作ではなくプーランクの流麗な旋律と固い和声によってしっかり味付け直されている。とくに歌の旨さはプーランクならではの真骨頂だろう。スカラ座はそれを的確に捉え熱気をもって応えている。なにぶんかなり聞きづらい録音だし断片的には後日の録音も遺されているので無理して聞く必要はないが、デルヴォー以外にいいものがない、と嘆くなら聞いて損はしない。○。

○デルヴォ指揮パリ・オペラ座管弦楽団・合唱団、デュバル、クレスパン他(EMI)1958/1・CD

内容的に非常に重い曲で最後の断頭台のシーンまで聞きとおすのにはかなり体力の要るフランス派では特異な作品ともいえる。デルヴォの暗く感情的な起伏の織り交ぜられた表現できくと尚更そのスケールとどうしようもない結末に頭を抱えたくなる。古くより名盤で知られたもので殆どこの盤しか知らないという向きも多かったのではないか。録音はモノラルでややくぐもっている。とにかく、疲れた。。しかし名演だと思う。

グロリア

○アディソン(SP)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団他(DA:CD-R)1961/1/21初演live

ミュンシュらしい力強く単純なアプローチで、プーランクの宗教曲というともう少しあくの抜けた透徹した表現を求めたくなるが、これはこれでわかりやすい。聞き慣れた賛美歌詞がロマンティックな旋律をつけられ高らかに歌われる、この曲の世俗性がいい意味で引き出された演奏。○。
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フランツ・シュミット (2012/3時点でのまとめ)

2012年04月13日 | Weblog
フランツ・シュミット

<1874-1939、オーストリア。モラヴィア系。ウィーン音楽院で作曲とチェロ、オルガンを学ぶ。1896年宮廷歌劇場のチェロ奏者となり、1910年ウィーン音楽院ピアノ科教授、25年には院長となる。チェリストとして知られたがピアノ演奏にも長け37年の引退まで活躍した。数々の演奏経験に基づき多彩で歌謡性に富む作品を残しているが、同時代の新しい音楽に対し、個性的であるものの後期ロマン派に止まる保守的な作風とみなされたために、マーラー再評価の波が波及する最近まで忘れられた作曲家となっていた。今では節度ある実験性を秘めたマーラーの流れをつぐ最後のロマン派作家としてそれなりに評価されている。若い時期にブラームスとブルックナーの双方より公的・私的に教授を受けたともいわれ、またシューベルトやリヒャルト・シュトラウスの影響も色濃い。代表作は4曲の交響曲と歌劇ノートルダム、オラトリオ7つの封印を持つ書、ピアノ五重奏曲など。>


交響曲第1番

ハラツ指揮ブダペスト交響楽団(marcopolo)CD

ブルックナー初期交響曲を歌謡曲で煮染めたような曲だが、陰りのない音楽には魅力がある。だがここではややオケの力に難があり、弦楽器の薄さはカバーしきれるものではなかったようだ。各声部剥き出しで対位法的パズルを組み立てて行く、指揮の手腕はなかなかのものだが田舎オケの印象、またウィーンらしい表現の欠如は否定できない。平坦だ。無印。

交響曲第2番

ミトロプーロス指揮ウィーン・フィル(M&A)1958/9/28LIVE

音が悪い。それに演奏面のばらつき具合を加えて、いっそかなり穴の多いCDといわざるをえない。同曲の真価は現代の、技術的に”おしなべて”水準を保ったオーケストラにより味わうべきだ。リヒャルト・シュトラウスの贋作をアマチュアオケが演奏したといった趣。とくにソロ楽器がはちゃめちゃ。・・・やる気が無いのか?練習不足には違いない。弦楽器も鄙び過ぎ。

○カール・クリッツ指揮シラキュース交響楽団(DA:CD-R)1969/12/11live

珍しいライヴ。クリッツはこのブルックナーの流れを汲む末流ロマン派交響曲作家の代表格たる作曲家の弟子である(カラヤンも学んでいるが演奏記録は限られている)。シェーンベルクと同い年でありながら文学性を帯びた表現主義的前衛性を前面に出すことなしに、あくまで純粋な音楽としての技巧的先進性を追及した理論家でもあり、保守的とみなされるのは主にいかにもウィーンの古きよきロマン性をかもす主題、ワグナーからの流れをくむ自由でありつつ耳心地いい和声によるものであって、分厚いオルガン的音響と耳に捉えられないくらい細かな機構の、うねるように変化し続ける複雑な様相、既存のロマン派交響曲に囚われない有機的な楽曲構成への挑戦が新古典主義の堅固な構造と組み合っているさまはブラームスの流れをも汲んでいることを示している。

死後、ナチス協力者の汚名が晴れてのち少しずつ認められていったが、この人には華々しい使徒がいなかったのが不幸であった。クリッツも華々しいとは言えない。少数の室内楽やオラトリオを除けば演奏機会は少なく、やっと10数年前ヤルヴィや大野氏が注目し演奏録音したものの、今も余り脚光を浴びてはいない。正直前衛が受けない時代に何故この絶妙な立ち位置の作曲家が取り上げられないのか理解に苦しむが、易い聞き心地に対して(ウィーンの作曲家らしいところだが)声部剥き出しだったりソリスティックでトリッキーな部分の多い比較的演奏が困難な楽曲であることは大きいだろう。チェロの腕は有名であり、職業演奏家としてマーラー時代を含む(マーラーを嫌ってはいたが受けた影響は指摘されている)ウィーン国立歌劇場オケの主席をつとめていたが、弦楽アンサンブルに対するけっこう厳しい要求がみられ、クリッツが生涯育て上げたこのオケにおいてもばらけて辛い場面が多い。同時代を知っている演奏家によるライヴ録音はミトロプーロスとクリッツのものだけだそうだが、分は悪いと言わざるを得ない。

解釈が生硬に聞こえるのもオケが厳しいせいかもしれないが、ともすると旋律追いになって完全にブルックナーの和声と旋律だけで出来上がった単純な交響的大蛇に聞こえてしまう曲を、構造面をかなりクリアに浮き彫りにしようとしていて、立体的なつくりがよく聞こえる。2楽章の中間部、ハイライトたるべき魅力的なワルツ主題もそれだけが浮き立つのではなくそこを盛り立てるための内声部の明快な組み立て、魅力的な和声変化の鮮やかな表現にクリッツの意図は汲み取れる。けして指揮者としての腕があるようには聞こえず学究肌に聞こえる、これは結局シュミットが使徒に恵まれなかったということに繋がることだが、それでも、数少ない演奏の一つであり、晩年のクリッツの境地を知る資料ではある。録音がかなり辛い。○にはしておくが。

○ラインスドルフ指揮ウィーン・フィル(ANDANTE)1983/10/29LIVE

ラインスドルフ晩年のライヴである。ウィーン生まれの指揮者にウィーン生っ粋のオケ、これ以上はない組み合わせだろう。ウィーンっ子作曲家フランツ・シュミットの2番にはミトロプーロスがやはりウィーン・フィルを振ったライヴ録音が残っているが、はっきりいって粗雑な出来だった。この盤は状態のいいステレオ録音だからミトロプーロス盤よりはいくぶん恵まれている。半音階的で複雑な一楽章序奏~第一主題(お決まりだが終楽章末尾で再現する)は木管、弦の音線が錯綜し非常にまとめにくいところだが、これは録音の勝利というべきか、まずまず聴き易い。ラインスドルフは職人的で個性を押し出してくるタイプではない。また曲の特性を理解してその曲にあった解釈を付けるといった小技を持たず、一種即物的な感覚で流すところがある。これらは私ははっきり言って苦手なのだが、フランツ・シュミットのような濃厚な音楽に施されると「臭み」が抜けてすごく聴き易くなるのだなあ、と感心した。ただ、フランツ・シュミット特有の艶やかな旋律、とくに2楽章の舞曲表現があまり浮き立ってこずちょっと不満。しかしウィーン・フィルの音色は美しく終始魅了する。リヒャルト(ワグナー、シュトラウス)あたりからの影響を窺わせる半音階的な音線、洒落た転調がしっかり表現されており、フランツ・シュミット特有の魅力を引き出すのに成功している。それにしてもウィーン・フィルでよかった。これがシカゴあたりだったらちっとも面白くなかったかも。ラインスドルフと私は相性が悪いが、この珍しい演奏はある程度認めざるを得ない。○

交響曲第3番(1928)

○ヤルヴィ指揮シカゴ交響楽団(CHANDOS)1991/1/30-2/3LIVE
◎ヤルヴィ指揮ベルリン・フィル(放送)LIVE

フランツ・シュミットはシェーンベルクと同い年である。しかしオーストリアで活躍した作曲家としては前衛の闘士シェーンベルクとまるで対照的な位置づけにある。即ちワグナー、ブルックナー、マーラーを継承した後期ロマン派の最後を飾る保守的作曲家であった、ということである。ブルックナーの弟子であったことはよく知られ、そのスコアはブルックナー的な分厚いオルガン音響を頻発させる。また作曲家以前に演奏家であり、ウィーン国立歌劇場でチェロのトップを張ったりなどしていた(そのときマーラーの薫陶を受けたと思われる・・・但し当人はマーラー嫌いを公言していたが)。第3番はフランツ・シュミットの交響曲としては一番規模が小さく、古典的なアンサンブル(とくに弦楽合奏)に主眼を置いた、とくに保守的な作品である。また、終始親しみやすい旋律が鳴り続ける歌謡性が特徴的で、シューベルトの影響を指摘されるところだが、それもそのはず、アメリカのコロンビア社が主催したシューベルト記念賞にエントリーしたもので、作曲家自ら「シューベルトの精神により書いた」と語っている。そのときの賞はスウェーデンのアッテルベリ(!)が獲得したが、オーストリアのエントリー曲の中では傑出したものとして認められた。慎ましやかではあるがモダンな響きがし、とても構造的だがスマートで格好いい響きを産み出すこの作品は、長く聴き続けていかれるべきものである。あまりに自然に使われておりちょっと聴きわからないが、旋律にはジプシー音楽なども取り入れられている。スケルツォから終楽章への流れは洗練されたブラームス。フランツ・シュミットの作ったもっとも解かり易くもっとも優れたフィナーレだろう。ヤルヴィはここがとても巧い!フルートの牧歌的な旋律から始まる陶酔的な1楽章はかつてベルリン・フィル定期で演奏されたのと殆ど変わらず、とてもやわらかく暖かい雰囲気をかもし出色だ。2楽章アダージオはこの曲の中では一番晦渋なものであるがさすがヤルヴィ、聞かせ所のツボを押さえた要領のいい演奏だ。3、4楽章は最後まで緊張感がもたない感じもした(ベルリン・フィルのときは強力な推進力が最後まで維持され希に見る名演になっていた)が、目下現役盤の中ではもっとも優れた録音といえる。○ひとつ。

○ペシェク指揮スロヴェニア・フィル

なかなか熱い演奏だ。技術的には厳しいところもあるが、指揮者演奏者共々共感を持ってこの曲を演奏している。○。,

交響曲第4番(1933)

◎メータ指揮ウィーン・フィル(DECCA)
○モラルト指揮ウィーン交響楽団(PHILIPS)

シェーンベルクと同い年のウィーンの作曲家兼チェリスト。ブルックナー譲りの構成力とブラームス譲りの楽器法といったらいいんでしょうか、この二人共に公的私的に師事していたという変り種です。ウィーン国立歌劇場で長く主席奏者を勤め、マーラーの下で苦しんだせいか「マーラー嫌い」を自認していたそうですが、明らかにマーラーを髣髴とさせるところがあります。リヒャルト・シュトラウスの影響も旋律なんかにかなり色濃いですが、もっとすっきりしていて聞きやすい。中でも幸福感に溢れた第3交響曲、大推薦です。2番など構成に実験的な要素の有る曲なのですが、3はあくまで弦楽合奏メインで、木管楽器のソロがからむ程度。金管その他は殆ど目立ちません。半音階的で晦渋な2楽章を除けば、ひたすら美しい旋律がぶあついハーモニーで奏でられてゆく。時折低弦の刻むリズムはブルックナーのエコーでしょうか。この人の交響曲は細かく分析すると結構実験的なハーモニーを使ったり構成を工夫したりしているらしいのですが、平易で前時代的で、3番は中でも最も平易。録音が少ないのですがヤルヴィの全集が、多分国内盤でも出ています。本当はベルリンフィルを振ったライブが超名演で、弦楽アンサンブルの見せ場と木管ソロのふんだんに盛りこまれた同曲にうってつけだったのですが、ラジオ放送だけでCD化しなかったので残念です。

そして4番。それまでの交響曲とはかなり異なっています。殺伐とした気分の中に浮き沈みする美しき幻想。想い出。冒頭の印象的なトランペットソロから、只事ではない深い思索に引きずり込まれていきます。これはメータ指揮ウィーン・フィルという熱演盤があるので、ヤルヴィは次点と考えてます。古いところではモラルト(リヒャルト・シュトラウスの義理のおい)指揮ウィーン交響楽団の演奏がフィリップスにありますが、泣けます。シュミットは直前に一人娘を亡くしました。終盤でメロディが破壊され、冒頭のペットの鎮魂歌に戻るところなんて、まさに慟哭といった感じです。マーラーに比べればいくぶん即物的な素直な感情の表出といったところでしょうが、感覚的にはマーラーの10番あたりに近い感があります。フランツ・シュミットには名旋律がいくつもありますが、4番のペットで提示される陰うつな通奏旋律と、中間楽章で突然始まる夢見るようなワルツ(マーラー的!)のロマンティックな旋律は忘れ得ない強い印象をあたえます。モラルト盤はワルツが素晴らしい。ブルックナー同様オルガン用にも宗教色豊かな作品をいくつも残したフランツ・シュミットらしく、とくにこの4番は分厚いハーモニーが目立ち、聞きごたえの有る音楽に仕上がっています。ウィーン世紀末の音楽好きなら、これは世紀末から四半世紀過ぎたあとの作品だけれども、絶対外せない曲です。この機会にぜひ。但し、やはりウィーンのオケでないとこの曲の良さはなかなか出ません。

○ウェルザー・メスト指揮LPO(EMI)CD

若々しい演奏ぶりで楽しめる。暗い背景をもった曲だがいささか意識的な構成をとりすぎていて、その計算が情緒的な内容と相容れないように感じる。ウィーンのオケを想定して書かれているだけにその音色や表現に頼った部分もあって、マーラー的ないしブラームス的な美観は他のニュートラルなオケでは地味で引き立たないものに収束してしまうが、ここでは突き放したようにはつらつとして進むのがかえって、曲の出自を意識させずにただ音の流れを楽しませることに集中させてよい。オケの上手さにも指揮者の適性にもよるだろう。○。

○ウェルザー・メスト指揮ウィーン・フィル(aulide:CD-R)1998live

なぜメジャーにならないのか不思議なフランツ・シュミットのシンフォニーだが(ブルックナーを凝縮しブラームスのような理知性とマーラーのような歌謡性を持ち込んだウィーン風味たっぷりの作風、といったらいいのか)、楽天的でのどかな雰囲気が持ち味でありそういったところが「世紀末」を越えた現代人には余り響かないのかもしれない・・・この4番を除いては。なき妹に向けた嘆きは両端部のトランペットソロにより表現され、ワグナーふうの濃厚な響きを半音階的にうねらせながら息の長く暗さを帯びた旋律を接いでいく。だが決して晦渋ではなく、印象的な美しい旋律ばかりである。スケルツォはまさにブルックナー=マーラーの影響を感じさせるがレントラーのような鈍重なものではなく俊敏できびきびと動く。同年のシェーンベルクにくらべ追求は甘いがこういった小技がとても緻密にこめられている。だから難しさもあろう。メストのVPOデビューは4年前この曲でありLPOと正規録音を行ったのもその頃である。この演奏はしかし円熟などしておらず、咳き込むようなテンポと機械的なまでの精緻さをもったドライヴぶり、ラトルを熱くしたような、小ぶりでしっとりした情趣がないながらも駆け抜ける足取りの軽やかさと確かさが印象的だ。そこにかつての姿を思い出させるウィーン・フィルの赤銅色のひびき伸びやかなフレージングに感動をおぼえる。両者の相性だろう。解釈的にはライヴ的な崩れがありながらもそこがいいという見方もできる。物凄くお勧めではないが一度聴いていい演奏。録音は悪い。マイク一本でステレオ的な拡がりが皆無の放送エアチェックもの。○。

歌劇「ノートルダム」

~1幕への前奏曲、間奏曲、謝肉祭の音楽


○ハラツ指揮ブダペスト交響楽団(marcopolo)CD

この組み合わせないし、ヌルい間奏曲のみ演奏されることが多い。楽曲は1910年代のウィーンの楽壇を彷彿とさせる実にぬるまゆい感触のもので、同時代の非前衛の作曲家たちとほぼ同じような、いわば末流ワグナー的な世界を旋律美とともに描き出している。メロディでいえば間奏曲第一部など印象的ではあるのだが、フランツの理知的な特質がはっきり出ているのは謝肉祭の音楽で、起伏にとんだ内容となっている。演奏はやはり弦が弱すぎる。前奏曲は聴くにたえないところがある。一方でブラスは安定しており、木管は棒吹きの感もあるもののまずまずである。謝肉祭の音楽がなかなかいいので○。

クラリネット五重奏曲ハ長調

○ヤノスカ(Cl)ルソ(P)他(marcopolo)CD

正式名称は「クラリネット、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための五重奏曲」であり、内容的には寧ろピアノ五重奏曲と言ったほうがいい。クラリネットは中音域で他の弦楽器同様平易なフレーズをユニゾンで吹き継いでいくなど余り目立たず、かたやピアノは最初から最後まで弾き通しである。2楽章間奏曲などピアノソロのみによるものでロマンティックで美しい。とにかくフランツはウィーンの作曲家としてブルックナーの影響以上にブラームスの影響を受けているようで、それほど構造性を擁せずいわばブラームス弦楽五重奏曲のようなあからさまな後期ロマン派的語法を引用しつつ、レーガーを薄めたようなかんじの和声の適度な新鮮味によって、腐臭がわくのを避けている。時間上はブルックナー的で全曲の演奏に1時間を要するものの、時間を感じさせない「薄さ」があり、環境音楽的に「邪魔しない音楽」という役割をよく果たしてくれる。フランツの室内楽はいくつかあり、クインテットは三曲あるがこの曲が旋律の魅力もアンサンブルのこなれ具合も丁度よく、またこの盤の演奏が室内楽としてとてもうまくできており、ソリストの妙な突出も技術上の弛緩もなく楽しめる。○。現在はamazonでもmp3配信されている。

ピアノ五重奏曲

バリリ四重奏団、デムス(P)(WESTMINSTER)

オラトリオ「七つの封印を持つ書」

ミトロプーロス指揮ウィーン・フィル、ギューデン、ヴンダーリヒ、デルモタ(SONY他)1959/8/23LIVE
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ポンセ (2012/3までのまとめ)

2012年04月12日 | Weblog
ポンセ

ヴァイオリン協奏曲


○シェリング(Vn)バティス指揮ロイヤル・フィル(SEGUNDA)CD

メキシコの作曲家で世代的にはストラヴィンスキーと同じあたり(同じ1882年生まれ)だが戦後すぐ(48年)亡くなっている。イタリア風のからっとしたラテン感覚もあるがそれ以上に印象派後のフランス近代音楽の影響が強い。ことさらに民族性を誇示しない作風はとても間口の広い聴き易いものだ。この珍しいヴァイオリン協奏曲も20世紀のロマン派ヴァイオリン協奏曲の常道をいっている面白い曲だ。民族音楽に基づく「特殊な」部分は主としてリズムに留め、響き的にはシマノフスキの2番やバーバーの協奏曲を想起する割合と耳馴染みの良い(でも19世紀ロマン派より全く自由な)ものを使っている。特筆すべきは3楽章で、これはまったく新しい感覚だ。冒頭より無調的な硬質の走句が奏でられ、清新な聴感をあたえる。リズムも南米的ではあるがデュカス譲りのフランス感覚が安易に民族音楽の翻案に堕することを避けている。トレモロの用法にこの作曲家の本領であるギター音楽の残響を聴くこともできよう。技巧は駆使されているが物凄く難しいわけではなく、特殊奏法のようなものも無い。シェリングはやや怪しい部分もあるもののおおむね美しく歌い上げている。この曲を偏愛しレパートリーと
していたそうだが、シマノフスキの2番も愛奏していたことも考えると、清潔で美しい抒情を歌い上げるような楽曲を好んでいたのだろう。オケがロイヤル・フィルのせいか非常に透明感があり、バティスならではの爆発は無い。旋律性がそれほど強い曲ではないためちょっと聴き掴みづらい感もあるが、聴き込めば楽しめると思う。○。ステレオ。

○シェリング(Vn)クレンツ指揮ポーランド国立放送交響楽団(PRELUDE&FUGUE)1958LIVE・CD

ポンセは南米の匂いがあまりしない作曲家である。透明感のある響きやロマン派的な生臭さの薄い清潔な作風が、これも必要最小限に昇華された民謡旋律とあいまって聴き易い世界を繰り広げる。この曲でいうと3(終)楽章はそれまでの楽章と違い民謡ふうのリズムが目立つともするとミヨーっぽくなりがちな楽曲だが、シェリングとクレンツは爽やかにすっきり演奏して見せている。こういう演奏のほうが長く飽きずに聞けるだろう。曲の面白さを歪めずによく引き出している。独特のコード進行が鮮やかに表現されていて面白い。ここでいう「独特」は新奇という意味ではないので念のため。素直に聴き易いです。また、1楽章のカデンツアは模範的なものとして聞き物。○としておく。ステレオとあるがモノラル。

○シェリング(Vn)ハイキン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(AKKOPA)1950年代・LP

シェリングの愛奏曲であるが同じ愛奏曲シマノフスキの2番に似た曲想にラテンアメリカのリズムと旋律が僅かに織り交ざる抽象的な作品である。この盤、かつては異常な高額盤だったが確かにバティスのものより抜群にすぐれた演奏ぶりである。シェリングの真骨頂を聴く思いだ。この曲によくもまあそんな心血注ぐ演奏振りを・・・と思わせる一方には録音のよさがあり、シェリング全盛期の凄まじい、しかし高潔な音が聴ける。高潔といっても無機質ではなく、音が撚れない跳ね返らないとかそういった意味でである。ポンセはわりと最初から最後まで弾き捲りで曲をまとめていて散漫な印象もあるが、シェリングはその音を余すところなく表現し、ハイキンもオケのロシアロシアした部分を抑えてひたすらシェリングのバックにまわっている。演奏的には素晴らしい。しかし、この曲は・・・まあ、好き好きかな。終楽章で初めてメキシコってかんじになる。シェリングはほんと珍曲好きというか、まあ、縁のある作品にはしっかり応える誠実さのある人だったのだろう。シェリング全盛期の力量にちょっと驚いた。○。他に2記録まで確認。

○シェリング(Vn)ブール指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(EINSATZ/ODEON)1951・CD

シェリングに捧げられ有名ヴァイオリニストでは殆どシェリングしか弾いてないんじゃないかというポンセのコンチェルトである。既に書いてきているとおりメキシコ人になったシェリングは各地で親友の曲を演奏紹介し、また録音しており、時期やバックオケによって印象が異なる。だがポンセは基本当時の現代作曲家で、終楽章に露骨にメキシコの民族主義的なリズムが顔を出す以外は比較的冷めた機械的な書法で無駄なく「無難に前衛な」音楽を描いている。けして無理のない、でも簡素ではない音楽は新古典主義の気風を受けていることを裏付けているが、あとはソリストの表現力ということになり、その点でいうと後年よりもこの若きシェリングのほうが線が太くはっきりした情感ある音楽を作り上げており、モノラルではあるが一聴に値すると思う。バティスのものよりはこちらを推したい、それはオケがすばらしく「現代的」で、ブールの冷徹な技術がコロンヌ管の透明感ある音を利用して、この曲をローカリズムから脱却させているという点でも言えることである。

大曲感が強く、だらだらとはしないが聴くのには少々勇気がいるかもしれない曲であるものの、凝縮されたようなモノラルだと寧ろ聴き易い。シェリング好きなら若きシェリングがけして開放的なスケール感を持ち、鉄線のような音でやや技巧的にぎごちなくも美しく表現する人であったのではなく、同時代の巨人的ヴァイオリニストに匹敵する技巧を兼ね備えある程度骨太に滑らかに連綿と物語を綴ることができていることにちょっと驚きがあるかもしれない。特徴としてある高音の音響的な美しさが既に現れている、しかし禁欲的で無味無臭でもない、そこがポンセの立ち位置と合致したところをブールがうまく演出している。倍音を多く取り込むアナログ盤からの板起こしであることを明言しており、それゆえ僅かなノイズは避けられず(但し板起こしが原盤ディジタル起こしを上回る見本のような復刻状態ではある)○にはしておくが、シェリングの出来立てホヤホヤのようなポンセに出会えるいい機会。在庫稀少とは単に僅かしか生産していないだけなので焦ることはない、機会ができたらどうぞ。それにしてもシェリングはステレオ以降の印象が強く、モノラル期はこんなふくよかで自然な面もあったのかと驚いた。
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ピストン (2012/3までのまとめ)

2012年04月12日 | Weblog
<(1894-1976)ハーバード卒ブーランジェ門下のアメリカ・アカデミズムを代表する作曲家のひとり。多くの作曲家同様新古典主義の影響を受けている。構成力のある作風で知られる~「クラシック音楽作品名辞典」より。>

交響曲第2番


ロジンスキ指揮NYP(DA:CD-R)1945/1/21live

後期ロマン派的な重厚な音と半音階的旋律の多用、そこにあきらかにミヨーを思わせる楽天的な書法が織り交ざり、少々分裂症的な印象をあたえるが、全般に無難で、その場では楽しめるが後に残らないかんじはある。コープランドのように世界を確立することもなく中途半端なところで、ロジンスキのいつものテンションももっていきようがないように感じた。楽曲構成的にも無難であり、アメリカン・アカデミズム少壮の意気を示した以上のものは感じない。曲の凡庸さ(好きな人は好きだと思う)とやや短くこじんまりとしてしまった曲であり、ロジンスキはかなり厳しく統制はしているものの演奏にそれが楽曲以上の価値をあたえていないように思った。録音はいつものロジンスキ・ライヴ並。無印。

○ウッドワース指揮ボストン交響楽団(プライベート?/PASC)1944/4/8・SP

現代音楽シリーズとして出された無名レーベルのSPらしいが、曲が楽しい。コープランドに中欧的な構造を与えたような充実した保守的作風、リズム押しの多かった時代に対し単純な三拍子を分割し組み合わせを変えて変化をくわえ、ほどよい。何人かモデル作曲家を指摘できるが曲はいい、他より陰りがないのがいいから、快楽派閥にはオススメだな。演奏はさすがのボストンである。○。

交響曲第3番

○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R/ASdisc)1948/4/13live

ナタリ・クーセヴィツキー夫人の思い出に、という献呈もの交響曲で、アカデミズムの権化みたいなピストンの、いつもの交響曲であり、陰鬱な主題のうねる和声に揺らぐさまから、終楽章急に祝祭的リズムという形式。ひときわレクイエムの暗さが、悪い録音もあいまって聴く気をそぐが、クーセヴィツキーの単純だが求心的な棒は音楽を弛緩させず、いちおう聴きとおすことができる。ASdiscで出ていたと思う(バーバー2番とのカップリング)。○。

交響曲第4番

○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(valis,monopole:CD-R/naxos/COLUMBIA)1954/4/15

ミネソタ大学創立100周年記念作で嬉遊的雰囲気に満ち演奏機会も多いほうである。見事といっていい響きとリズムのアカデミックな書法を駆使した作品だがコープランドを思わせる民俗主題も織り交ざり、いや、何より冒頭ミヨー的な牧歌主題(N.ブーランジェの息がかかると皆ミヨー的になるようだ)からしてもう引き込まれる魅力に溢れている。この人のメロディは(当たると)とても素晴らしい。ほとんど曇りなく進む音楽というのもピストンの大曲には珍しいのではないか。演奏も録音も一切の気分の途切れも演奏上瑕疵もなく、こういう指揮者によってこそ魅力の引き出されるスコアを書いていたんだなあ、と思う。naxosはこちら>http://ml.naxos.jp/album/9.80239 状態よりmonopoleは同じ音源と思われる。

交響曲第6番(1955)

○ガウク指揮ボリショイ歌劇場管弦楽団(MELODIYA/brilliant)CD

珍しい取り合わせだが、このイギリスで言えばアルウィンのような作曲家の作品は、旋律はややふるわないが(というか独特で、私には「歌」に聞こえないものもある)、構造は極めてしっかりしており、なかなかに中身が濃く聞きごたえがある。この演奏で聞くとアメリカ的な要素がそれほど際立ってこないため、却って色眼鏡をかけずに聞ける。4楽章制で古典的な構成だ。新ロマン派と新古典派の中間点のような感じで、2楽章など同時代のタカタカ系作曲家・・・ショスタコーヴィチやブリテン、コープランドら・・・に通じるが、清々しくクセが少ないのが特徴的。溯って1楽章はやや半音階的だがハープとヴァイオリンの清々しいひびきが救いになっている(こういう楽想はアメリカらしい。今で言えばジョン・ウィリアムズの映画音楽か)。3楽章の悲歌はやや常套的な印象があるが終楽章は面白い。半音階的で晦渋な部分もあるけれども響きは美しい(まあ、この時代にしてみれば常套的)。独特の節回しの旋律はいくつもの特徴的な音形に邪魔されつつも派手な音響の中にその存在感を強く示している。全般、優等生的な作品だがガウクあたりがやると力感に満ちて聞ける曲になる、といったところ。○ひとつ。ボストン響75周年記念委属作。

○メイズ(Vc:3楽章)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1956/3/12,14・CD

アメリカの交響曲に共通する透き通った響きをもった楽曲ではあるけれど、とくに2楽章での多数の高音打楽器の導入や終楽章のフーガにはヒンデミットの影響が感じられ、意外と構造的である。この人の旋律はわかりやすいのかわかりにくいのかわからない独特のクセがあるが、1楽章ではその旋律の魅力?を存分に味わえる。個人的には経過句的に挿入された、弦の最高音の伸ばしをバックに展開されるハープ・ソロの美しい響きに惹かれた。言葉で書くとヒンデミットの「ウェーバー変奏曲」2楽章のような印象を与えるかもしれないが、寧ろバーバーやコープランド的なもっと素直なものを感じる。また、終楽章の主題に見られるようにちょっとストラヴィンスキー的な特殊なリズムの導入も面白い(2楽章のリズムもそうだが)。3楽章がややルーセル的な緩徐楽章でわかりにくいかもしれないが、マーラーと比べたらどっこいどっこい、というレベル。全般、ミヨー的な多様さを含みながらもきっぱりとした形式的な楽曲に仕上がっており、ミュンシュは複雑な場面もしっかり振り抜けて隙のないところを見せている。繊細な打楽器アンサンブルやリズム表現の力強さはばっちりだ。この曲は1955年ボストン交響楽団創立75周年記念の委属作品としてかかれたものである。きちんと4楽章制をとっているが、短く全曲で30分は越えない程度。(2005以前)

ピストンはナディア・ブーランジェ門下のバリバリのアメリカ・アカデミズムの作曲家にもかかわらずドイツ・オーストリアふうの形式主義的な作風を持ち、半音階的な音線を多用し重厚な響きをはなつのが特徴的な作曲家である。この作品は両端楽章にコープランドらの舞踏表現に近い垢抜けた力強さとけたたましさを持ち合わせていながらも、全般に後期ヒンデミットの影響がじつに顕著であり、ピストンの楽曲に聴かれる堅牢な構築性の中にヒンデミットの血が脈々と流れていることは確かだと改めて思わせられる。ヒンデミットと異なるのはその主として旋律表現や変容方法にみられる「ハリウッド的な」通俗性だろう。聴き易い半面そういった臭みもある。マーラーすら想起させるロマン的感傷を孕む3楽章アダージオの木管や弦の用い方など全くヒンデミット的である。チェロソロが印象的だがそういった端のほうにはピストンの独自性は感じ取れはする。

ミュンシュはヒンデミット指揮者では全くないがその血にドイツ・オーストリア圏のものが含まれていることは言うまでもなく、フランス派を象徴するような指揮者でいながら「本流のフランスではない」アルザスの力強い音楽性を前面に押し出し、結果アメリカでも中欧色の濃いボストンでその活動の頂点を極めることになった異色の指揮者である。ドイツ音楽を得意としていたのもむべなるかな、こういった底からくる力強さとオケの技巧を些細ではなく明確にひけらかす場面を多く兼ね備えた楽曲にはうってつけである。曲がむしろオケや指揮者にすりよったものなのであり(BSO設立75周年記念依属作品)、しっくりこないほうがおかしい。ピストンは聴き易い。しかしそれは飽き易いことも示している。ミュンシュを聴けばもう他はいらない、とまでは言わないが通俗音楽のように「使い捨てられた」オーダメイド作品としてはこれだけ聴けば十分だろう。力感やアンサンブルの堅固さにかけてはこれを覆すほどのモチベーションをもった団体はとうぶん現れまい。(2007/2/2)

◎ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(KAPELLMEISTER:CD-R)1960/5live

録音はエアチェックものとしてはほぼ満点である。気になる瞬断はあるものの(気になる人はとても気になるだろう)ステレオ録音でかつ客席雑音も殆どなく、チャネルは時代柄バラけているもののそのために却って拡がりと臨場感をもって聴く事が出来る。録音でマイナスにしようと思ったがやはり凄い、さすがライヴだと感じたのは表現のよりアグレッシブさと端整なほど整理された響きの美しさの融合である。様々な同時代もしくは前時代の作家の影響を受けている作曲家だが、2楽章の緩徐部など2箇所ほど聴かれるハープを主体にした典雅なパッセージは、フランス的な観点からすれば決して個性的ではないがこの楽曲内では鬱なものと躁なものの極端に交錯する中で強い印象をあたえるものになっていて、ミュンシュはさすがはラヴェル指揮者でならした人である、ここの切り替えが鮮やかで非常に美しい。それほど長くない、作曲動機的にもディヴェルティメントふうの合奏協奏曲に近いものであるが、それだけにオケに余程のアンサンブル能力がないと聴けたものではなくなる。終楽章、ボストンの分厚い弦楽器の一糸乱れぬ演奏振りには衝撃を受ける(2楽章くらいならまだ疲れもないからありえるのだが)。3楽章の特異性がひときわきわ立っていることにも気づかされた。他の楽章が性格別けされた「形式的な交響曲のパーツ」であるのに対して3楽章だけは暗い旋律と感傷的な和声に彩られた(このひとは時折ウォルトン的な清清しい和声展開ではっとさせることがある)極めて浪漫的な楽章になっており、ミュンシュの抑制のきいたしかし力強い音表現によってきくと、ピストンがボストンからの委属をうけたさい、この楽章だけは自分の個人的な思いを篭めたように思えてならない。ああ、こういうふうに作曲家の内面まで入り込めるほどに「届いてくる」演奏というのはそうそうない。ミュンシュは自分の楽団のための作品に素晴らしい演奏を施した。このプログラムのメインは幻想であり、皆それのためにこの盤を手にするのだろうが、私はこの曲に一歩進んだ興味を抱かせてくれたこの部分に一番魅力をかんじた。録音部分の瑕疵はちょっとおまけして◎。演奏の綻びの余りのなさに、最初はスタジオ盤の捏造音源かと思った。ミュンシュは正規スタジオ録音にも平気で唸り声とか入れてくる人だったし。

○ミュンシュ指揮ボストン交響曲(altus)1960/5/5来日公演live・CD

定番の演目であり録音もいくつか存在する中でこれが取り立てていい演奏とは言えないが、スタジオ録音を除けばいずれも悪音質のモノラル録音であるのに対しこれはステレオで明快なライヴ録音である点でとても価値がある。改めて「いい音で」聴いてみると意外と腰が軽く拘りのようなものが感じられない。この近代アメリカ交響曲を体言するような、同時代音楽のアマルガムから枠組みだけ取り出して、「アメリカ的な響き」を鳴らしてそつなく進めていく。どこかよそよそしく若干ぎすぎすした感じもするのは国外ツアー公演だからだろう。演奏精度はそれにしてはそこまで高くはないのだけれど。○。CD-R盤との同一性は不明。

~4楽章

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(放送)1956モスクワlive

これは近年一度出たと思うのだが(そのとき記事書いたと思い込んでいた)現在はwebに出回っており聴くことが出来る。アナウンス込みの放送二回分で一回目は米ソ両国歌から始まり、エロイカ3番の1,3,4楽章、二回目はピストン6番終楽章、ダフクロ2組と、私にはよくわからないアンコール一曲(古いぽい)の組み合わせ。同曲全曲ライブは1960年6月のニュージーランド録音が残っているそうだが、音源化は不明。しかしぜひ聴いてみたい魅力に溢れており、この演奏で同曲に一時期ハマったことをお伝えしておきたい。いつものピストンの、ヒンデミット的対位法を駆使した立体的構造は極めて見通しよく、何より旋律の美しさと管楽器の輝かしさに尽きる楽章。もちろんここにいたる楽章は暗いわけだが、でもいいのだ。コープランドよりもアカデミックだが、それは他国にはない「アメリカ・アカデミズム」である。フィフティーズの舞い上がる気分すらある(言いすぎ)。演奏自体、ミュンシュにしては手堅く踏み外さない面は否定できない。スピーチからはリラックスしたムードは感じられるのだが客席反応はどうかという部分もある(いちばん悪かったのはソヴィエト国歌(笑)のときだが)。ただ、ピストンはガウクもやっている曲であり、作風もソヴィエトアカデミズムに似通った部分があるので、受け容れられなかったわけではないだろう。

トッカータ(1948)

○カンテルリ指揮NYP(ASdisc)1955/3/13LIVE・CD

とても躍動的で面白い。はっきりいってまるきりヒンデミットなのだが、ヒンデミット特有の灰汁のようなものが取り除かれ、かわりにアメリカ的なわかりやすさを注入したような感じ。メロディはやや地味で捉えどころのないものだが、悪くない。○にしておきます。カンテルリのリズム感はあいかわらず冴えている。

ニューイングランドの三つのスケッチ

○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1960/2/25LIVE

音による機械工業製品を仕たてるピストンは音響音楽を指向しながらも半端に聴きやすい、からこそ人好きしないアメリカの中庸作曲家の典型。パレーは設計図が透けて見えるような演奏で迫るが、いっそブーレーズくらいのやり方で冷たくアプローチすべきか。○にはしておく。

弦楽四重奏曲第1番

○ドリアン四重奏団(COLUMBIA)1939/9/27・SP

一昔前の中欧の室内楽を踏襲したようなところが気にはなるが、ピストンならではというか、晦渋に没することなく日和ったような楽想を織り交ぜるところは魅力があり、それなりに楽しめる。演奏は達者。3楽章制で短い。○。

ヴァイオリン・ソナタ

クラスナー(Vn)作曲家(P)(COLUMBIA)1939/11/24・SP

駄目曲の見本のようなもので、初期コープランドに余計な中域音をどばっと注ぎ込んだような、限られた音だけを使い同じ和声をひたすら繰り返し綴っていくような、じつに暗い世紀末的駄作。ピストンの垢抜けた部分は2楽章に僅かに垣間見えるのみである。ベルクの初演で知られるクラスナーも現代音楽演奏家という枠に縛られているようなところがあり、よくこんな譜面を読むのも嫌になる凡庸な曲をそこそこ聞けるくらいまで持ってきたなあという感じ。譜面自体も難しくなさそうだけど。無印。
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クレストン (2012/3時点のまとめ)

2012年04月11日 | Weblog
クレストン

<(1906ー1985)イタリア系。同じイタリア出身のオルガン音楽の権威ヨンにオルガンと理論を学びニューヨークの教会オルガニストとなる。39年にグッゲンハイム基金を獲得、作曲家として積極的に活動。アメリカ音楽の典型的な作風ではあるが、親しみやすさの点で自国の聴衆に大きくアピールし当時は非常に人気があった。5曲の交響曲が有名。>

交響曲第2番


ハワード・ミッチェル指揮ナショナル交響楽団(ワシントンDC)(WESTMINSTER)1954初出

うーん。アメリカン。アメリカの20世紀作曲家の典型だ。その道には既にコープランドらが轍をつけているわけで、若干重厚で目が詰まった音楽ではあるが、とっぴなところは何一つ無い。旋律の魅力と単純なリズムの楽しさ、それだけでも十分か。録音が古いので今一つ和声の妙味が味わえないのが残念。ピアノの導入が面白い効果をあげている。無印。

モントゥ指揮NYP(DA:CD-R)1955/11/20放送live

ややオケのデップリ感が出てしまったか。NYPらしい暗く重いロマンティックな芸風がこの曲の半音階的で暗い側面を引き出してしまっている。ストラヴィンスキーのバーバリズムの影響が強い楽曲でもあり、整理して綺麗に響かせればモントゥだからうまくきかせられるはずなのだが、シェフが同じでもタイミングによってはこうも印象が変わるものかと思った。終楽章の激烈な舞踏音楽は確かにNYPの威力が発揮されているがどこか揃わない感もある。何より音がくもって悪い。相対的に無印。

モントゥ指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1956/1/22放送LIVE

モントゥの鮮やかな棒さばきが楽しめるが、曲がなんとも言いようのないもので・・・結局わけがわからない。もっとリズム性を前面に出せば面白かったろうに、この作曲家、大部分を繰り言のような緩徐部で覆ってしまった。名曲とは言い難い。モントゥの奮闘も空しい。演奏の評なのか曲の評なのかよくわからない書き方になってしまったが、いずれにせよ無印。アメリカっぽい曲ではあるけど。

モントゥ指揮オケ名不詳(NYP?)(DA:CD-R)1956/2/24放送live

クレストンは案外人気のあるアメリカ穏健派の作曲家で舞踏要素はコープランドに似ながらももっとアメリカ・アカデミズムに忠実な聴き易さと映画音楽的描写性を持ち合わせており、ハンソンやウォルトンを彷彿とするロマンティックな側面も垣間見せるまさに「アメリカ穏健派」の健全な交響曲を、しかしマンネリズムに陥ることなくけっこう複雑に聞かせることのできる人である。振る人によって曲評価が分かれるであろうことは明確だが、モントゥなどもうまさにうってつけであり、前半楽章の暗い中にも透明感のあるロマンティックなパッセージにはもたれることの決してないドライヴがきいており、舞踏楽章など猛烈にリズムを煽りモントゥらしさ全開のほんとに「クレストンが恐縮するくらい素晴らしい」演奏を繰り広げている。最後は少し失速してしかしきちっと締める曲ではあるが、モントゥはそこも的確にまとめて交響曲らしいまとまりを見せている。バンスタあたりがやったらどうなっただろう?恐らくのるかそるか、ロマンティックな側面をあおりすぎて一部信望者しかついていけないものになったか、リズムがグダグダになり曲自体台無しになったか。強引にミュンシュ的に突き進んだとしても、舞踏が主要素となるクレストンの交響曲においては舞踏伴奏のプロに任せるのが正解だろう。録音はいくぶん新しいが一般的水準からいえば悪い。オケ激ウマ。アンサンブルがここまできちっとかみ合って水際立った丁々発止を聞かせられないと曲の魅力が出ないのはウォルトンなんかもいっしょだが、ウォルトンの難点はスピードを出せないほどにパートを別けすぎているところなんだよなあ。サンフランシスコあたりの新鮮な音にきこえなくもないが恐らくNYPの調子のいいときの音だろう。○。

交響曲第3番

○ハワード・ミッチェル指揮ナショナル交響楽団(ワシントンDC)(WESTMINSTER)1954初出

1楽章が面白い。静謐で精妙な序奏部からぐっと耳を引き付けられる。やがて主部では派手な音楽のはじまりはじまり。弦が刻んでブラスが叫ぶ。近代対位法の教科書通りと言うこともできるが、そのあからさまさが却って魅力を感じさせる。旋律もすばらしい。ハンソンに匹敵するわかりやすさだ。でもあれより余程構造的に書かれていて、変化に富んでいる。緩徐楽章はあまり記憶に残らないが、終楽章の盛り上がりも、終わり方も何度も何度も念を押すような粘着気質、無論音楽自体は新古典以降のものだから決して半音階的で濁ったロマン派音楽とは違う。聴いていて、私はふとウォルトンのシンフォニーを思いだしていた。あの書法に似ている。相互関係があったかどうかわからないが。。ハワード・ミッチェルは作曲家と親密な関係にあったそうで、この録音を聴いて謝辞の手紙を寄せたそうである。ミッチェルはアメリカ国内の活動を主とし、デビュー後ずっとポップスオーケストラを振っていたとのこと。前へ前へ行くテンポ(ときに勝手にオケを走らせてしまうような)はそのへんが関係しているのかもしれない。

舞踏序曲

◎カンテルリ指揮NYP(ASdisc)1956/3/18LIVE

クレストンは生前から、そして今も人気の有るアメリカの作曲家だ。聞く人が聞けばその作風はショスタコーヴィチを予言したとさえ言い切れるらしい(年齢はいっしょ)。私には清々しいがせわしない「アメリカ音形」の上に美しい中欧的な旋律(もしくは映画音楽的な旋律)を載せたもののように聞こえる。和声的には重厚であるもののそう感じさせない楽器法のたくみさと言おうか、シャープで構造に無駄が無く、薄すぎず厚すぎず絶妙だ。もとはイタリア系だそうで、楽天的な曲想はそこからくるのだろう。この曲ではオルガニストだったとは思えない管弦楽法の巧みさを感じる。優等生的管弦楽法と揶揄することもできなくはなかろうが、曲想の美しさはアメリカの心を表現するに十分であり、コープランドですら生臭く感じるほど洗練されている。この曲は題名のとおりリズムの饗宴。最後のまさにコープランド描く西部の田舎踊りのような軽打楽器にのってちょっとジャズ風にリズミカルに演じられるクライマックスではとにかく理屈抜きに肩を揺らさせられる。盛大な拍手。カンテルリの水も切れるような鋭い指揮にも括目。曲がいいし、演奏もいいのだから、◎にしておくべきだろう。録音?こんなもんでしょ。

二つのコーリック・ダンス(合唱曲風舞曲)

カンテルリ指揮NBC交響楽団(ASdisc)1952/11/29・CD

カンテルリ指揮NYP(ASdisc)1952/11/29LIVE・CD

曲が兎に角地味なので、なんとも言えないのだが、カンテルリをもってしても暗中模索的な感じで終わってしまった感がある。クレストンのオルガン的発声は至る所で顔を出しているが、曲想と微妙にズレており違和感を感じる。踊るには重過ぎる。晦渋・・・。無印。

○ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(Capitol)LP

この作曲家は保守的でメタ音楽的な作風をもち、この曲も正直昔のアメリカ産ソープドラマのような匂いがきつい。といっても悪いのは節操の無い「引用」に人工的で「モザイク的」な継ぎ接ぎ方法であり、陳腐ではあるが充実した書法は手管として持っている。明らかにラヴェルのダフニスや高雅で感傷的なワルツの響きと動き、ストラヴィンスキー野蛮主義時代の作品の僅かな部分、それに新ウィーン楽派ふうの響きなど同時代というよりは前時代的なものの「良質な部分」を持ってきて、それをドビュッシーの「選ばれし乙女」ふうにまとめている・・・といったら褒めすぎか。でも、こういう曲を聴きたくなることはある。○にはしておく。ゴルシュマンの曇った響きはこの曲の重さをひときわ重く感じさせる。

~第2番

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(GUILD)1942/11/1LIVE・CD

トスカニーニのアメリカ音楽ライヴ集より。クレストンの曲はリズミカルでコープランドのアンファン・テリブル系。この曲は短いせいもあって、比較的素直な書法によっておりとくに後半とても楽しめる。世紀初前衛系の硬質な響きが特徴的な作曲家だがここでは晦渋さは前半のハーモニーに感じられる程度。ピアノを舞曲の下地に置くことによりリズミカルな音響を際立たせる方法はストラヴィンスキー後の流儀。コープランドも得意にしていたものだ。今はむしろショスタコが有名か。いずれにせよアメリカ20世紀前半様式の典型を示すものとして評価されよう。これがトスカニーニでなかったなら、好印象はなかったかもしれない。引き締まったリズムときっちり整えられたハーモニーが耳馴染みを良くしているのは確かだ。トスカニーニ向きの曲と言えるかも。

トッカータ

○ストコフスキ指揮ヒズ・シンフォニー・オーケストラ(CALA)1958/9/25カーネギーホールlive

さすがにアメリカ(イタリア移民だけど)を代表する20世紀作曲家の一人、個性のきらめきはこんな短い曲にも明瞭に現れている。単なる能天気な舞曲ではない響きの交錯に耳を奪われる。リズムも単純ではない。場面展開が速くストコフスキの面目躍如なめくるめく万華鏡の気分が味わえる。ラテンな雰囲気を感じさせながらも決して旋律の美しさや特有の色調だけに逃げることはなく、やたらがちゃがちゃ混乱した場面があると思えば信じられないほど美しくそこはかとない情趣を込めた楽想も現れる。音線の処理がアメリカにありがちな当たり前の定石どおりではなく、音程やリズムを微妙にたくみにズラしたりして飽きを防いでいる。高度の、だからこそ面白いアンサンブルが要求されているが、ストコフスキのパワーオーケストラはまさにうってつけだ。ヴァイオリンがちょっと辛い場面もあるけど引き締まった指揮でなんとかなっている。総じて映画音楽的と揶揄したくなる人もいようが、その想像しているところの映画音楽自体この人たちが作ってきたものなので本末転倒です。ジョン・ウィリアムズに至る流れはいろいろあるんです。雑音注意。○。

フルート、ヴァイオリンと弦楽オーケストラのためのパルティータ
~1、2、3


○ベイカー(fl)ウィルク(Vn)ストコフスキ指揮CBS放送管弦楽団(SCC:CD-R)1954/2/21放送live

新古典主義にたった作品だが冒頭の音線がずれているほかは擬古典様式で、当たり障りのない透明感あふれる作品。ストコフスキはとくに難しさもなくすんなりやっている。
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シマノフスキ (2012/4/2までのまとめ)

2012年04月11日 | Weblog
シマノフスキ
<(1882~1937)。20世紀のポーランドを代表する作曲家。作風はそうとうに変遷しそれぞれの時代にファンがいる。リヒャルト・シュトラウスの強い影響下に作曲活動を開始、濃厚な中にも透明感のある清々しい作風で人気を博す。やがてスクリアビンの影響をうけ神秘主義的作品を発表。ピアノ曲にはこのロシアの巨人の影響が強い。印象派音楽を消化してのちは硬質な音響で冷たい美感を持つ理知的な音楽を発表し、そのあたりがこの作曲家の頂点とみなされる。晩年は民族音楽に回帰、極めて分かり易い舞踏的要素の強い作品を残した。>

交響曲第1番

○スティリア指揮ポーランド国立フィル(marcopolo)CD

今でもweb配信販売されている全集の一部。意外と有名な2番より「聴ける」内容かもしれない。基本的にはリヒャルト・シュトラウスの影響下にあるのだが、2番よりもロシア的なハッタリをかます部分もあって変化に富んだ印象がある。3番でスクリアビン後期の影響を示すシマノフスキだがここでは中期以前の管弦楽曲を彷彿とさせる。半音階的な進行は妖しさをかもす。おそらく意図的に構造を簡素にしているのは当時のたとえばマーラーのようないわゆる世紀末音楽の流れ上にあって、その中で旋律線にヴァイオリンソロを導入するところは2番でもそうだが「いかにもリヒャルト」でありながら、後年のアレトゥーザの泉や協奏曲などヴァイオリンへの独自のアプローチを予感させる。スティリアの演奏はよくできていて、オケ的に弱い部分もそれほど感じずに楽しむことができる。○。

交響曲第2番

○フィテルベルク指揮ポーランド国立交響楽団(LYS)1947/11/2・CD

時代なりとも言えないくらい茫洋とした音だが荒々しいこの指揮者の粗雑さが和らげられ「融合的な音響」が形作られており、調和して聴きやすく、より楽曲自体の本質と思われるものが見える録音となっている。これを聴いて思うのは必ずしもリヒャルト・シュトラウスではなく寧ろフランツ・シュミットの趣味に近似しているということである。もちろん実験性の方向(後者は楽曲形式的・和声的な実験にのみ向かっていたように見える)や嗜好性の違いはかなり大きいし、オーケストレーションにはおのおのの独特の部分がある・・・ピアニストであったシマノフスキのほうが細かく構造的密度が高くチェリストでもあったフランツは旋律とそれに寄り添う和音進行にのみ集中しているように聴こえる・・・が、ともに同じ空気を吸った、ロマン派の末期の水をとるような生暖かい雰囲気はなかなかである。

○フィテルベルク指揮ポーランド放送管弦楽団(POLSKIE RADIO)1951live・CD

別録音とは較べ物にならないほど生々しい音質で、そのぶん荒っぽさも引き立っている。もちろんこちらをお勧めするが、人によっては枝葉末節が気になって曲の全体構造に気がいかないかもしれない。マイクがより近く、冒頭のコンマスソロからして大きく捉えられすぎており、生臭い前時代的な半音階旋律と、ベルク的な清澄な大胆さを兼ね備えた音響的表現の融和した独特の表現が、強引でごり押しの指揮演奏によって繊細なバランスを失い、依然ロマン派交響曲ではあるものの、金属のぶつかり合うような軋みがそこここに聴こえる、寧ろ聴きづらさと捉えられる部分もある。いずれにせよこれはフィテルベルクの盟友の純交響曲における最高作のライヴ記録であること、それだけで価値はあろう。○。

○スティリア指揮ポーランド国立フィル(marcopolo)CD

今でもweb配信販売されている全集の一部。オケはそれなりといった感じで決して上手くない。雑味が多い。曲自体にも演奏が悪くなる理由はあると思う。とにかく前衛的なまでに半音階的な旋律は全て弦楽器を中心とする一部パートが担い構造的に振り分けられることは殆どなくグズグズ、初期シェーンベルクやツェムリンスキーあたりの影響が物凄く強いわりにブラームス的なかっちりした部分が少ない。構成や和声には工夫がありこの曲がウィーンで受けて出世作となったのもうなずけるところはあるが、短いので耐えられるけれども、当時の通常の交響曲並みの長さだったら途中で飽きてしまったろう。ただ新しい音でないと曲の工夫が聞こえないので、数少ない録音という希少性をかんがみて○。

交響曲第4番<協奏的交響曲>(1932)

◎ルービンシュタイン(p)ウォレンシュタイン指揮LAフィル(RCA)CD

作風変遷著しい「若きポーランド」の一員シマノフスキ。晩年民謡採集という時代の流行を追うように、残り少ない命を託したのがバイオリン協奏曲第2番と同曲という民族的音楽。「アレトゥーザの泉」や「夜の歌」などの尖鋭なイメージとは余りにかけ離れているため、これら分かりやすい曲は余り人気が無いように思いますが、美麗で清潔な響きはまさしくシマノフスキです。逆にシマノフスキがわかりにくいと嫌っている方も、この曲なら許せるのでは。古い録音でもOKな方には、ぜひ献呈者ルービンシュタイン独奏のRCA録音をお勧めします。(ちなみにこの曲は殆どピアノ協奏曲)ウオレンシュタイン指揮LAフィルのバックも、弾けるようなリズムと胸のすくようなスピード感で迫り、この演奏に限っては独奏者とがっちり噛み合っています。シマノフスキの権威ロジンスキNYPとのライブも残っていますが、音が最悪なのでお勧めできません。もっと溯れば衰え著しいシマノフスキ独奏、盟友フィテルベルク指揮コペンハーゲン放送交響楽団のライブ断片が残っていますがマニア向き。新しい録音も最近は多いのですが、スピード感という点ではやや劣るような気がします。ロヴィツキの振っている盤が2枚ありますが(ピアニストは異なる)、少し雑な印象でした。マルコ・ポーロから出ているツムジンスキ独奏スティリア指揮ポーランド・フィルの演奏は雰囲気があり、私は好きです。(2005以前)

改めて書く。シマノフスキはルビンシュタインとは「若きポーランド」時代からの盟友として長く交流を保ち、最初の劇的な作風変化をもたらしたフランスの作曲家との接点は彼を通してのものだったと言われる。この作品はタトゥラ山地の民族舞曲に傾倒してのちの晩年の平易な作風によるものであるが、作曲家自身演奏するために作られたものの技術的問題等により、結局ルビンシュタインのレパートリーとして生きながらえることになった。

ただ、ルビンシュタインのスタイルは一切感傷を加えずドライに即物的に処理するといったもので血を思わせるブレはまったく無い。凄まじい技巧家であることを前提に、敢えて同曲の肝要となる特殊なリズムやアゴーギグをまったく強調せず、この曲に依然存在する秘教的な響き、スクリアビン的な神秘や熱狂も無い。曖昧さを排し力強く突き進むのである。録音がモノラルで古いせいもあり細部が聞き取れないのも難点だ。ウォレンスタインの棒もアメリカ50年代の直裁ないわゆるトスカニーニ=ワルター様式であるがために、剥き出しのスコアの、コントラストをただ矢鱈強くしたような音楽を聞いているようなものとなる。

力強く押し通す力のある指揮者でありルビンシュタインは至極プロフェッショナルに指をまわしていく、そこにただ一種シマノフスキ(第三期)というローカルな作曲家を汎世界的価値のある作曲家として昇華させる「わかりやすさ」が醸しだされているのは事実で、モノラルでオケ(とくに剥き出しで使われることの多い弦)の技術にも問題があるにもかかわらず素直に曲自体の包蔵する魅力だけが強く引き出された演奏となっている。3楽章の集中力と熱気は聞きものだろう。この曲の多面的な魅力、とくに繊細な響きの魅力が聞けるものではないが、ただ熱狂したいときにはおすすめ。○。(2008/9/2)

◎ルービンシュタイン(p)ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(LYS他)live・CD

いくら録音が悪くてもここまで両者の方向性が合致して結果異常な集中力で弾ききられると◎にせざるを得ない。スタジオ録音よりも激しく野獣のような演奏で突き進むルビンシュタイン、NYPというこの曲に使われるのは珍しいほど素晴らしい楽器を持ってやはり野獣のような勢いで音楽をドライヴしていくロジンスキ、スピードと力感の余り3楽章にいたってはミスタッチや弾きそこないが散見されるがそれとて大した問題には感じない。既に「音楽」が出来上がっているからだ。

この曲に生硬な演奏が多いのはひとえに書法上の問題があって、剥き出しになった声部が数珠繋ぎにされ進行する場面が多いため、萎縮したような演奏になることが多く、ソリストもミスを嫌ってマニアックな細かい音符まで表現しようとするから、全体の音楽としては中途半端な近視眼的なものに仕上がってしまい、総合で見て技術的にもイマイチな結果ととられかねないものになる。

協奏曲ではあるが交響曲という前提があり、オケもソリストも拮抗しながら、同じ方向性に向かってまとまっていく必要がある曲だ。たまたまというか、ルビンシュタインの細部に拘泥しない即物的かつ激情的な性格に超絶技巧が伴っていて、ロジンスキの暴君的な力感がオケをしっかり従わせるだけの説得力(と技術)を持ち、両者とも表現の機微が無いとは言わないがあくまでメリットは「勢い」に置いているという点で相性が(少なくともこの曲では)ばっちりなのである。NYPがもともと一流の技術を持っていたという点も看過できない。この曲はローカルなけして巧く無いオケによりやられることが殆どで、練習が万全の演奏すらできていないことが多いからだ。

スクリアビンの影響を再度露骨にし、けして技巧的に高いものを投入したとは言えない和声的で単純な書法による曲なだけに、ソリストは時折奇妙にも思える進行をきっちり繋がったまとまった音楽として聞かせるように仕上げなければならないし(2から3楽章へのアタッカの前の下降音形の持って行き方など)、オケ奏者には音量バランス的に無理な負担がかかる部分もある。

一つの解決法に、シマノフスキ第三期の作風の要となる民族舞踊の特殊性を浮き彫りにして細かい起伏を盛り込み刹那的な魅力を引き出し続けるという方法があるが、これは作曲家自身が自演にて失敗した要因でもある。まとまりがなさすぎてしまう以前に、とことん演奏しづらくなるのだ。となるともう一つの解決法は「勢いで押し通す」、それに如何に説得力を持たせるか・・・つまりは勢いを裏付けるトレーニングとポテンシャルがどこまでいけているか、それしかない。

山っ気なんていらない。ルビンシュタインは押しも押されぬヴィルトーゾで、即物主義的な表現だけを売りとし音色にも解釈にもそれほど幅のある表現を好まない。だからソロ曲では魅力が無いものも多い。ロジンスキはクリーヴランドを叩きなおすとともに短期間ではあるがNYPに君臨した指揮者であり、オケトレーニングに長けているのは言うまでもなく、その異常な集中力と力任せの表現で同時代流行のスタイルの最先端にいたことは言を待たない。つまりはその両者のこの曲における一期一会的なライヴである、それだけで期待し、満足していい。大音量でノイズを厭わず聞いてほしい。これは余り評価されないシマノフスキ晩年の作品で感傷性や民族性が魅力だが、そういうものを最低限はもちろん表現したうえで、まるでロックフェスのような熱気中心に聞かせていく、それだけでいいのだ。◎。3楽章の暴力的な演奏は凄い。

○パレチュニー(P)セムコウ指揮ポーランド放送交響楽団(EMI)CD

力強い演奏である。ソリストも打鍵がしっかりしていて更にニュアンス深く、そこそこカタルシスの得られる演奏だが、いかんせん技術的問題がみられオケともども万全とは言えない。何かまだ表現が若く演奏も血を感じさせるまではいかない生硬さが否めない。1楽章冒頭よりソリストの起伏ある表現が目立つのが自作自演を彷彿とさせるが、細部に拘るゆえに重く感じられる。テンポが前に向かわず縦を意識しすぎて足踏みしながらの前進と感じられる。この曲はどうしてもルビンシュタインのイメージがありスピードと超絶技巧が欲しくなる(ロジンスキとのライヴの凄まじい3楽章など悪録音が悔やまれる)。もちろんそれだけではシマノフスキ第三期特有の特殊な民族性がなおざりになり、もう一つの特徴である透明感や繊細さが失われスクリアビンの影響色濃い幻想的な魅力が減衰してしまうのだが、この演奏はそういった繊細な部分も十全に表現しきれているとは言えない。可もなく不可もなく、○。

◎パレチュニー(P)エルダー指揮BBC交響楽団(BBC,IMP)1983/2/16londonロイヤル・フェスティヴァルホールlive・CD

ポーランド受難の時代の記録であり、独特の緊張感ある演奏になっている。非力なBBC響もこの曲では怜悧な音色をメリットとして、ブラスも弦楽も頑張っている。シマノフスキに要求される鋭い金属質の音がまさに縦横に出ており、張り裂けそうなアンサンブルが繰り広げられ、これがイギリスにおける演奏というのを忘れさせるような激しさを感じさせる。この曲はけしてケレン味を必要としないが、ここぞというところで起伏が大きくつけられているのも自然。献呈者ルビンシュタインを彷彿とさせる技巧家パレチュニーはこの曲を得意としているだけあって、リズムに破綻の無い演奏ぶりでぐいぐい進める。協奏曲にしては音数は決して多くは無いのだが(ピアノはあくまでオケの一部ではある)特有のリズムと不協和音を絡めた単線的な音楽を流麗に弾きこなしてみせる。けっこう危ない演奏の多い同曲にあってこの安定感はライヴにしては異様ですらある(ルビンシュタインのライヴ記録でも危ない部分が散見されるくらいなのだ)。録音もよく、◎にしておく。ブラヴォが出ないのはちょっと不思議な盛り上がり方。終盤ちょっとデフォルメし過ぎたから?

○ツムジンスキ(P)ロヴィツキ指揮ワルシャワ・フィル(POLSKIENAGRANIA)CD

演奏的に完璧とは言わないが録音の新しいステレオものとしてはこの選集収録のものを薦める。硬質の響きと舞踏的表現の強靭さ、二楽章スクリアビンの香りのする前衛書法の隅々まで聴いて確かめることのできる見通しのよさがポイントである。スタジオ録音であるせいかテンポが生硬で、同曲の売りである前に向かっていく感じは今一つだが、ソリストが強いタッチで(ごく一部ミスも聞かれるものの)ロヴィツキの男らしい表現とわたりあっており頼もしい。ロヴィツキバックのものにはエキエルがソリストをつとめたものもある。◎にしたいが、冷静に言って○か。

○エキエル(P)ロヴィツキ指揮ポーランド国立フィル交響楽団(MUZA,POLSKIE NAGRANIA)

かなり感情的な起伏が盛り込まれている。たっぷり間をとって表現される3楽章中間部など特徴的だ。堅い音に縦ノリのリズムはロヴィツキらしい生硬さや粗さもなくもないが、おおむねうまくいっていると思う。ソリストはスピードと技巧というよりケレンと音楽性で一長を感じる(もちろん下手ではない)。なかなかライヴ感ある名演。

○クピエク(P)コルド指揮ポーランド国立放送交響楽団(POLSKIE RADIO)2007/3/12・CD

生硬な感は否めずわりと棒のような解釈になっている。演奏陣もぱっとしないが表現の硬さはこの曲の難度からいって仕方の無いことかもしれない。ピアノも余りニュアンスに長けている調子ではなくこなれていない印象を受ける。ただ、透明な硝子質の曲の一面を捉えたところはあり、ロマン性は終楽章終盤のみにとどめあとは即物的に処理するというやり方なのかもしれない。この曲はルビンシュタインの印象が余りに強いため厄介だ、あれ以上の弾き手が取り組むことは今後もあるまいから。悪くは無いので○。

~1、2楽章

○作曲家(P)フィテルベルク指揮デンマーク国立放送交響楽団(POLSKIE RADIO)1933/1/19live・CD

ポーランドの国民的作曲家シマノフスキ晩年の平易でカッコイイ名作である。ルービンシュタインのレパートリーだったことで知られるが、作曲家自作自演によるこの盤は一部がLP(SP)化されてはいたものの楽章全体として復刻されたのは今回が初めてである(3楽章は残念ながら残っていない模様)。ポーランド放送のCDとして作成されたこの盤はコルドによる交響曲全集のおまけとして付けられた歴史的録音であるが、一緒に入っているマズルカ2曲とインタビュー2片はMUZAから出ていたLPボックスの付録EP収録のものと同じである。

やはり全体を聴かないとわからないところが多いのだなあと思わせた。作曲家の指の弱さ、衰えを感じさせた断片はしかし全体像を捉え切れておらず、何より録音状態が極度に悪いため音響バランスが崩れていたがゆえの印象にすぎなかったのだなあと。ここで通して聴く限り作曲家は非常にニュアンスに富んだ(作曲家にしかなしえないであろう)細かい表現を施しており、舞踏リズムを明確に打ち出してこの曲が抽象音楽ではなく民族音楽であることを強く意識させるところが後発の演奏にみられない大きな特徴である。といっても硬質な響きが目立つ楽曲でありその点を意識しコントラストを付けてもいて(だから録音の問題で不協和なハーモニーの繊細なバランスが崩れて聞こえ、衰えに思えたのだ)、テンポも意外と速いまま維持されていく。ロマンティックなぐずぐず感は皆無である。演奏は熱気はそれほどないし専門ピアニストほどの安定感は無いもののこなれていて非常に印象的である。もっとも1楽章のカデンツァは鬼気迫るものがある。1楽章の聴き所も多いのだが2楽章のソロ部分はマズルカで僅かに聞かれた作曲家の繊細なリリシズムが感じ取れる非常に美しいものである。惜しむらくはバックオケだ。フィテルベルクの粗野な棒に技術的に問題のあるオケ、それでライヴということでシマノフスキの色彩的なオーケストレーションを十分表現できているとは言えない出来である。木管もしょっちゅうとちるしこの程度のソリストの揺らしについていけない棒というのもどうかというところである。鈍重だ。全体として作曲家がやはり素晴らしい民族的作曲家であるという印象は感じられる特筆すべき演奏ではあるが、過度には期待しないほうが、といったふう。○。

タランテラop.28-2(フィテルベルク管弦楽編)

○フィテルベルク指揮ポーランド国立放送交響楽団(polskie radio)1953live・CD

ヴァイオリンとピアノのための「夜想曲とタランテラ」より。曲的にはかなり露骨な民族主義があらわれたものだが指揮者である前に作曲家であったフィテルベルク、よくシマノフスキの芸風を知っていたことが確認できる透明な色彩感溢れるいい編曲。ちょっとリムスキーのシェヘラザードを彷彿とさせるところもある。テンポ感がもっさい部分もあるがウブい音も手伝って力強い舞踏を楽しめる。終演がかっこいいが拍手カット。

バレエ音楽「ハルナシー」

~四つの断章

○フィテルベルク指揮ポーランド国立放送交響楽団(polskie radio)1952スタジオ・CD

こうやって聴くとシマノフスキの非凡な才能が再確認できるわけだが、フィテルベルクの、前時代的なポルタメントをもちい旋律を煽りながらもキレよく尖鋭な響きを整え複リズム的な流れをきちっと収めていく手際よさが感じられ、この指揮者をも再認識させる。余り後期の曲をやらなかったイメージがあるが、後期に寧ろ向いていると思う。晩年のシマノフスキはタトゥラ山地に封じられたようなマンネリズムの中にあったとも言え、この曲と交響曲第4番とヴァイオリン協奏曲第2番は旋律とリズムと構成にバリエーションを得ただけの殆ど三つ子のような様相を呈してはいるのだが、後者二作が余り評価されないのは、この「高地の首長たち」が既に全てを包含してしまっていたからかもしれない。多彩なリズムすら強烈なメロディの一部となり、ミラクル・マンダリンのような木琴からしてペトルーシュカを彷彿とさせて然るべきなのに、響きとリズム旋律の余りに特殊な民族性がそうはさせない。ここが要だなあと思う。フィテルベルクは切り裂くような音響表現が光り、オケすら破壊しそうな前進的なテンポで交響組曲のように仕立てて秀逸。録音は聴き易い。○。

歌劇「ロジェ王」よりロクサーヌの歌(フィテルベルク管弦楽編)

○フィテルベルク指揮ポーランド国立放送交響楽団(polskie radio)1952スタジオ・CD

スタジオ録音のほうがライヴより音が遠いのは何故。まあそれはいいとして、「ロクサーヌの歌」はコハンスキによるヴァイオリン編曲で有名、シマノフスキの代表作と言っていいだろう(後期では「珍しい」)。「メロディ音楽」である。これは盟友フィテルベルクによる管弦楽編曲で、ちょっとハリウッド映画音楽的なロマンチシズムの入った手馴れた編曲に違和感を感じるところもある。原曲そしてシマノフスキ晩年特有の響きが終盤にあらわれるが、もっと怜悧にやったほうが「らしい」感じがしなくもない。甘いメロディを燻らせるさまは聴感悪くはないし、細かい伴奏の動きにも神経の行き届いた演奏にはなっているが。

ヴァイオリン協奏曲第1番

○ウミンスカ(P)フィテルベルク指揮フィルハーモニア管弦楽団(LYS/monopol)1945/12/27スタジオ・CD

シマノフスキの十字軍的に活躍したソリストと指揮者が西欧に残したSP録音だが、録音こそそれほど悪くは無いものの冒頭からオケの乱れ方が尋常じゃなく、この指揮者の面目躍如なるところが見られる(?)。しかしアクの無い音作りで、拡散的演奏であるがゆえの煌く色彩感、美麗さはあり、リズムを強調し押し進めるところ含め、ストラヴィンスキーの硬質な音楽を思わせるものに仕上がっている。この曲は抽象的に演奏される傾向があるが、ここでは無難に演奏をこなしている女流ウミンスカの表現には起承転結がきっちりしたものを感じる。三部構成をしっかり意識しているので、比較的わかりやすいのだ。シマノフスキの前衛でも国民楽派でも無い微妙な立ち位置を示した曲だが、紹介盤としては十分に機能していたことだろう。フィテルベルクにも技術的問題も多いが○。フィテルベルクをポーランドのゴロワノフと呼ぶ人がいるみたいだけど、どこが・・・?強靭さのレベルが違う。ゴロワノフはこんなバラケ方はしない・・・

○ウミンスカ(P)フィテルベルク指揮ポーランド放送管弦楽団(MUZA/POLSKIE RADIO)1951スタジオ・CD

私、同じものと誤解していたのですがこちらが全集盤(2曲だけだけど)のほうの録音。フィルハーモニアよりも精度が高く音もより新しい感がある。ただどうもこの時代にしては、やっぱり気になる録音状態ではあるが。フィテルベルクの雑味もこのくらいなら許容範囲。ウミンスカは2番ほどではないにせよ(恐らく2番より1番に思い入れがあるのだ)高音の痩せ方や枯れたようなボウイングが気になる。ただ、十分この曲の正統の表現を提示できているようである。○。

○トーテンベルグ(Vn)モントゥ指揮?(DA:CD-R)1954/2/5live

もう少し録音がクリアなら◎にしていたところで、とくに前半がソリスト・オケともに素晴らしい。モントゥの伴奏指揮は非常に巧くオケの響きの多彩さと演奏の集中度を主張しながらきっちりソリストにつけてくる。ソリストもまた技巧的に安定感がありこの難解な曲をみずみずしく描いている。楽曲的にはシマノフスキの最盛期のものと言ってよい。民族楽派の向こうを見据えた東欧近代作曲家の一人であるが、ここではとくにスクリアビンの非構造的な「響きの音楽」をそのまま受け継ぎ、そこにウィーン楽派の影響を理知的に反映させた最盛期の作風がよくあらわれている。清澄な音響を駆使しながらも半音階的な音線への執着がむんむんとするエロティシズムを露呈しているところはほぼフランス印象派の影響から脱しているような感じがする。寧ろ未だ残る分厚い響きへの指向がツェムリンスキーと非常に近いところに曲を持っていったといったかんじである。オリエンタリズムはやや減退して、晩年の作風となる民族主義回帰がヴァイオリンのフィドル風パセージに現れてきている。だがこのあたりが逆に書法の限界とマンネリズムを呼んでいる感もある。シマノフスキは独自の清澄な作風を持っていたといいながらも様々な作曲家のかなり強い影響を受け続け変化し続けた人であり、その影響が作品中にやや直接的で一種閉塞的な特徴としてすぐに読み取れてしまう形で提示されることがままある。ヴァイオリンの書法にせよ初期の無調的な難解さが薄れるとその雲の向こう側から見えてきたのはかなり単純なものであり、2番で見られる書法と殆ど変わらないものが結構出てきてもいる(順番的には2番が枯渇していると言ったほうが適切かもしれないが)。シマノフスキは作曲技法に走ることにより辛うじてその地位を維持できたが、元来それほど大きな独自性をもった作曲家ではなかったようだ。

◎トーテンベルク(Vn)モントゥ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1955/1/28live・CD

DAと同じかどうかわからない(録音状態が違いすぎる)。十分聴くに耐えられる音でわりと迫力がある。この組み合わせはこの曲に向いているらしく、尖鋭で複雑な響きの交錯を精緻に割り出し再構築しながらも、一貫してロマン派の協奏曲であるという本質をしっかり意識した構成は聴き易い。モントゥにあっている曲だと思う。シマノフスキは難しそうでいて、同時代と比べればかなり簡潔な書法を駆使する職人的な作曲家だが、こういう演奏で聴くとそれが単純なのではなく「簡潔」なのだということがはっきりわかる。非常にいい演奏。◎。

◎トーテンベルク(Vn)ヴィスロツキ指揮ポツナン交響楽団(VQR)CD

モノラルだがモントゥBSOとの素晴らしいライヴ録音で知られざる姿を見せ付けた名教師若き日の正規スタジオ録音になる。これもまた素晴らしいバックオケに支えられ、ウィウコミルスカを彷彿とさせるアグレッシブなスタイルにやや冷たい技巧派の音であるが、ああいったヒステリックな荒々しさが無く、中期シマノフスキの透明感ある繊細な動きとスクリアビン的な音線・響きの妖艶さの両立するこの曲の特殊性を巧緻に描き出す。とにかく「欠けたところがない」。押しが弱いかといえばそうではなく、トーテンベルグ個人だけでも同曲のエキスパートたるところを見せ付け強靭な流れを作っている。民族性を打ち出した演奏ではないので(この曲に民族性はいらないと思うが)ややロマンティックに傾いたようにも聴こえるが、オケも含めて音が東欧的な鋭い響きをほどよく帯び、決して中欧やロシアふうの重ったるい音楽にはならない。ロヴィツキとは雲泥のヴィスロツキの職人的な腕前にも感服するし、このオケの安定感や丁々発止のアンサンブル能力にも驚いた。

○ウィルコミルスカ(Vn)ロヴィツキ指揮ワルシャワ国立フィル(MUZA)CD

シマノフスキの代表作でよく知られており、冒頭から前衛的な透明な書法が光るが、錯綜するわりに少ない楽想に対し25分前後の単一楽章とは長すぎる。まだ初期のロマンティックな重い表現が残っていることとあいまって、けして名曲とは言いがたい部分もあり、個人的にはすかっと割り切った二番のほうが(易しいし)好きだ。オイストラフの演奏が残ってしまっているため、どんな手だれがやってもどうしても比べてしまう。ウィウコミルスカというバリ弾きなソリストをもってしても線が細く心許ない、という印象を抱きかねないところがある。弦楽器というのはけっこう繊細である。録音に残り易い奏法というのがあり、音というのがある。それを前提に話せばこの録音は余り上位には置けない。技術的に落ちるバックオケに引きずられ田舎っぽい感がある。シマノフスキは民族的な音楽を書いていても常に中欧の流行りを意識してきており、コンプレックスもあったのかもしれないが、中期以降は物凄く洗練され都会的である。もとからそういう音楽なのに民族性を下手に強調すると野暮になる。ショスタコがグラズノフになってしまう(どういう比喩だ、私は圧倒的にグラズノフが好きである)。恐らく地獄のような特訓の末生まれたであろう父ド・オイストラフの安定した太い音とアンサンブルに対する鋭敏な感覚にくらべ、やや弱さを感じた。何より、ロヴィツキはどうも相性があわないらしい。○にはしておく。美しい部分はある。

○シムチェフスカ(Vn)ペンデレツキ指揮シンフォニア・ヴァルソヴィア(DIRIGENT:CD-R)2008/8/26live

最近のエアチェックものは危ないので手を出していないのだがこの組み合わせ(ドボ8・・・)は仕方ないので手にした。いかにもな選曲だが、やっぱり生硬である。遅いテンポで響きをいちいち確かめるように進むから、シマノフスキの音響志向が意図通りしっかり聴こえてくるのはメリットとして、書法的な単調さや曲自体の求心力の弱さが露呈してしまっている。シマノフスキの真価を問ううえでこういう(ちょっと違う気もするが)客観的に整えた演奏は必要ではあるが、ライヴでこの面子だと、このくらいか、清潔だなという印象しか残らない。諸所に非常に感銘を受ける箇所はあり、意外と面白い曲だとは思ったが、やっぱり拡散的な曲だな、モントゥあたりにさばいてもらったほうが聴衆は楽しいだろうな、という感じ。いい意味でも悪い意味でも聴衆反応は大きい。○。

○テツラフ(Vn)ブーレーズ指揮VPO(DIRIGENT:CD-R)2009/6/12live

ソリストが巧い。曲をよく分析し解釈し表現している。作ったようなところがなく、そういう意味でも隙が無い。人工的で硬質な楽曲をなめらかに全く無理なく、伸び伸びと演奏し、バックオケと相まって、ブーレーズに似つかわしくない生暖かく甘い・・・シマノフスキの本質でもあるのだが・・・聴き心地をあたえる。同時代者トーテンベルクらの民族的だがぎくしゃくした演奏の時代は去ったのだなあ、と思うジェネラルさ。同曲は譜面上ある意味単純なのだが音にすると晦渋、でも、最近はレパートリーにする人が多く誰もそれなりに個性的かつ聞きやすい演奏として提示してくる。同曲をレパートリーとした唯一のヴィルツオーソヴァイオリニスト、オイストラフくらいからの伝統でもあるのだろう。お勧めなのだが、クリアな音で楽しみたいところでもあり、海賊音質だと○以上にはならない。

ヴァイオリン協奏曲第2番(1932-33)

<シマノフスキの絶筆であり、彼の語法の結論とも言うべき内容・・・完全な人生肯定・・・だ。タトゥラ山地の民謡にインスパイアされてのちの民族的作風によっており、旋律的で聴きやすい。手法的にもすこぶる充実し、ヴィルトーゾ風にみえて実は大変要領よく合理的に書かれていて、演奏に変な苦労をかけない。重音のトリルの多用が民族音楽風でいながら冷え冷えとした切れ味を持ち、冷たく燃えるような独特の世界を作り上げる。テーマはどれも民謡風だが洗練された魅力があり、この作にもっとも近似した「シンフォニア・コンチェルタント」に通じるものだ。多用の割にしつこくならないのは、変容の方法や対位旋律、ポリフォニーが精巧複雑で、同じ旋律でいながら全く違った表現が矢継ぎ早に駆け抜けていくからだ。「シンフォニア・コンチェルタント」のわかりやすさにヘキエキするなら、こちらがお勧めだ。深みのある感動が聞き込むほどに湧き起こる。もっともシマノフスキ慣れしない向きにとっては、はじめは何が何だかわからない取り付きづらい曲という印象を与えるかもしれないけれども。ソロが前面に出るようでいながら、オケと不分離なほど絡み合っているため、「協奏曲」というイメージとやや異なる。そういった曲だ。>

◎ウィルコミルスカ(Vn)ロヴィツキ指揮ポーランド国立管弦楽団(MUZA他)

目下最も巧く、ルーツに忠実で、奏法にも目を見張るところが多いのがウィウコミルスカの録音だ。他にも録音があるようだが未聴。初めて聴く向きには是非お勧め。

シャンタル・ジュイユ(Vn)デュトワ指揮モントリオール管弦楽団

ジュイユはウィウコミルスカを凌ぐほど完璧な技巧をみせるが、音色の多彩さや表現の深みでは大きく水をあける。デュトワのバックはまずまず。N響とライヴをやっているが(指揮はワルベルクだった)オケがドイツ的な重さを伴いややこの透明感ある曲にそぐわなく感じた。

シェリング(Vn)アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(LYS)LIVE
○シェリング(Vn)ロジンスキ指揮イタリア放送交響楽団(LYS)LIVE
シェリング(Vn)クレンツ指揮アバンベルク放送交響楽団(PHILIPS)

断然ロジンスキ盤をとる。線は細いが憧れに満ち且つ確信の篭った素晴らしい演奏だ。シェリング独自のロマン
ティックな解釈がウィウコミルスカ盤に比べて「弱さ」を感じさせるが、双璧をなすシマノフスキ弾きと言って
過言ではあるまい。音は悪いが。ロジンスキは作曲家と親交があった。

◎シェリング(Vn)シュミット=イッセルシュテット指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団(En Larmes:CD-R)

シェリングの同曲の演奏記録は知る限り3つあった。やや生硬なスタジオ録音盤(PHILIPS)と、非常に録音状態の悪いライヴ盤二枚(指揮アンセルメ、ロジンスキ)の三種である。だがそこに登場したこのCDーRはシェリングのベストの状態において録音された盤であり、シュミット=イッセルシュテットの硬質で精巧な曲作りの中にあって同曲の価値を改めて知らしめるものとなっている。モノラルだが録音もよい。シュミット=イッセルシュテットは曲の中に埋没した独特のフレーズや響きを抉り出し、シマノフスキが最後に到達した民族音楽の世界が、決して先祖帰りではなく、現代の新鮮な響きの中に巧妙に創り込まれた世界であることを知らしめている。一方ここでのシェリングは完璧な解釈と技巧を披露しており、どの盤よりも成功している。この盤はシマノフスキの二番の古典的演奏と成りうる価値を持つものである。

○パリュリス(Vn)サタノウスキ指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya)live

弓を物凄く弦に押し付ける奏法からしてそうなのだが、力ずくで押し通したような演奏ぶりで、尋常じゃない勢いだ。一部オケがついていけてないほどに突っ走る場面もある。せっかちな感は否めず、緩急の緩のほうが足りないような気もするが、スリリングでライヴ感に溢れたすこぶるテンションの高い雰囲気に圧倒されてしまう。この曲に横溢する民族的表現すら強烈なテクニックの前に鄙びた緩やかな雰囲気を失い、ただ聞くものを唖然とさせるものになっている。技巧的にこのスピードでは無理、というところもなきにしもあらずなのだが、それでもほぼ完璧な音程、重音のハーモニーが素晴らしく耳に残る。ロシアオケのボリューム溢れる音に対してしかし終始支配的に演奏を引っ張っていくさまはウィウコミルスカ盤以上のものだ。寧ろオケが鈍重に聞こえる。ソヴィエトの常、ブラヴォは出ずフライング拍手がパラパラ入ってくるが、そんなのが信じられないくらい、最後のコーダも物凄く、「曲を基本的に解釈していない」ものの「曲を完全に弾ききった」という感慨を受けるものとして、◎にしたいが○にとどめておく。モノラル。

ウミンスカ(Vn)フィテルベルク指揮ポーランド放送交響楽団(MUZA)LP

ついに、ついにこの盤を聴くことができた。できたのだが・・・ま、まあ、時期を考えれば仕方のないことなのかもしれないが、たどたどしさが常につきまとい、ソリストの技量が大いに問われる。録音も継ぎ接ぎらしく、正体不明の乱暴な編集痕のようなものが特に二箇所気になった。解釈なのかどうか迷う部分もある。フィテルベルクはかなり大仰で乱暴な演奏をしたから、変なパウゼで大見栄を切るような場面など聴く側が解釈に迷う。最後のほうの怒涛のたたみかけも勢いがないのにひたすらまっすぐ突っ走るような不変のテンポに無意味に起伏する音量、素っ気無い解釈振りが「いや、SP期ならともかく、もうLP期に入ってるわけで・・・」と思わせる。とにかくソリストが素朴で頼りないものの、途中ハーモニクスの旋律・重音表現が非常に美しい。さすが北の香りを感じさせる冷ややかでもどこか質感のあるじつに綺麗にひびく音だ。これは奏法かもしれない。ひょっとするとこのソリストは何か主流の演奏より非常に限られた地域の民族的な奏法にたけた人なのかもしれない。いずれ残念ながら無印より上はとてもつけられない。作曲家の盟友フィテルベルクは1番もこの組み合わせで録音しており、そちらはCD化もされているが、曲的にはこの2番のほうがずっとわかりやすい。

○キム(Vn)ザンデルリンク指揮NYP(VON-Z:CD-R)1984/1/21live

このソリストはなかなか聴かせる。音は金属質で細いが音程感が明確になるゆえ曲にはあっており、アーティキュレーションもかなり堂に入ったものである。シマ2でここまで巧く揺らしてくるソリストは余りいない。技術的に難はなく、もちろんライヴだから瑕疵がないわけではない。だがシマノフスキの多用する重音処理の中には元から無理があるゆえ音になりにくいものもあるわけで、フランス的に引いたかんじで綺麗に響かせることはできようが、だいたいが民族音楽なので荒々しく音にならない破音で十分なのである。ザンデルリンクは鈍重で妙な細かい音響に拘るが、いつものことだろう。ソリストと乖離しているかと言えば「それほど」乖離していないのでよしとすべきだ。後半などソリストが熱してきてあわないギリギリのところを綱渡りするようなスリリングな場面もコンチェルトの情景として面白く聞ける。○。

○ヤーセク(Vn)ツルノフスキ指揮プラハ交響楽団(PRAGA)

シマノフスキ最晩年の民族的作品だが、弾く人を選ぶ曲だ。ハマらないとイマイチぐずぐずに感じたり、曲自体がわけのわからない印象を残すようになってしまう。技巧的安定はもちろん、民族的表現を加味して積極的に盛り上げを作っていく人でないと難しい。しかも曲は民族的熱狂を包蔵しながら非常に冷たい響きを持っているので、正確な音程感というのも大事である。このソリストはいい。よくわかっている。バックオケも模範的といっていい。余りここまで娯楽的要素を適度に引き出し、曲にした録音というのは無い。単一楽章で主題も限られるためとりとめのない印象を与えかねないが、かなり計算されたように曲想が変化していくのでそこをびしっととらえアクセントを付けていく必要がある。シェリングなど技術的問題もあってここが弱い気もするのだが、この人はしっかり余裕ある技術を背景に明快な表現をとっている。突進するだけの演奏でも曲がもったいないからその点でもこの演奏は真を衝いている。古い録音なので○にはしておくが個人的に理想的。これはCDになっているのだろうか。

ピアノ・ソナタ第2番

○リヒテル(P)(parnassus)1954live・CD

二楽章制という珍しい構成のくせに最初はいきなりショパン系のゴージャスな音楽で始まる。スクリアビン前期でもかなり前のほうの雰囲気だ。細かい語法は現代的とも言えそうだが内容構成はずいぶんと古風なロマン派ピアノ音楽である。二楽章になるとかなりシマノフスキになってくる。ただこれも中期以降のスクリアビン的な半音階フレーズが駆使され、いわばスクリアビンから痙攣トリルを取り去ったうえで、中欧的なロマン派旋律をしっかり突き通している、といった感じがする。スクリアビン中期の個性には残念ながら匹敵するとは言えない。折衷的な感じが強い。リヒテルはとにかく正確で何より力強い。壮年期ならではのホロヴィッツを彷彿とさせる素晴らしい弾きこなしっぷりだ。演奏的には◎なのだが録音と曲自体の解釈評価を多少勘案して○。

スターバト・マテール

ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団他(DA:CDーR)1966/12/10LIVE

録音も悪く雑然としてしまった感もある。最後の轟音こそ凄まじいが、そういったデフォルメのわざが効かない神秘主義的な表現の場面ではアクが強すぎて、タトゥラ山地の民謡旋法にインスパイアされた晩年ならではのわかりやすい旋律も何か埋もれがちである。合唱を録音が拾い過ぎているようにも思う。とにかく録音だめ。
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ラヴェル 弦楽四重奏曲 (2012/3までのまとめ)

2012年04月10日 | Weblog
弦楽四重奏曲(1902-3)

<なんか最近の演奏はみな似通ってるとおもう。この曲は偏執狂(失礼)ラヴェルの出世作だけあって、どんなにドヘタアマチュアでもきっちり楽譜を音にできれば十分聞ける出来栄えになってしまう。逆に或る程度のレベルに達すると、個性を打ち出すのが難しくなるのかもしれない。作曲家の拘束力が強いというか…。それでもむやみに主張するのが昔の演奏団体だけれども、それでも案外幅がない表現が目立つ(カペーとかブダペストとか)。あとは音色(ネイロ)勝負一本しかないとすれば、聞こえが良い新しい演奏を選ぶのがケンメイかな…ということで以下は参考録音です。>

インターナショナル四重奏団 (M&A)1927・6作曲家監修

ラヴェル監修。ラヴェルはけっこう監修が多いような気がするがホントに監修してるのかなあ。例のロン女史とのピアノ協奏曲がじつは自分で振っておらず、フレイタス・ブランコの指揮だったらしいという暴露話(ちゅうかEMIの正式リリースCD)が、著作権切れた(カンケイないか)今になってでてきたり…ただ、録音最初期の室内楽団として知られるインターナショナル四重奏団の演奏は、特徴ある美音に彩られた佳演であることは確かです。…とても一般の鑑賞に耐えうる録音ではありませんが。よくきくと、ラヴェルは交通整理が苦手だったらしいが、そんなぎくしゃくした感じはする。だから、多分しっかり監修はしてるんでしょうが…ガリミール盤が同曲初録音とされるが記載データ上はこちらのほうが先になる。

ガリミール四重奏団 (ROCKPORT RECORDS)1934作曲家監修

ラヴェル監修で昔から知られていた演奏。やっとCD化。この時期ラヴェルはしっかり監修できたのか?死に至る病(絶望じゃなくて脳症)を発症してたはず。1934年って入院した年ですよね。音の誤りくらいは指摘できたにしても…。ガリミールは数々の現代音楽初演で知られた演奏家です。非常に即物的。ポリドール録音。

○ガリミール四重奏団(新)(vanguard)

この演奏はウィーン時代のガリミール四重奏団の録音を知っていたらまるきり違うことに驚かれるだろう。しかし、まるきり違うのは当たり前で、ガリミール四重奏団は戦争をはさんでまったく二期に分かれる。それを説明するには主催者であり唯一のオリジナルメンバーであるフェリックス・ガリミールについて少々説明を加えないとなるまい。

フェリックス・ガリミールはウィーン生まれウィーン音楽院出身のヴァイオリニストである。カール・フレッシュに師事しておりソリストとしてもデビューしているが、既に19歳から姉妹と弦楽四重奏団を組織しており、それが家族を中心とした最初期のガリミール四重奏団の母体となっている。初期から一貫して20世紀音楽の紹介につとめ、特に新ウィーン楽派との親密な関係は抒情組曲の録音で聞かれるとおりである。同年ラヴェルの監修のもとラヴェルの初録音も行っているが、このときガリミールはまだ26歳であった。いずれ極めて即物的な演奏として特異な位置を占めるものである。

1936年当時まだウィーン・フィルに所属していたがナチの影がさし楽団はおろかオーストリアから市民権を剥奪、単身フーベルマンの招きでイスラエル・フィルへ向かい2年をすごすが、その間家族はパリで辛苦をなめたと言われる。

38年NYにわたったガリミールはソリストとしてアメリカデビューを果たすとともに室内楽活動を再始動させる。これが息の長い現代音楽紹介の活動を続けることになるガリミール四重奏団(新)という形になる。WQXR放送における活動の一方でトスカニーニ下のNBC交響楽団のファーストヴァイオリニストとして過ごし、54年まで所属。シンフォニー・オブ・ジ・エアーになってからはコンサートマスターとして2年を勤め上げる。NY市立カレッジで教鞭をとるようになったのが室内楽指導者として有名になっていくきっかけとなる。NYPに所属する一方で長く続くことになるバーモントのマールボロ音楽祭を組織、現代作品を中心に毎年演奏にも加わっていた。

62年ジュリアード音楽院でも教鞭をとりフィラデルフィアのカーティス音楽院では72年来室内楽を指導。室内楽のエキスパートとして各地に招かれ指導を行った。ヒラリー・ハーンも生徒の一人である。その間にも演奏活動は継続し、デッカ、コロンビア、ヴァンガード、ピリオドの各レーベルに録音を残している。99年11月10日にNYでこの世を去った。

つまりガリミール四重奏団は29~39年のウィーン期(ポリドールのSP録音)、1944年以降のNY期に完全に分かれるのである。ウィーン期のものは限られているが、これだけがクローズアップされがちなのは残念なことである。後期では特に幅広いジャンルの弦楽四重奏曲を演奏し、デジタル初期の名盤として知られたのがこのヴァンガードのラヴェル・ドビュッシーの演奏である。セカンドヴァイオリンは日本人。

そしてラヴェルの話に戻るのだが・・・これが「普通」なのである。ドビュッシーよりも盛り上がるし、一部大昔の演奏を思わせる即物的な解釈がみられるが(終楽章の5拍子をここまで正確にとれている録音も無いのではないか!)おおよそ一般的なイメージ内におさまるロマン性を表現した演奏になっており、教科書的に読み解けばじつに有意な内容を引き出せる端正な録音だと思う。現役でもいいくらいだが、ラヴェルの演奏というとアルバン・ベルクをはじめいくらでも「エキスパート」が録音しているわけで、因縁的な部分を知らないと、余り特徴のない、でも引き締まった演奏だぐらいの聞き流しになってしまうのはせんかたないことかもしれない。とにかく、正確であり、しかし客観に落ちていない。音的にやや魅力に欠けると思われるのはおそらく全般としてアメリカナイズされた音にならざるをえなかったというところに尽きるだろう。まあ、この4楽章を聞いてびっくりしてください。バスク舞曲とかそういう問題ではなく実にきっかり5拍子をはめてきているのが驚き。○。

○レナー四重奏団(COLUMBIA)

SPというものはプレイヤー本体から出る音で楽しむのが一番で、電気的に処理してしまうと倍々でノイズが強調され、音楽部分がぼやけてくる。デジタル化したら尚更、これはSPで聴いていると生々しく細部まで聴き取れるのだがケーブル経由で最終的にはデジタル化してしまうと何だがぼーっとしたSP復刻CDみたいな音になってしまう。うーん。従って聴感も違う。うーん。SPで聴いていると細かいところが気になる。一音だけ、違うのではないか(間違ったのか勝手に「伝統的なふうに」変更をしたのか・・・精密機械ラヴェルは一音たりとも変更したら崩れてしまう)、とか、八分休符が無い、とか、カペー四重奏団の(当時としては超)現代的スタイルのインパクトに隠れてしまった録音と言われるが基本的に物凄く巧く柔らかく音色も優しく美しい、作為的な強弱や極端でデジタルなテンポ変化のつけ方が、少し他の雑な団体と違っていて、まるで自作のように独特な解釈だが、自然、ボウイングや音響処理には若干ドイツ的な部分がみられる、とか色々感じるところがあった。しかし、電子化したところ、単に呼吸するようなルバートの巧みさとか、ポイントでのオールドスタイルの大仰な見得切り(ためてためて一瞬間をあける)みたいなテンポに起因する目立つ部分ばかり耳に届く。言われているほどオールドスタイルではない、むしろカルヴェなど後代のカルテットのほうがよほどやらかしている。

この団体を表舞台に引き上げたラヴェル自身は眉を顰めたであろう箇所は随所にあるが、今の耳からするととても面白い、かつ、それが下品にならない寸止めであり、音色も艶はあるが品よく聴こえる。カペーなどよりよほど面白いのだが。そもそもラヴェルゆかりの団体、SPそのままの音で巧く復刻できないものかなあ。

激しいフレーズでエッジの立たない1stの発音が少しのアバウトさとともに印象を悪くしている可能性はある。エッジは録音のせいだろう。二、四はいささかリズムを取りすぎの感はあり前進力が時々失われ、一方先へ流れがちで緩いかもしれない。一も時々瞬間的に走る。三はかなり起伏がなく、印象がない。このあたりカペーには劣ると受け取られた由縁か。ドイツ的と書いたが微妙なハーモニーがしっかりした低音と旋律音域の対比という非構造的音響感覚のもとに不協和的にしか感じられないところもある。録音的に捉えられない部分かもしれないが。それでいてアンサンブルは綺麗に立体的に出来ているのである。

ちなみに最近よく出ているUSB接続のVESTAXの安物ポータブルプレイヤーで録音したが(針も備え付けの通常のステレオ用・・・DJ用ではあるVESTAXの針ははっきりとした音が案外いいので本式プレイヤーでも使ってます)、とてもよく使える。機構はシンプルでアナクロだからそんなにヘビーユースしなければ、交換針式のものでいちいち交換するまでもなく(同価格帯でSP針が別売りされている他社機種もあるが)ほとんど傷もつかなさそう。重量盤なら安定しているので、プレイヤーからはみ出す形式でも歪みは出ない。さすが売り切れまで出るタイプの機種だ、ただ、付属ソフトは優秀なのだがバグると始末に終えないので注意。

カルヴェ四重奏団(LYS)

ドビュッシーの希代の名演に対していささか個性が薄まっている感じ。なまめかしさ後退。

○カペー四重奏団(EMI他)1927-28・CD

ラヴェルの演奏方法として当初一般的だったのは寧ろかなり非ロマン的な演奏だったのではないか、とインターナショナル四重奏団などラヴェル監修とされた録音をきくにつけ思うが、カペーは違う。カペーも確かに即物的な解釈で演奏者独自の特徴を出さない方向にまとめているのだが(これはドビュッシーも同じ、のちのブダペスト四重奏団なんかに似たところがある)音色にはロマンティックな時代の奏法が高度な技術に裏づけされた形で注意深く反映されそこが違う点となっている。あからさまに下卑た感情的な音だと客観的解釈には乗りにくいし(そういう演奏もこの曲には多いが)非人間的なまでに音色を金属質にしてしまうとそれはそれで寄る瀬のない演奏となり鑑賞するのが辛くなる(分析するのには都合がよい)。後者はガリミール初期を言っているのだが、しかし、バランスという意味でも演奏自体の完成度という意味でも、全般地味ではあるものの弦楽四重奏史に大きな足跡を残すオーソリティなりの若い楽団を寄せ付けないプロフェッショナルなものが聞けるということでこの演奏は一聴の価値はある。○。音盤のプロデューサーによってけっこう音が違ってくるのでそこも注意。

ブダペスト四重奏団

ユウメイだけれども私はあんまりひかれない。音色が地味もしくは個性に欠ける。こういう演奏なら現代の新しく明晰でディジタル録音でバランスいじりまくった(暴言だなこりゃ)録音のほうが数億倍いいような。ブダペストはところどころ独特の解釈が入ります。

プロ・アルテ四重奏団(ANDANTE/HMV)1933/12/3-8・CD

とても正確で、奇ををてらわぬマジメな演奏だ。スピードの極端な変化は避けられ、音はひとつひとつが明瞭に発音されポルタメントのようなものは殆ど排されている。私のようなすれっからしはこういう優等生的な演奏にはケチをつけたくなるものだが、先へ聴き進めるにつれ微細なニュアンス付けや音色への細心の配慮が聴こえてきて、うーん、と唸らせられる。1、2楽章あたりは「つまらん」のヒトコトで斬り捨てる人がいても仕方ないと思うが、3楽章のようにやや捉えどころが無く言ってみればもっとも印象派的な音楽は、微妙なハーモニーが綺麗に決まらないと成り立たないものだから、ここにきてはじめて「正確さ」が威力を発しはじめる。3楽章は必聴。4楽章は前半楽章ではやや後退していた艶めかした音色が前面に立ち耳を惹く。とはいえ基本的に即物的な演奏でありテンポの伸縮のない「棒」のような解釈には若干疑問を感じる。録音は悪い。迷ったがやはり地味で客観的、ノリが悪いから無印。

○クレットリ四重奏団(新星堂EMI,COLUMBIA)1929/3/22・CD

ここへきてクレットリにかえると、物凄い雑音と弱音のSPからの復刻であっても、物凄いしっくりくるのである。収録時間の制約もあるにせよこの曲は余りゆっくりやってしまうと底が見え瑞々しさも失われてしまう。平準化された往古の音質とはいえ明るくも情緒的に膨らみのある音を皆がもち、言われるほど均質化された音楽が噛み合い過ぎて浮遊感うんぬんいったことは少しもなく、各自がラヴェルのえがいた明確な音線をあくまでしっかりソリスティックに表現しフレージングをつけ、それを力業でテンポとリズム(あやうかったり失敗したりしてもリズムさえあっていれば流れは作れる、むしろ楽譜の細部に拘泥し聴く者にコキミいいリズム感を与えられないほうが問題なのだ)をあわせるだけでアンサンブルとして聴かせている。ラヴェルは縦の作曲家だが旋律面では横の流れが意外と重要となる。性急で弾けてないところも多数聴かれるとはいえ、カペーの即物スタイルに若さと色を添えたような往年のフランス派同時代の音楽表現力に耳を奪われた。ファーストの高音域が録音のせいか痩せて子供ぽく聞こえたりチェロのナヴァラの個性が浮き立たなかったり、これを第一に推す気にはならないが、弟子孫弟子クラスの団体が失ったものがここにある。○。板起こし。

○レーヴェングート四重奏団(DG)LP

独特の演奏。面白さで言えばカップリングのドビュッシーに軍配があがるが、技術面もふくめ完成度はこちらのほうが高い。終楽章の5拍子が最初は最後に1拍「ウン」と思い直すような拍が入って6拍子に聞こえる(3拍子が2拍子になっているバーンスタインの「ライン」冒頭みたいな感じだ)のがちょっと面白かった。無論解釈であり、先々のつじつまはあっているし、途中5拍子に戻るときにはしっかり5拍子で聞こえるからいいのだ。繰り返しになるが線が細く力感がない、小手先は巧いが音色が単純というハンディ?をかかえた団体なので、工夫をすることで独自性を見せているところがある。4本が重なったときの音の純度が高いことも付け加えておこう。4本が音色的にも技術的にも平準化されているがゆえの長所だ。この団体の短所でもあり長所でもある。弱音でのノンヴィブ表現にも傾聴。この演奏は全楽章解釈に手を抜かず起伏があって聞かせる力がある。但し・・・私は2回目で飽きた。ので、○はひとつにとどめておきます。でもぜひいい音でCD復刻してもらいたいものだ。,

○レーヴェングート四重奏団(CND)LP

モノラル末期のフランス録音。ドビュッシーよりラヴェルのほうがいいという特異な団体である。そくっと入り込むような1楽章から、終始穏やかできちっとした(一種お勉強ふうの)演奏が繰り広げられるが、技術的に完璧ではないものの、演奏的に隙がない。まあまあ。VOX録音があるのでこれに拘る必要はなく、モノラル末期特有の重厚な音があるとはいえ状態のいいものは高い可能性があるので(私はひさびさディスクユニオンに行って、あの大量消費中古店でもそれなりの値段がついていたものを、半額セールで買ったのだが、それでも裏表音飛びまくりの磨耗ディスクだった・・・半額じゃなければ何か文句言ってるところだ)。

レーヴェングート四重奏団(VOX)LP

ステレオ録音。ドビュッシーよりは柔らかくニュアンスのある演奏。ハーモニーの変化や個々のモチーフの表現は実によく計算されて明確であり、「ここで内声部に既に次のモチーフが顕れてたのか!」みたいな発見がある。ただ、やや危ないというか、変なところがある。このストバイ(ファーストヴァイオリン)、刻みが微妙に拍から遅れるのはどういうわけだろう?2楽章の中間部前・下降音形の三連符の刻みや4楽章の一部、「弾き過ぎて」リズムが後ろにずれていくように聞こえる。他の楽器がちゃんと弾いているので破綻しないで済むのだろうが、ちゃんと刻めないのか?と疑ってしまう。また、2楽章で中間部の最後・副主題の再現前に印象的なハーモニクスを含む跳躍があるが・・・弾けてない!ぐぎっ、というような力んだ音がするだけである。決して技術的に劣っているのではなく、こういう弓圧を思い切りかける奏法なものだから軽くトリッキーな場面で音の破綻をきたすことがあるのだろう。技術うんぬんで言えば1楽章などの分散和音のピチカートはハープと聴き枉ごうばかりの美しさでひびいておりびっくりする。こういうことが出来るのだから技術が無いわけではなかろう。まあ、3楽章の聴きどころとなっている美しいアルペジオがちっとも響いてこないなど、ちぐはぐな技術ではあるのだが。そのアルペジオに載って入るチェロ(だったかな?)が美しい。楽団によっては低音楽器による主題提示が今一つ聞こえてこないこともあるから新鮮だ。これもストバイのアルペジオが下手だから際立ってきたのだが・・・あ、下手って言っちゃった。総じて無印。,

○パスカル四重奏団(concert hall)LP

1楽章は凡庸。しかしこれは明らかにラヴェルである。ラヴェルではない勘違い(決してネガティブな意味ではないよ)の多い時代なだけに安心して聞ける面もあるが、つまんない、という印象のほうが強い。カペーのスタイルを彷彿とする。2楽章はかなりやばい。ピチカートがずれてる・・・これが何と終始ぎくしゃくしたテンポ感の中でえんえん続くのだ。再現部まで。これは・・・である。しかし、その次の緩徐楽章、ここで初めてこのフランス派の先達の威力が発揮される。このラヴェル旋律の持てる感傷性を引き出せるだけ引き出した、余韻のある非常に心根深い演奏ぶりで、音楽の美しさと、ほのかな哀しさに涙する。これができたから半世紀以上あとの現在も名前が残り続けているのか。。即物的印象の大きい演奏録音もある団体だが、この歌い上げ方・・・けして「情に溺れて」はいない・・・はほんと、白眉だ。そして4楽章は見事に盛り上がる。ブダペストあたりの現代的で厳しい演奏とは違うけれども、古いロシアンスタイルのようなデロデロぶりとも全く違う、フランス派のカッコイイ盛り上がり方をすべらかに堪能できる。総じて○。前半楽章で投げ出さないこと、逃げ出さないこと、それが大事。

スタイヴサント四重奏団(BLIDGE)CD

ひどく音が悪い。モノラルは当然の事、何やらプライヴェートな実況録音並の録音状態で、とくに高音域がかなり聞こえないというのは痛い。全体的に地味であり、柔らかい音の競演には魅力を感じるものの(1楽章や2楽章中間部、3楽章)スペイン趣味の発露が甘くあまり魅力をもって響いてこない。解釈があまりに平凡ということもある。とにかく地味だ。聴いていて正直飽きた。もう一度聴きたいと思わない。そういう演奏。

○カーティス四重奏団(westminster)

音色、方法論的にラヴェルには適した団体だと思ったが、余りに大胆な表現のデフォルメぶりに1楽章冒頭から引いてしまう。また強い音になると音色が損なわれ単純に留まってしまう、但し3楽章は素晴らしく例外である。優しい音に切り替えるととても響いてくる音楽のできる団体なのだなあと思った。立体的な書法を敢えて強調せず旋律を浮き立たせようとするところもあり、往年の団体らしさが感じられる。ラヴェルの仕掛けたウラの響き動きが聞こえない場面も多々、もちろんモノラルの旧い録音のせいでもあろうが。4楽章はかなりカタルシスを感じさせるが、ちょっとテンポ的には落ち着いている感も。○。

パガニーニ四重奏団(RCA)LP

この団体はドビュッシーのほうが圧倒的にいいが、加えて2楽章中間部前半の大幅カットがあり、いくら演奏が力強く最後まで聴きとおせるものとなっていても、どうしても違和感はぬぐえない。1楽章の展開部で裏のトリルの拍数をいじったりもしており、こんにち復刻されないわけがわかる。純粋に演奏として、やや色味が足りない。素っ気無くお仕事的にやっている。1楽章冒頭でファーストの音が裏返ったりしてもそのまま録音してしまっているのは、スタンスの乱暴さがうかがえるというものだ。録音システムの違いでKARP盤とは異なるブダペスト四重奏団を思わせる渋い音に聞こえるが、それゆえに響きが重くフランス的な軽さがいまひとつ浮き立ってこない。スピードはあるのに重いというのはよくあることだが。無印。メンバーはテミヤンカ、ロセールズ、フォイダート、フレジン。この団体はいわば楽器が主でメンバーは従なのだろう、メンバーはなかなか固定されない。楽器は東京カルテットに引き継がれているそうだ。

パガニーニ四重奏団(KAPP)LP

ドビュッシーとラヴェルのカルテットはよくカップリングされる。確かにハーモニーの移ろいには類似したものがあるのだが、演奏スタイルは全く異なるものを要求する(だいたい1楽章の出だしからしてリズム処理と奏法が異なってくる曲だ)。だからドビュッシーがよくてもラヴェルがイマイチ、という演奏によく出くわす。ラヴェルはドビュッシーのようなプラスアルファを要求しない。音だけを譜面どおり組み上げるならば、練習だけでそれなりのものに仕上がる(リズムに慣れればドビュッシーより曲になりやすいだろう)。しかし、「何か一つ突出させる」のは、なまじの解釈では不可能だ。微に入り細に入る綿密な設計と、それを「自然に」精緻な構造の中に組み込む難しい作業が必要とされてくる。ドビュッシーは感情任せで弾くことができるが(そうすることを要求する譜面だが)、ラヴェルは「感情をいかに抑えるか」で決まってくる。ミスが露骨に出てしまうという点でもドビュッシーより余程怖い。パガニーニ四重奏団の演奏も悪くは無いのだが、一部強音の表現で「弓を弦にギリギリ押し付けるような音」が出てしまっており、ラヴェルの繊細な世界をガラガラ壊している。ドビュッシーは録音のせいもあるだろうが穏やかな方向で成功しているのに、ラヴェルは特に2楽章あたりで耳につく強音があるのである。逆に曲想の浅い凡庸な曲に聞こえてしまう。ほんとに難しい曲だ。○にできそうなものだが方法論が意外と凡庸なのとドビュッシーとの落差で無印にしておく。

○ヴラフ四重奏団(SUPRAPHON)1959・CD

怜悧な表現の得意な東欧派にとってドビュッシーよりラヴェルのほうが適性があるのは言うまでもないが、ラヴェルのカルテットの何が難しいかといって、譜面どおり演奏しないと形にならないとはいえ、その逐語訳的な表現の上に更にどういう独自の語法を載せるか、フォルムを崩さず何を表現するか、解釈の幅を出すのが難しいのだ。ヴラフは「何も載せない」。ここには非常に純度の高い演奏がある。そこに個性など純粋に楽器の音色以外にない。これがやりたかったことなのか、往年の東欧派の音色を聞きたいというだけでこれを聴く意味はあるが、ただ、ひたすら緩慢なインテンポで、人工的なメリハリのついただけの演奏振りはいささか退屈である。アナログで聴くと違うのだろうか。モノラル。

○カルミレッリ四重奏団(DECCA他)1960・CD

正直奇演である。上手いんだか下手なんだかわからない、線は細いけどトリッキーな動きがめっぽう巧いカルミレッリ女史と、じつはけっこう支えになっていてこれがないとバラバラで成立しないであろうチェリスト、その他二人(怒られるか)、1楽章は正直「なんだかよくわかんない」。2楽章はトリッキーな楽章だけに女史のソリスティックな技巧が見せ場となるはずが・・・中間部あたりとかいろいろやろうとしているのはわかるのだが・・・ええ・・・こんなに弾けてないのってアリ?しかし3楽章4楽章、とくにクライマックスの4楽章ではここぞとばかりに見せ場をつくり、女史の細い音が繊細な絹の織物のような動きを見せて秀逸である。つか、こんな「いじり方」をした団体は初めて聴いた。「譜面をいじっている」のである。すごい。つか、なんで人気があるとされてるのかわからん。面白かったけど、アナログ盤のほうが楽しめるでしょう。CDは音が平準化され硬質でイタリア四重奏団のときもそうだったけど、室内楽にかんしては音楽が面白くなくなってしまう。ほんとはこんなアンサンブルとしてもどうかと思うような団体に印をつけるべきではないのかもしれないが、面白いと思ってしまったので○。カルミレッリ四重奏団には恐らく同じ音源だと思うがモノラルのLPもある。原盤DECCAでプロコの2番とカップリングされていた。元はステレオ収録。

○パレナン四重奏団(EINSATZ/PACIFIC)1950年代初頭・CD

パレナンにしては躍動的で前半楽章では感情的な昂りも感じさせるが、それは主として音色的なものでありテンポはそれほど揺れずアンサンブルはいたってしっかりした後年のスタイルに沿っている。もちろんそういった若々しさ力強さ(+雑味)が醸される理由の大部分は団体のまだ初期の録音だからというところに帰するだろうが、もう一つ、録音の残響がぜんぜん無く、デッドと言っていいくらいであることにも起因していることは間違いない。そのような状態でなお十分に「聴ける演奏」であることこそが一流の演奏家のあかしとも言えるのだが、リアルな肌触り、剥き出しの運動性はひとえにその録音環境(及び復刻)によって生み出されたもので、神経質な向きには薦められないが、慣れた向きには残響バリバリで補正かけまくりのデジタル録音には無い、狭い木造のスタジオで繰り広げられるライヴを現場で聞くような感覚で楽しめると思う。○。

○パレナン四重奏団(EMI)1969/7・CD

最近妙に評価が高まっている感のあるフランスの名カルテットだが、現代の演奏スタイルの先駆的な部分があり、遅いテンポできっちり音符を揃えていく、やはり手堅さを感じる。とくに中間二楽章はどうも客観的に整えすぎて音楽が流れていない。余裕があるのかといえば二楽章中間部後半(もしくは再現部)のピチカートアンサンブルは遅いテンポ設定にもかかわらず縦のずれそうな危なさを感じさせ、やや不調ぶりが伺える。音色にも余り魅力はなく、かといってヴィブラートには更に前の世代を思わせる艶もあり魅力がないわけではないのだが、デジタル音源化のせいだろうか、全編通じて音色という点からは殆ど耳を惹かれない。1楽章はしかしそれでも情緒纏綿なフレージングが丁寧に音楽の起伏をつけていてゆっくり浸れる要素はある。4楽章も依然楽譜に忠実であろうとする余り5拍子の刻みがしゃっちょこばって聞こえたり不自然な点もないわけでもないが、特徴的な解釈がみられ適度に激しそれなりの集中力も感じさせる。録音が余りよくない(ホワイトノイズが気になる)せいもあるが、全般に音楽が拡散傾向にあり、ラヴェルなりの緊密さがやや希薄な感じがした。両端楽章を評して○。

○パレナン四重奏団(ensayo)

スペイン録音とされているもの。解釈的にはCD化されている録音と殆ど変わらない。ファーストのパレナンの技術に若干不安がある。精度と予定調和的なルバートの人工的なマッチングぶりを売りとした団体にしては、あれ?精度・・・という指の廻らなさが聞かれる箇所がある。全体のテンポの落ち着きぶりと、基本的にはメトロノーム的な流れが、技術的問題に起因するような気すらおぼえる。普通に美しい演奏ではあるし、先にのべたルバートが効果的な箇所もあるが、まあ、CDになってる音源で十分かも。録音はよい。エンサーヨからはドビュッシーとのカップリングのものやストラヴィンスキーの三つの小品なども出ていた。

○ヴィア・ノヴァ四重奏団(ERATO)CD

パレナンの後輩にあたり67年より今も活動を続けているフランス屈指の弦楽四重奏団である。しかしパレナンより随分とこなれた解釈を高度な技巧にのせた優秀録音が数々のこされており、ラスキーヌなど名手との共演も含まれているがいずれERATOなのでBMGが復刻するより他聴く手段はない。幸いなことに現役盤のようだ。実演は実はかなり技術的にきつかったりするのだが(音色は逸品である)、録音マジックととらえておこう。これは正直スタンダードなラヴェルの演奏としては恐らく史上最高レベルであると思う。二楽章でつまづくフランスの団体も多い中この演奏では、スピードを失わずスペイン情緒も透明感のある響きの中に水が撥ねるように散りばめながら、とくに中間部の掛け合いアンサンブルを楽々と、しかし完璧にこなしており、スピードと情緒が過度にならない一方で客観的に整えるような方向にもいかずバランスのとれた、曲を最大限に生かした演奏を行っている。終楽章の盛り上がりも素晴らしくこれ以上望むべくも無い。ならなんで○にとどめているのか?スタンダードすぎるからだ。

○シャンペイユ四重奏団(CLUB FRANCE他)1954・CD

レーベル名はてきとうに略しました。51年の旧録音は正真正銘のレア盤で異常な高値のつくLPですが、せっかく新しいほうが(ピアノトリオ未収録など問題はあるものの)安値でボックスに入っているのでこれで安定した音を楽しみましょう、といいつつ、CDのくせにステレオ機で再生すると音がよれるのはいかがなものか。ファーストが雄弁な非常に巧い団体の、模範たるべき超名演なだけに気になった。少し硬質だけどバランスの絶妙な音で完璧に歌い継いでいく。かなり激しいが技術にはいささかの乱れもみられない。若干丁寧に重い程度か。強烈さはないが雄弁。○。旧録音も聴いてみたい。フランス派を代表する団体です。

○ブルガリア四重奏団(harmonia mundi)

この団体にしてはけっこう熱の入った演奏。ただ、やはり印象に残る表現はなく、楽曲に忠実な演奏というより他ない。2楽章など技巧のあるところを見せている。精度面では問題ないだろう。○。

○ベートーヴェン四重奏団(meldac)1961LIVE・CD

懐かしい音だ。カルヴェあたりを彷彿とする非常に感情的な音だ。比較的乱暴というかぶっきらぼうな力強さがあるが、艶のある音色には旧きよき時代への感傷が確かに宿っている。透明な響きの美しさを煽る演奏が好きな向きには薦められないが(モノラルだし)、単純に面白さを求めるなら(決して物凄く変なことをしているわけではないのだが)薦められる。リアルなロマンチシズムだ。ライヴならではだが二楽章のピチカートなどちょっとずれたり外したりしている。しかし激しさだけではなく流れとフォルムがきちっと守られており、流麗さも弾むリズムもないがリアルなアンサンブルのスリルを味わえる(うーんスリリングな面白さがあるかといえばそういうこともないんだけど)。実演なら迫力あっただろう。3楽章もリアルなロマンチシズムが横溢する。しかしぶよぶよにはならない(この曲だしね)。4楽章は絶対音感のある人は嫌がるだろうが、「音程」に特色がある。ファーストがかなり高めにとっていて、他の楽器もそれぞれ「極端な音程」をつけている。だから4本で協和するはずの響きも揃わない。しかしこれは実演ならではの感覚で、正規の音程でとるよりもボリュームと一体感があるという、何とも説明しがたい状況の生み出したものなのだ(実際はファーストのチューニングが狂ってきたけど4楽章アタッカだから直す隙がなく指で調整しただけだったりして)。収録を前提としていないライヴの作法だからそれが雑然と感じられても仕方ない(録音状態はロシアのものとしては比較的良好)。音色も(カルヴェ四重奏団だってそうだけど)揃っていないので、とても「正統派ラヴェル信者」には薦められないが、特に後半の盛り上がりは「ここまできてそう上り詰めるか!」といった一種異様な迫力があり特筆できる。私はけっこうこの最後あたりの自主性を保ちながらの丁々発止は好きだ。全体としては○。いわゆる旧来の解釈ぶりであり余り特徴的なものはないが、単独では十分楽しめる。

○ボロディン四重奏団(melodiya/CHANDOS)CD

オリジナルメンバー(*バルシャイのいた初期ではない)による有名なメロディア録音。ステレオ初期で音はよくはない。更にCD化に伴うデジタルリマスタリングによって元々の録音瑕疵が明らかになってしまうと共に音が硬く痩せてしまいふくよかな音響が失われている(ぽい)ところは非常に痛い。硬質な透明感が持ち味になったのは後年のことであって、オリジナル時代においては必ずしもそういう操作・・・特に擬似的なサラウンド効果の付加による不恰好にレンジの広い音響・・・はいい方向に働かない。ロマンティックと解説に書いてありながらも酷く人工的に感じるのはそのせいだろう。最近復活したメロディヤが出しなおした盤ではどうなっているか知らない。

この楽団はロシアの楽団とはいえ旧来の艶めいた「音色のロマン性」を煽る方向にいかなかったのが特徴的である。その点独特の位置にあり(続け)、それはこのオリジナルメンバー時代において既にはっきりとあらわれている。オリジナルメンバーならではの「ロマンティック」というより「特異に」恣意的な解釈はともかく、金属質で透明な音響を心がけ、特に「ノンヴィブラート奏法」の多用、スル・タストといった特殊な音を出す奏法の導入によって諸所の静謐な音響に独特の境地を編み出しているのは特筆に価することだ(このノンヴィブによる吹奏楽のようなハーモニーこそボロディンQをボロディンQたらしめているものであり、ドビュッシー・ラヴェルの一家言ある解釈団体とみなされるようになったゆえんである)。ドビュッシーにおいては余りうまくいっていないように思われるこの独特のスタイルだがラヴェルにおいては大成功であり、ラヴェルにこのような独自解釈の恣意性を持ち込んでここまで成功できたのはボロディンQだけではないか。しっくりくるのである。金属質の音はラヴェルにお似合いだし、ハーモニックな音楽作りもハーモニーに拘ったラヴェルに向いている。特に3楽章の解釈は絶妙と言ってよく、いつ果てるともない単音の伸ばしや(こんなのおかしいと思うほど長い)RVWかとききまごうような教会音楽的なノンヴィブの響きに「これはラヴェルじゃない、けど、こういう曲だと言われたら、これしかないように思ってしまう」ほどの説得力である。ノンヴィブにモノを言わせる近現代の室内楽演奏様式というのはソヴィエト発のものと言ってよく、それが古楽演奏の流れにいったかどうかは知らないし興味もないが、ボロディンQのスタイルがおおいに影響したことは想像に難くない。1楽章も言われるほど遅くはなく、2楽章がややリズム感が薄いが、3から4楽章への流れはすばらしい。

これがスタンダードではない。久しぶりに聞いて、ボロディンQがスタンダードだと思っていた学生時分を恥ずかしく思うくらい、これはラヴェルの典型とは言えないものだけれども、聞いて決して損はしない。ドビュッシーは珍演と言えるかもしれないが、ラヴェルは珍演と呼ぶには余りに板についている。アナログで聞いていないので◎にはできないが、○でも上位という位置づけに誰も異論はないのではないか。のちのボロディンQは完全に響きと現代的客観演奏の方向にいってしまった感があるが、これはその初期における、まだ完成されてはいないけれど、そうであるがゆえに魅力的な一枚である。

○ボロディン四重奏団(BBC,IMG)1962/8/29live・CD

この団体にしてはものすごく情緒纏綿なかんじの演奏である。この遅速はちょっと調子が悪かったのかもしれない(もっとも後年の演奏でもスピードはそれほど上げられないが)。とくに2楽章の中間部から再現部への複雑なピチカート・アンサンブルが完全に「崩壊」しているところはちょっと驚いた。ラヴェルを得意とする団体とは思えない非常に危険な楽章になっている(パスカルの失敗を思い出した、のるかそるかの一発勝負みたいなところのあるパッセージではある)。カップリングのボロディン2番(とあとショスタコ8番)に比べて妙に人間臭いことは確かで、演奏の完成度で言えばまったく話にならないとはいえ、面白みでいえばずっと上である。私はこのラヴェルは好きだ。無印にする人もいるかもしれないが私は○にしておく。往年の演奏解釈を彷彿とさせる。

○イタリア四重奏団(EMI)CD

物凄くゆっくり演奏だけど、この曲に関して言えば(とくに1楽章は)それがとても心地いい。既にして精巧で隙の無いラヴェルの手法を裏の裏まで堪能でき、内声のマニアックな仕掛けもはっきり聞き取れ新鮮な興味をおぼえる。ただ、2,4楽章は余りにゆっくりすぎだ。丁寧、と誉めておいて○をつけるし、ドビュッシーよりは音に魅力を感じるが、それほど取り立てて騒ぐ演奏ではない。唯一速いのは1楽章の急峻部(繋ぎの部分)くらいか。

○ペーターゼン四重奏団(capriccio)CD

生気が無い。といったら悪いので手堅いとしておくか。いくらラヴェルだからといってインテンポ守りすぎ。表現に伸びやかさや多少の茶目っ気もあっていい旋律音楽だと思うのだが、長い音符でもきっちり型に収めようと制御しているような感じがした。技巧的問題があるのか?とはいえ、ちゃんと聴ける演奏にはなっている。○。

フィーデル四重奏団(fontec)1979/4/23

先入観で聴いてはいけないと思うのだ。確かに現代日本ではこれより巧くラヴェルを紡ぎだす団体はいる(だろう)し、音色的にもやや硬く金属質で柔軟性がないから個人的には人のぬくもりがなくアウトなのだけれども、ラヴェルにはまさに金属質な正確な音程でピアノ的とも言える音価の正確さだけが求められる。それならもっとボロディン並みに磨き上げられた演奏なんていくらでも、と言いたいところもあるが、ちょっと面白かったのは譜面にない表現をつけるところが若干見られたことである。そういうワサビの効いた演奏が私はとても好きだ。それならもっと創意を、と言いたいところもあるが、でも、全般になんとなく、若いけれど、よかったです。ム印。
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ラヴェル マ・メール・ロワ (2012/3までのまとめ)

2012年04月10日 | Weblog
「マ・メール・ロワ」

バレエ全曲版

◎ロザンタール指揮パリ国立歌劇場管弦楽団(ADES他)1959・CD

ロザンタール極めつけの一枚。ロザンタール追悼盤として再復刻されて間も無いので、手に入るうちに手に入れておきましょう。時には不器用な様さえ見せるロザンタールの指揮だが、ここでは「完璧」である。子供の視線で見る夢幻の世界をじつに繊細な感覚で紡ぎ出している。ラヴェルがその書法に込めた淡い感傷性をこれほど的確に表現してみせた演奏は無いだろう。半音階的に書かれた終曲などロマンティックでさえあるが、ロザンタールはとても深い共感をもって慈しむように表現しており、でもあくまで軽やかで美しい響きを維持しながらであるところにこの人の絶妙さを感じる。また27分余りに及ぶバレエ全曲版であるところにも価値がある。ラヴェル自身の手になる間奏曲の美しさに胸打たれる。作曲家自ら綿密な計算のうえで挿入したそれぞれの間奏曲の放つ個性、その存在によって自然で流れるような場面展開が促され、連綿と間断無く続く音楽絵巻き(と書くと日本の鳥獣戯画みたいなものを想起するかもしれないがあくまで西欧の中世民話絵巻きみたいな感じ)にただただ浸りきることができる。ラヴェルの管弦楽曲で長いものというと歌劇を除けばダフクロくらいのもので、ある程度ボリュームのあるものを求めるならこの全曲版を聴くことを強くオススメする。高音打楽器を多用したちょっとストラヴィンスキー風なものもあれば終曲への間奏曲のようにそれまでの楽章のモチーフが断片的に引用されその中から終曲冒頭の重厚な和音が響き出すというちょっと歌劇ふうの発想のものもある。この曲はじつにロマンティックというか、沫のように次々とはぜては消える儚さ、数々の思い出のようにもう二度とは戻らないものの切なさ、そうであるがゆえの愛おしさに震えてしまう。そして続く終曲のただただ甘い響きの余韻に浸りしばしプレイヤーを止めて黙り込むほどの感傷をあたえる。ディーリアスを想起する人もいるかもしれないがあながち外れた聞き方ではないだろう。この盤は録音バランスは変だが、それを押しても余りある非常に純度の高い幻想である。◎。ロザンタールの盤の中では一番好きな演奏だ。

○アンセルメ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1951/12/21live

全曲と書いたが抜粋かもしれない。スイスの硝子細工師アンセルメ向きの作曲家・楽曲であるとともに、ボストンの硬質な音も技術的な高さも、小規模アンサンブルもしくはソロの目立つ、繊細で無駄の無い構造を持つこの曲に向いている。録音が悪く、その点不利ではあるが、ミュンシュ的な曇ったロマンチシズムや情感の煽り方とは違った角度から、スコアそのものに明るい光を照射して、オケに投影しているというのか、どうにも文学的表現では説明しづらいものではあるのだが、とても「ラヴェルらしい」演奏と思う。○。弱音部の音の交錯がひときわ美しいがゆえに録音の弱さが惜しい。

○モントゥ指揮ロンドン交響楽団(PHILIPS)1964/2LONDON・CD

何気ない始まりには意表を突かれた。不思議とリアルで幻想がやや足りない。相変わらず色彩豊かな美しい演奏なのに、これは録音がクリア過ぎるせいか。でも一旦流れに乗ると小気味よいテンポに肩が揺れてくる。速いテンポを殆ど崩さず音色変化や巧みなフレージングで起伏を付けていく。耳を惹かれたのは高音打楽器やハープ、弦楽器のピチカートのかなでる金属的な音の交錯。随所で強調され、テンポを乱す寸前のところでとても美しく、そしてクラシックらしくない美声をはなっている。総じて一本調子であっさりしてはいるが極めて抒情的な、イマジネーション豊かな演奏。オケの何ともいえない艶めかした音とそれを余す事なく伝える録音に拍手。程よい雑味が一種魅力になっている。

~2.親指小僧

モントゥ指揮パリ交響楽団(LYS/GRAMOPHONE)1930/1・CD

鄙びた音がいかにもこの時代の録音といった感じだが、弦楽器のポルタメントも織り交ざる表現にはちょっと感傷的な雰囲気も篭り、やや生々しいが流れは非常にいい。純粋に音楽としては聴き易いが、解釈にもっと色をつけて欲しい気もする。無印。

組曲(7曲)

◎アンゲルブレシュト指揮フランス国立放送管弦楽団(TESTAMENT/DUCRET-THOMSON/LONDON/WING)1955/2/24・CD

かつてオケをシャンゼリゼ劇場管としているものがあったが、テスタメントで正式復刻リリースされるにあたってフランス国立放送管と表記されるようになった。契約関係の模様。あえて避けてきたのだがこの曲には少々複雑な事情がある。まず、ラヴェルの多くの管弦楽作品がそうであるように、原曲はピアノ連弾曲で、1910年にかかれている。「眠りの森の美女のパヴァーヌ」「親指小僧」「パゴダの女王レドロネット」「美女と野獣の対話」「妖精の園」の5曲である。管弦楽版のマ・メール・ロアはその翌年に編まれたものだが、曲数・曲順は同じである。一般的にはこれがマ・メール・ロア組曲と呼ばれるものである。しかしさらにこれを本人がバレエ組曲として再編したものが存在する。曲数は7曲に増え各楽章間に5つの間奏曲が加えられ、さらに順番も変えられている。「前奏曲」~「紡ぎ車のダンス」、間奏曲、「眠りの森の美女のパヴァーヌ」、間奏曲、「美女と野獣の対話」、「親指小僧」、間奏曲、「パゴダの女王レドロネット」、間奏曲、「妖精の園」というもの。バレエとしては12年に初演されている。マ・メール・ロア全曲というとこれをさすと言っていいだろう。個人的には「パヴァーヌ」からいきなり始まる原曲版は馴染めない。全曲で慣れ親しんできたからであり、むしろ邪道なのだが、それでも序奏なしで本編に突入するような感じは否めない。さらに間奏曲を全てカットした版も存在する。これはアンセルメが編んだもので、アンゲルブレシュトなどはそれに倣っている(但しアンセルメは5曲版の録音しか遺していない)。私はあまり違和感なく聴ける。さて、この盤(ダフニス全曲とのカップリング)はかねてよりマニアの間で超名演として語り継がれてきたもので、モノラルではあるがしゃきしゃきした歯ごたえで結構構築性のある半面夢見ごこちな雰囲気にも欠けず、非常に充実している。ただ、テスタメントで復刻されたものを聴くと、ロンドン盤のような少々篭もった重心の低い音に聞こえる。いかにもドイツ・ロマン派ふうの復刻音なのだ。デュクレテ・トムソン盤のシャンシャンいうような硝子のような何ともいえないまばゆい明るさと幻想的な雰囲気がそうとう抜けている。ま、舞台上の雑音まで拾う良好な録音ではあるのだが、もっと抜けのいい明るい音にしてほしかった。デュクレテの印象を含め、◎としておくが、テスタメントでは○程度。もっと浸らせてくれい。ウィングのCDは板起こしのままの音で、比較的デュクレテの音に近い解像度であるものの雑音がかなり耳障りである。もっともLPに比べればマシか。

○フレイタス・ブランコ指揮ポルトガル国立交響楽団(STRAUSS)1957/12/28放送LIVE・CD

間奏曲抜きの7曲版。けっこう伸縮し情緒たっぷりの演奏だ。噎せ返るような弦楽器の響きが懐かしい。色彩の鮮やかさ、リズムの強調、そういったブランコならではの要素が魅力的にひびく。但しこのライヴ集全般に言える事だがオケが怪しく、この演奏でも縦が揃わず伴奏と旋律が乖離して進んでいくという前衛的な場面がある。ライヴならではの事故もあるし、録音も状態が悪くかすれている。ブランコの貴重な記録としては価値の有る演奏だし、ラヴェルが意図的にロマンティックな情緒を込めて書いたこの作品の本質的なところに忠実な様式として特記できるものではあると思う。ブランコ好きなら絶対聴くべき。マニアでないなら特に聴く必要なし。(ブランコ好きってなんだか幼児みたいだ・・)

組曲(5曲:通常は原曲どおりのこの版を組曲と呼ぶ)

○コッポラ指揮パリ音楽院管弦楽団(PEARL/LYS,DANTE)1934/6(1933/3/15?)CD

パール盤とイタリア盤で録音日表記が違い曲順も違うが、元盤(SP)番号は同じなので同一と扱う。なかなかリリカルで瑞々しい。録音状態はサイアクだが音の綺麗さは時代を飛び越えて聞こえてくる。5曲の組曲版であっというまに終わる曲だから、録音上の問題もあってちょっとスケールが小さく感じるが、いつもの即物性が影をひそめ、情緒たっぷりに、でもくどくならない清々しい演奏ぶりに浸ることができる。

○プレヴィターリ指揮ロンドン交響楽団(RCA)LP

録音は悪いが(当然モノラル)夢幻的な雰囲気が魅力的な演奏。色彩変化が鮮やかで打楽器要素の強調されたいかにもイタリア人っぽい派手さもあるが、それよりまして穏やかで和む雰囲気の場面が多く、それが素晴らしく良い。明るすぎもせず、暗くも無く、この曲はそういう平和な表現があっている。もっと個性が強くてもいいのかもしれないが、私はこれぐらいが好きだ。○。個人的には◎にしたいが録音が悪い。。。

○パレー指揮デトロイト交響楽団(MERCURY)1957/3STEREO・CD

優しさに溢れた演奏で、お伽話の柔らかな叙情を十分に描写している。速い場面や下でリズムが走る場面では胸のすくような快速パレー発車オーライでコントラストがはっきりしていてその変化を楽しめる。○。オケ奮闘。弦にもっと味が欲しいか。ただ強引でフォルテが強いだけじゃだめでしょ。

○アンセルメ指揮ACO(RCO)1940/2/19LIVE

事故ぽいところもあるしとにかく録音が悪いが、アンセルメの透明で繊細なリリシズムが心揺るがす佳演。ライブ特有のダイナミズムや情緒的な音がこの人晩年のスタジオ録音とは一線をかくした主情的な演奏を可能としている。勿論大局的なフォルムは崩れないから安定感があり聴き易い。また雰囲気がいい。ちょっと濃厚な、この香気はスイス・ロマンドには出せない。録音マイナスで○。

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1958/1/2live

力づくの部分もなきにしもあらずだが、緩急の付け方が激しいにもかかわらず自然な流れの中に巧く配置されていて、さすがに慣れたところを聴かせている。繊細な曲だが時折粗暴なミュンシュでもラヴェル相手となると密やかな表現と暖かな響きを演出してくる。パリ時代はラヴェル指揮者として著名だったのである。録音が拠れたモノラルで粗く、そこがなければかなり上位なライヴ録音。 (2007)

各楽曲の特徴を明確に描き分け、非常にわかりやすい演奏になっている。キッチュな表現も板につき、カリカチュアをカリカチュアとわかるようにはっきり世俗的なリズムと響きで煽っていく、これはオケにも拍手である。とても感情移入できる演奏で、ライヴなりの精度ではあるし解釈も音もロマンティック過ぎると思うラヴェル好きもいるかもしれないが、恐らくラヴェルの時代の演奏というのはこのようになされていたのだろう。ミュンシュはラヴェル音楽祭の指揮者としてならした経歴もあり無根拠にやっているわけでもあるまい。四の五の言わずに感動でき、拍手が普通なのが寧ろ納得いかないくらい良い演奏だと思うが、録音状態をマイナスして○。久々にこの曲で感心ではなく感銘を受けた。(2009/1/13)

○クリュイタンス指揮VPO(altus)1955/5/15live・CD

荒い。統制が甘く即興的で奏者がばらける様子も感じられる。フルートなどソロ奏者の調子が悪いのが気になった。速度についていけない場面もある。このコンビは相性がよかったようだが、個人的にはそれほど惹かれる要素はなく、一流指揮者の名にすたるラヴェルをやってしまっている感が否めない。ただ、やたらと大見得を切るようなことはなく気取ったふりのかっこのよさ、人気はあったのだろうとは思える。録音もそれほど。○にはしておく。

E.クライバー指揮NBC交響楽団(urania)1946

擬似ステレオっぽくけっこう聞きづらいが、音はクリアで、クライバーが意外と巧いことに今更ながら気付かされる。ロザンタールによれば、ラヴェルはトスカニーニと並んで”何でも屋”クライバーを尊敬していたというし、たしかにこれはひとつの見識だ。短いが、楽しめる。

◎マデルナ指揮バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団(ARKADIA)1966/11/9live・CD

正規と言っても通用するくらいの良い録音で、びっくりするくらい繊細で美しい音楽だ。情緒纏綿にゆったりと進むさまはしかしいつものマデルナのような踏み外し方を一切せず、スタジオ録音的な精度が保たれる。結果としてロザンタールを彷彿とさせるとてもフランス的な品のある演奏に仕上がった。これはいい。ただ、拍手がモノラルで継ぎ足してある。ひょっとすると正規録音の海賊もしくは、フランス指揮者・オケのものの偽演かも。といいつつ、いい。◎。

○スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(TRITON)1992/12/27LIVE

この曲にレスピーギ、ストラヴィンスキーの曲を加えて「鳥」と銘打った盤名こそ怪しいが、これはスヴェトラーノフ自らが1夜のプログラムとして組んだもののそのままだそうである。マ・メール・ロアが鳥?と一瞬思ってしまうが、確かに「親指小僧」の後半などで印象的な鳥のさえずりが聞かれるが、それ以外は夢幻的なお伽の世界の発露のまま。まあ、あまり深く考えずとも聞ける曲なので、置いておこう。この演奏はずいぶんと輪郭がハッキリしている。律義な演奏、という言葉が浮かんだ。あまりに堅苦しい・・・それはフランスの洒落た演奏と比べるからかもしれないが、テンポにぴっちりつけてくるソロ楽器、どちらかというとディジタルなダイナミクス変化(なめらかじゃないのだ)が気になった。でも、音色はとても澄んでいて綺麗だし、響きはとても色彩的だ。特筆すべきは録音の良さで、ライヴとは思えないほど。ここまでクリアなのに、スヴェトラーノフのいつもの雑味は殆ど感じられない。寧ろ晩年に顕著だった弱音美へのこだわりがとてもはっきり打ち出されていて、この繊細な曲を演奏するのにかっこうの武器となっている。5曲を選んだ組曲版というところが惜しいが(どうせなら全曲やらないと、どうも違和感がある)、この曲の録音を遺してくれた、ということに感謝しなければならない。○ひとつ。

スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)1975LIVE

優しい音楽作りに面食らうが、これもスヴェトラーノフの一面であろう。全般に後年の録音によく似ており、それほど奇をてらった感じはしない。個性がないと言えばそうかもしれない。引っかかりの無い演奏だった。無印。

○チェリビダッケ指揮ケルン放送交響楽団(ORFEO)1957/10/21・CD

非常に繊細で隙のない、硝子細工のように出来上がった、静謐なマ・メール・ロアであり、チェリビダッケらしさが既にある。チェリの演奏は一つ様式が出来上がってしまうと、その後の録音記録は基本的に一緒なので、あとはオケ&精度、並びに録音状態しか差が無い。その点この録音はorfeoのヒストリカル程度の音質のもので、一位にお勧めするものではないが、ケルンRSOのまだまだ演奏技術の高い時期のものだけに、聴き応えはある。○。

チェリビダッケ指揮ミラノ放送交響楽団(HUNT・ARKADIA)1960/1/22LIVE

繊細な味わいをタノシムには録音が弱すぎる!鳥の声の音形がしゃっちょこばってぎごちないのは技量の問題かチェリの解釈の悪影響か。ラヴェルの曲でももっともわかりやすく優しく美しい曲、これは悪い録音で楽しむにはアンゲルブレシュト並みの派手さが必要。チェリのドイツ式解釈はちょっと野暮。無印。

チェリビダッケ指揮ロンドン交響楽団(CONCERT CLUB)1980/4/13ロイヤル・フェスティヴァルホールLIVE・CD

このテンポ取りはラヴェルなら激怒モノだろう。余りに伸縮するパヴァーヌに唖然とさせられる。いちおう正規での発売ゆえ録音はマシとはいえ、チェリのテンポを犠牲にしても響きをキレイにしようという意図は捉え切れておらず、結果として珍妙な印象しか残らない(響きの重さは伝わってくる)。非常にゆっくりなのに極端なルバートがかかるというのがおかしな感じだ(前半2曲あたり)。それでいて終曲「妖精の園」の重厚でロマンティックな音楽・・・いかにもチェリ向きな曲・・・はそれほど揺れず、たんたんと進んでしまう。確かに個性的で独特の創意に溢れている。でもこれは解釈のバランスが悪い。無印。じつは結構期待したせいか落胆しました。こんなに演奏効果の高い曲なのにイマイチ盛り上がらないなあ・・・。この演奏の収められたボックスはチェリが身内に配ったライヴボックスの完全復刻とのこと。名高いロンドンでの公演の集大成で、ブラ1など二組もある(一つは海賊で既出)。

クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PEARL/VICTOR)1930/10/27,29・CD

夢幻的で穏やかな雰囲気はよく出ている。ダフニスよりこちらのほうが感情的に深く染み入るものがある。割合とストレートではあるのだが、ラヴェルの響きの美しさがよく捉えられていて、これがモノラル末期頃の録音だったらきっと名盤の仲間入りをしていただろう。それだけに録音の悪さが悔やまれる。無印。

コーツ指揮LSO(HMV/PASC)1921/11/25、1922/4/25・CD

さらさら流れるような演奏はSPの録音時間の制約だけの理由ではなかろう。起伏はあるにはあるがテンポは乱れず、オケは鄙びてとくに木管がひどい。無印。

~5.妖精の園

ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(EMI)1929

ラヴェル・ボックスを自作自演目当てに買ったが、既所持のロール盤だったのでがっくり(裏面に明記しろよなー、ライナー追わないとわからないなんて)。その他はここでも既に書いているようなレーベルでバラバラに出ていたものがほとんどだった。これはその中でも私がまだ所持していなかった数少ないもののひとつ。雑音がかなり酷く、音色感ゼロだが、音楽的にはそつなくまとめているふうに聞こえる。ピエルネの指揮はあまり多くは残されていないためその芸風を安易に語るのは危険だが、ここでは手堅さと繊細な響きの調和した演奏がなされていると言うべきか。雑音マイナスで無印。

~2.親指小僧、3.パゴダの女王レドロネット、5.妖精の園

○ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(PARLOPHONE)SP

EMIで終曲のみLP化しているのは別途書いた。この終曲はしっとりした演奏になっているがそこまでの2曲は割合と無骨というか余り棒慣れした音になっていないのが意外といえば意外である。往時のフランスオケのレベルが知れるといえばそれまでだが、いい面では同時代の他録と同様の微妙なリリシズムをたたえた音が美しい、悪い面では演奏の整え方が雑である。コッポラのような録音専門指揮者のものとは完全に異質なため演奏の完成度うんぬんを指摘すべきではないかもしれないが、ちょっとぎごちなかった。とはいえ「パゴダの女王」の表現にかんしていえば銅鑼等の響きを効果的に使い、如何にも「中国の音楽」といったものを描き出していて、ああ、こういうふうにやるのか、と納得させるものがあった。譜面に書いてあるように演奏するのではない、これは「中国の音楽」をどうやって表現するのか、単にラヴェルが中華素材をもとにオリエンタルな世界を創出したものではなく、これは「中国の音楽なのだ」という意識が強く感じられる。印象的だった。○。

~1.眠りの森の美女のパヴァーヌ

ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(NICKSON)1950/11/19放送LIVE

~原曲

○ペルルミュテール、ファーマー(P)(nimbus)CD

四手による原曲版組曲。最初余りに素っ気無い演奏ぶりにサティかと思った。子供のための曲ということで書法が至極単純であることは言うまでもなく、それがいいとしした大人によって演奏されることの難しさを諸所で感じる。軽く弾き流す、もしくは淡々と弾き流す、ラヴェルのピアノ曲はえてしてそういったロベール・カサドシュのようなスタイルを要求するが、それにしても僅かに香気が香るくらいのざっくばらんなタッチにはちょっと違和感があった。小さくまとまりすぎというか。
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ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲(2012/3までのまとめ)

2012年04月10日 | Weblog
牧神の午後への前奏曲

<ドビュッシーの名を最初に轟かせた、「印象派」の呼び名のもとを作った曲。茫洋とした雰囲気が眠気をさそう。ニジンスキーのバレエ化で有名。>

○ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(CASCAVELLE/ODEON)1930/2/10・CD

止揚する音楽。なんという自在さだろう。弛緩せず速めの解釈だが、表現のひとつひとつに心が篭っており、この淡い音楽をその淡さを損なうことなくしなやかに纏め上げている。この時代とは思えないオケの巧さにも傾聴。とくに木管陣のソリスティックな技巧には舌を巻くことしばしば。ピエルネの力量を感じる。作曲家としては凡庸だったがその棒は創意に満ちている。幻想は少ないがリアルな音楽の面白さだけで十分だ。録音状態はかなり悪いが上手くリマスタリングしており感情移入に支障は無い。録音マイナスで○ひとつ。

○ストララム指揮コンセール・ストララム管弦楽団(VAI,ANDANTE)1930/2/24シャンゼリゼ劇場・CD

モイーズが1番フルートで在籍していたことでも有名な楽団。当然冒頭のソロもモイーズということになろう。微妙なニュアンスで歌うというより太く確実な発音で安心して聞かせるという側面が感じられるが、オケプレイヤーとしてはこれでいいのだろう。2枚のCDでたいした音質の差はなく、総じて悪い。SP原盤の宿命だろう。だが十分柔らかい抒情があり、雰囲気は明らかに印象派。作曲後既に数十年がたっているのだから、時代的にこのくらい意図に沿ったこなれた演奏が出てきていても不思議は無いわけだ。佳演。

アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(MOVIMENTO MUSICA,WEA,WARNER)1962/10/24LIVE・LP

太筆描きの独特の演奏だ。かなりリアルに音が捉えられている。バランスが悪く感じるのは録音のせいだと思うがどうだろう。スタジオ録音とは印象がだいぶ違い、まあ、拘り無く聞けばそれなりに楽しめるか。最後の音が終わらないうちに盛大な拍手が入ってくる。いわゆるフライングブラヴォーだが、どうも作為的な感じがして、スタジオ録音に拍手を加えただけの偽演のようにも思える。が、演奏それ自体は違うものに聞こえるのでここでは別と判断しておく。モノラル。

アンセルメ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1961/12/1LIVE

明晰なステレオ録音のせいか冷めたリアリスティックな音が耳につき解釈もじつに無味乾燥。響きの硬質な美しさもライヴの精度では環境雑音もあって限界があり入り込めなかった。ボストンオケはよくこういう無感情な表現をする。好みとしては無印。

ロザンタール指揮パリ国立歌劇場管弦楽団(ADES)CD

ステレオ初期独特の変なバランスで収録されたものであり、最初は抵抗感がある。フランスオケの音色の特徴がかなりデフォルメされて聞こえてきて、ともするとバラバラでヘタじゃん、という感想も呼びかねない。ロザンタールのドビュッシーはテクスチュアの細部が明瞭で、まあこの曲はむしろそれが正解なのかもしれないけど、余りに骨組みが丸見えすぎである。かといってドイツ・ロマン派的な重い解釈は施しておらず、とくに冷たい響きには現代的な感覚を感じる。ワグナーに繋がる生ぬるさは極力排されている。雰囲気に埋没するような演奏でないことは確かなので、そういう演奏を求めたら×です。純粋に曲を楽しみたいときにはいいかも。

○レイボヴィッツ指揮ロンドン祝祭管弦楽団(CHESKY)1960/6

どちらかというと即物的というか、いわゆる印象派っぽい曖昧さはあまりないのだけれども、美しい演奏だ。レイボヴィッツらしからぬ?品の良さが感じられ、ダイナミックな動きや感傷的な雰囲気は程よい程度に抑えられている。彫りの深い表現と本に書いてあったのでたぶんそうなのだろう。私の頭の中の同曲のイメージとは違ったが、十分聞ける演奏。

○パレー指揮デトロイト交響楽団(MERCURY)1955/12STEREO・CD

パレーのリリシズム炸裂!十分に感傷的で夢幻的な雰囲気をもった演奏で、しかも割合と明瞭な輪郭をつけてくるためフツーに旋律を楽しむことができる。なんて美しい旋律なんだろう、と思った。印象派と呼びたい人はこんなのドビュッシーじゃないと言うかもしれないが、とりたててこの曲が好きでない私はわかりやすくてすっかり楽しむことができた。○。

パレー指揮デトロイト交響楽団(vibrato/DA:CD-R)1975LIVE

余りのリアルな音作りに違和感。このコンビに幻想とか感傷を求めるほうがいけないのだが、なんの思い入れもないソロ楽器の棒のような音の繰り返しには首をかしげたくもなる。録音がいいのが却ってまったく印象を残さない結果にもなっている。冷徹な音響表現の確かさにははっとさせられるが。

○マルティノン指揮NHK交響楽団(NHKSO,KING)1963/5/11東京文化会館LIVE

これは真骨頂。それにしてもN響はいい音を出す。陶酔的で法悦的ですらある。但し元来明確な表現を得意とするオケだけあって、印象派的というよりラヴェル的な感じもする。無論肯定的な意味でである。○。

○エネスコ指揮シルヴァーストーン交響楽団(mercury)

ラヴェルほどの心の深層に訴えかけるような表現はないものの、なかなかの佳演になっている。フランスものへの適性は出自によるところが大きいだろうが、それであればもっと(ソロ含め)フランス近現代ものを録音しておいてほしかった。時代がそうさせなかったのだろうが。雰囲気はまさに牧神のイメージそのものである。比較的ねっとりした表現をとるのに音が乾いているのがいかにもフランス派の解釈といった感じである。抑揚はかなりつけるがテンポは速めにインテンポ気味、というちょっとぶっきらぼうなところもある棒だけれども、音の切り方がぶっきらぼうというだけで朴訥とした印象の演奏にはけっしてならない。この録音は継ぎ目が聞かれるが、それは作曲家・ソリストの余技としての棒ということで大目に見よう。立派なフランス的ドビュッシー。○。

○ミュンシュ指揮シカゴ交響楽団(DA:CD-R)1967/7live

予想GUYに神秘的である。「印象派」と言われればそうだね、と返すしかない、非常に注意深い音楽、鋭く細い響きによって構成される針金細工の輝きを見つめる牧神を、木々の間からいくら観察しようとしても目の焦点のあわないかんじ。ここにワグナーの影はない、新しい世代の独立した牧神ではあるのだが、ミュンシュは浪漫性を煽ることもなく、ひたすら忠実に、音楽に忠実に表現する。決して激しない。ソリストも巧い。冒頭が僅かに切れる。○。 (2007/2/10)

恍惚とした演奏ぶりで雰囲気は満点。静かで透明感のある音がよくマッチしている。春向きの演奏。ただ、冒頭僅かに切れる。(2007/4/6)

○モントゥ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1959/7/19live

録音が悪くやや聞きづらい。モントゥは明確な指示で音楽をしっかり構築していくが、「整えてる!」とわからせないそつのなさがいかにも職人的だ。幻想の霧に塗れることなく生々しく実演のさまが聞いて取れるところが面白い録音でもあるが、他録と比べてどうこうという部分はない。○。

○デルヴォー指揮NHK交響楽団(KING、NHK)1978/11/17LIVE・CD

これはソロ次第という部分も多くオケの状態に非常に左右されやすいからして、正直それほど惹かれないが、ややねっとりした合奏の感じがデルヴォらしさか。

○マルケヴィッチ指揮ベオグラード・フィル(MEDIAPHON)CD

ゆったりとした落ち着いた演奏で、ときどきこの人のとる重心の低い響きがここでもきかれる。ピッチが高いのが少し気になる。

*********************************

○ワルター指揮NBC交響楽団(SERENADE:CD-R)1940/3/2

陶酔的です。いやー、ロマンティックです。ワルターだから期待していたら期待した通りの濃厚解釈。但し揺れに揺れ歌いに歌うやりかたは、ずっと聴いていると慣れてきて、面白く思えてくる。NBCの個人技にちょっと疑問を持っていたのだが(同日の「モルダウ」の出だしの木管を聴くにつけそう思う)この演奏ではほとんど瑕疵がない。意外なほど聞ける演奏だった。○ひとつ。

○ワルター指揮フィラデルフィア・フィル(PO)1947/3/1LIVE

音が比較的よい。弦の分厚さにびっくりする。陶酔的な歌い込みが独特な聴感をあたえる。ひょっとするとワルターの全「牧神」記録中いちばんデロデロかも。録音のせいか清浄に聞こえるから「臭い」演奏にはなっていないのでご安心を。

○ワルター指揮ニューヨーク・フィル(ASdisc)1949/6/19LIVE

メロディラインを強調し、その起伏を大きくつけることで曲に筋を通そうとしている。これはこれで「聞ける」のだ。ワルターの芸達者なところだろう。木管がどれも巧く、テクニックはもちろん音色だけで聞かせる力がある。そういう演奏を引き出すのもまたワルターのすごいところだ。全般音楽の流れが良く音の悪さを感じさせない演奏。○ひとつ。

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チェリビダッケ指揮ロンドン交響楽団(ARTISTS/LIVE CLASSIC)1979LIVE

ちょっと貴重かも。チェリの牧神、最初聞いたときは引っかかりが無かったのだが、2回目に聴いて、意外と印象派になっているなあ、と思った。ワグナーとの共通性をことさらに強調するでもなく、ただ響きの精妙さがよく生きている。ロンドン響の木管はそつがなくて好みが分かれようが、むしろこれはロンドンのオケを使ったから意外と精妙に表現できただけなのかもしれない。意外と雰囲気のいい、品のいい音楽だ。録音あまりよくない。未検証だがRARE MOTHのCD-R(1979/9/18LIVE)は同一音源と思われる。

チェリビダッケ指揮交響楽団(ROCOCO)LIVE

ロンドン響の演奏と同じ?

○チェリビダッケ指揮スウェーデン放送交響楽団(LIVE SUPREME:CD-R)1970/11LIVE

美しい。今しも止まるかと思うような冒頭のやりとり、妖しさをはらむ旋律は清潔な色彩で飾られ、要所要所で入るハープの散発音がなんともいえない雰囲気を醸している。ごく一部音程が狂っているところもあるが、磨き抜かれた音楽という印象は変わらない。情緒纏綿というコトバはこの人に似つかわしくないコトバだが、意外と伸縮する旋律を丁寧になぞるそのフレージングの妙は印象的。恍惚とした法悦境へと聴くものをいざなう。このオケとチェリの相性がいいのだろう、かなりイイ線いっている。遅い演奏なので余裕の有る聞き方をできない向きには薦められないが、これが印象派と呼ばれた理由がなんとなく理解できるものではある。隈取りのハッキリした表現を行うと思いきやこの指揮者、曲によってスタイルをけっこう変えてくる。ひたすら美しい響きを出す事だけを考えていることには違いないのだが。本質を捉えたなかなかの秀演である。拍手も盛大。

○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(SARDANA RECORDS:CD-R)LIVE

今しも止まりそうな調子で止揚するフルートソロから、ねっとりした、大波がゆっくりゆっくりと揺れるような音楽が始まる。言語を絶するほど美しい響きの連続だ。内声の一部とて疎かにせず、時には奇異なほど強調させてみる。余りに低速なため音楽のダイナミズムが損なわれている気もするが、いったんハマってしまえばそのシンフォニックな拡がりに身を委ねてしまいたくなるだろう。ハープのちらつきが美しい。

○チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(VON-Z:CD-R)1994live

恐らく既出盤だと思うが正規と聞き惑うほどに音がいい。バランスも安定ししいて言えば弦が遠いくらいで、チェリの理想の音響がきちんと収録されていると言えるだろう。チェリならではの音の彫刻、静謐に律せられた世界が展開され、そこに自由は無いが、美は確かにある。安定感のある音響、縦の重さ、それらが曲にいい意味で構築性をもたらし首尾一貫した聴感をあたえる。ソリストに重心を置くでもなくオケ総体としての迫力と鋼鉄の美はどうしようもなく素晴らしい。迷ったがチェリ美学が余り好きでない向きは無機質ととるかもしれないので○。

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シューリヒト指揮ドレスデン・フィル(BERLIN CLASSICS)1943・CD

ふつう。録音状態は篭ったモノラルに残響を加えたもの。とくに書くことが無いが、いい意味でも悪い意味でも耳馴染みはよい。雰囲気はドイツらしくない美感があるが、それでも、これ、という興味を引くものはないので無印としておく。シューリヒトは案外同時代モノを好んだと言われ、他にもフランスものの録音を遺している。

○クレンペラー指揮ロス・フィル、リンデン(FL)(SYMPOSIUM)1938/1/1PM3:00-4:00放送・CD

物凄く「純音楽的演奏」でしょっぱなから幻想は皆無。ただ、聴くにつれ非常に精緻な響きを編み出すことを目していることがわかる。実は凄く現代的なのだ。ブーレーズを引き合いに出すのもアレだけど、とにかく「音だけで勝負しようとしている」。そう思って聴くと「つまんねー演奏」という印象はなくなるだろう。耳からウロコの可能性大。情緒は皆無ではないが期待しないでください。新鮮。これで録音が最新だったら現代の演奏として充分通用するよ。批判も出るだろうけど。○。

○ロスバウト指揮南西ドイツ放送交響楽団(SWF)

意外にねっとりしたテンポで音楽は進む。音響的にはやや重いが硬質で通りはいい。とにかくフレージングに溢れる法悦感が凄く、ロスバウドの余り知られていない一面を垣間見せる。現代音楽専門指揮者というのはともすると客観主義一辺倒のように見られがちだがかつてはかなり個性的な解釈を「分析的に」施すのが特徴であったのであり、セル的な見られ方カラヤン的な見られ方をするロスバウトも、解釈においては個性の投影に躊躇はなかった。マーラーの7番あたりにはその真骨頂が聴けよう。○。

フリッチャイ指揮RIAS交響楽団(DG)1953/1

引きずるようなテンポが気になるが、気だるい雰囲気は意外に出ている。決して色彩的とは言えない指揮者だけれども、どの楽器の発音も明瞭で、そういう緻密な音の堆積によって表現する方法はドビュッシー演奏へのひとつの見識だろう。止揚する音楽の「間」の取り方がなかなか通好みである。夢幻的な音楽とはとても言えないが、ちょっと面白い。ロマンティックな表現もこの曲なら許されよう。しかし録音がいかんせんあまりよくない(モノラル)。無印。

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○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)1945/2/11live

ドビュッシーコンサートの記録で、イベリアと海との組み合わせ。放送エアチェックと思われ音量がきわめて小さく音質もノイズもひどい。演奏はスコアの裏まで明瞭に組み立てたクリアなものでドビュッシーらしさが理知的に引き出されている。速めのインテンポ気味でソロ楽器にもとりたてて魅力はなく、解釈もあってないようなものだが、小粒にまとまって聴けるのは確かだ。○。

○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R/MUSIC&ARTS)1951/2/17カーネギーホールlive・CD

生暖かい雰囲気を保った演奏というのはいつからか忌まれるようになり、オケは精密な音響機器としてこのての曲を演奏できるように鍛えられるようになった。だがフルートソロの提示する動機始めこれは頭初から「標題音楽」なのであり、綺麗に音だけを聴きたいなら一人そういう指揮者と一つそういう団体があれば十分だ。この演奏は「そのての客観的な演奏の元祖と思われがちな」トスカニーニによるものだが決して情緒的な部分を失っていない。テンポやリズムに起伏がなくても音色で音楽はいくらでも変わる。音色を聴くべし・・・というとこの録音状態じゃ少し辛い・・・とはいえトスカニーニのライヴにしては戦後だし、エッジが立って聞きやすいほうだろう。結果として、○に留まる。

トスカニーニ指揮NBC交響楽団(GUILD/ARKADIA/FONIT CETRA)1953/2/14カーネギーホールLIVE・CD

○トスカニーニ指揮ハーグ・フィル(DELL ARTE他)1938

雰囲気のよい演奏でトスカニーニのアクの強さがクライマックス以外ではほとんど出てこない。音は悪いが美しい。模範的な牧神と言えるだろう。このオケ独特の表現というものは浮き立ってこない。トスカニーニが振ればどこもトスカニーニのオケになる、そのとおりの状態である。録音は悪いが○はつけさせていただきます。

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○パウル・クレナウ指揮ロイヤル・フィル(COLUMBIA)SP

ロイヤル・フィル録音最初期の指揮者の一人。デンマーク生まれオーストリア中欧圏で活動した作曲家でもあり、ブルックナーなどの影響ある交響曲が今も聴かれることがある。やや性急でしゃっちょこばった始まり方をするが、その後は英国的な慎ましやかさを感じさせる、雰囲気のある演奏ぶり。SPは片面ずつ録音されるため、この録音も途中で演奏自体一旦終わり、再開するが、音色も音量も違和感はない。SP的な音の近さリアルさが、ハイフェッツ版ピアノとヴァイオリンのための「牧神の午後」を思い出させた。あれ、かなり変だけど、考えてみれば学生時代はハープトリオのフルートをVnで無理やりやってたような・・・

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(BS/HMV)1953/12/23・CD

バルビローリ協会のフランス音楽シリーズ復刻盤。音質は思ったより良く像がはっきりしている。結構ドビュッシーの録音を残しているバルビローリだが、これは初CD化か。ソロ楽器云々では無くオケ全体が陶酔しうねるところが聞きもの。まさにバルビローリそのもので、バルビローリ以外には聴かれない息の長い歌いっぷり、ボリュームのある息遣いの大きくも自然な起伏に魅力の全てがある。特徴的な演奏で正統ではないが、ロマンチックな牧神もまたよし。○。

マルコ指揮デンマーク国立放送交響楽団(HMV)LP

オケにやや難があるものの、手堅い演奏ぶりが伺える一曲。十分に夢幻的で曲の要求するものを過不足無く持っている演奏だと感じた。対旋律を際立たせて構築的な演奏を目するようなところもしばしば聞かれ、響き的にもドイツ的な重さを感じなくも無いが、情緒的には寧ろグリーグに近い感じだ。軽やかさはないが、聴いていて違和感は感じない。録音がやや悪いため、無印。

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ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(ANDANTE)1927/3/10
○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(ANDANTE)1940/5/28

前者は音が悪すぎる。演奏自体も地味めだ。後者は派手めな演奏で、依然余り音はよくないが、随分と個性が立ってきたように思える。全ての楽器の輪郭が明瞭で、かといって幻想味が無いということもなく、心地よく聞ける。でもまあ、録音の悪い盤に慣れない向きは避けておいたほうが無難だろう。後者のみ○。

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1971/4/18LIVE

耽美極まれる。むせ返るような響きに恍惚としたフレージングが寄せてはかえすような官能を呼び覚ます。まあ、美しいです。ライヴすごかったろうなあ。原曲の意図を逸脱するほどにやらしい。

○ストコフスキ指揮LSO(london)1972/6/14・CD

ストコにドビュッシー適性はないというのが私の印象なのだが、このソロを継いで造ったような前期作品については、ソリストのロマンティックな表現を生かしたダイナミズムが巧くはまっている。ストコに後期ロマン派適性はありまくりなのだから。音色の立体感は録音のよさに起因するものか。リアリズムがやや耳につくが、そのての雰囲気が欲しいならフランスをあたるかゴリゴリのオールイギリス陣の演奏でも聴くがいい。大見栄もここぞというところしか施さず、最後は微温的に終わるのが陶酔的な雰囲気を煽る。○。

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○バーンスタイン指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1972live

音はよく、ボストンだけあって硬質のフランスふう情緒がバンスタの生々しさを消している。ただ、特徴的というまでもないか。

○モートン・グールド指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1978live

自在に伸縮する恍惚とした音楽。非常に感傷的な音をしている。デトロイトにこんな音が出せたのかと驚嘆する。グールドの指揮の腕前は他の録音でも聴かれるようにけっこうなもので、ただまとまった曲を録音しなかったのが知名度につながらなかったゆえんだろう。作曲家としてもアメリカを代表する一人だ。それにしてもねっとりした前時代的な音楽、であるがゆえに現代の貴重な解釈者であった。
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ショスタコーヴィチ 交響曲第5番その2 (2012/3までのまとめ)

2012年04月10日 | Weblog
○ケンペ指揮ベルリン放送交響楽団("0""0""0"CLASSICS:CD-R)1974LIVE

引き締まった響きとそつのないスマートな演奏ぶりが印象的。硬いオケだけれどもケンペは柔らかい響きをよく引き出している。終始ショスタコを聞くというよりは近代クラシック名曲の一つを聞くといった趣が強く、何物にも意味を見出そうとするショスタコマニアには食い足りないだろうが、非常に聴き易いことは確かで、何度も聴くに耐えうると思う。この曲の1楽章が苦手でいつも3楽章や4楽章だけ聴いてしまう私も、最初から最後まで一貫して聞くことができた。ショスタコの「縛り」をことごとく外しているように思える。諧謔もあまり聞こえないし、音楽の美しさだけをつたえようとするかのようだ。ライヴなだけに「軋み」も少なからず聞こえるし、録音もかなり悪いのだが1、筋のとおった解釈はそんなことをものともしない。全楽章速いけれども起伏が絶妙で(自然ではないのだが)一本調子な感じはしない。とくに終楽章、冒頭から遅いテンポで始めたのが初めのピークを乗り越えたあたりで凡人はテンポを落とすところ逆に急激にアッチェルをかけて雪崩れ込む。「証言」以後の解釈というべきか、これはどんな人もやっていない。テンポはそのまま速いまま終わる。特徴的な解釈だ。また、どことなくマーラーを思わせるひびきがあるのはこの人がけっこうマーラーも振っていた証左か。私はあまりこのひととは縁がないのだが、感心することは多い。録音マイナスで○。

○ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(WEITBLICK)1986/10/7LIVE

いまいち重みが足りない1楽章冒頭のフーガから、あれっと思うようなところが散見される。テンポの極端な変化(ディジタルな変化)、ピンポイント的なレガート奏法の導入、いろいろと小細工がなされている(小さくもないか)。オケはけっこうあわあわしているように聞こえる。どうも指示を巧く演奏の中に溶け込ませられず、ぎしぎしと軋み音を鳴らしている。とはいえケーゲルの改変を含む個性的な解釈の面白さは特筆すべきで、評価すべきものだろう。1楽章はやや違和感を感じたが、2楽章以降はまあまあ。○。

○A.ヤンソンス指揮レニングラード・フィル(ALTUS)1970年7月1日LIVE、大阪フェスティバルホール・CD

明るく流麗でそつのない速いインテンポが持ち味の指揮者。でもドラマの起伏は大きなスパンでここぞというところにつけられている。レニフィルの迫力と威力に圧倒されつつ、特にペットを始めとするウィンド陣の野太いロシア声に心煽り立てられることしきりである。こんなオケを生で聞いたらそれは感動するはずだ。ムラヴィンスキーのような凝縮と抑制がなく、かといってグダグダなロシア指揮者の系譜とは隔絶した、しっかりした密度の高い演奏ぶりは1楽章クライマックスあたりで既に胸のすく思いというか、猛々しい気分とともにどこか清清しさすら感じる。終盤の静謐な美しさも筆舌に尽くしがたい。幻想味とともに生身の演奏の肌触りがするのがいい(もちろん録音のせいもあろう)。テンポ的にはちょっとあっさりしすぎの感もあり、編集上の都合かアタッカのノリでそのまま2楽章に突入してしまうこととあいまって1,2楽章が同じテンポで同じ気分で繋がれているような、楽想の切替の面白さがやや減衰している感もある。ただ単品として2楽章の演奏を聞くならば最高にイカしている。やはり速めのテンポで強力な弦(ソロの美しさ!!)のガシガシ迫ってくる力強さや一糸乱れぬアンサンブル、そこに絡む管打のまるで軍隊のような規律と激しさを兼ね備えた演奏、そして全体に実に自然に組み合わさりこなれて流麗な音楽の流れに、マーラーのエコーと呼ばれたこの奇怪な楽章にもっと前向きというか、急くように突進してケレン味がない、いい意味で聞き易い音楽に仕立てていることは確かだ。

3楽章は無茶苦茶美しい。これは録音のよさもさることながら、個人技の勝利といおうかオケの勝利といおうか、アンサンブルを構じるのが非常に巧いこの指揮者の流麗で緻密な設計の上で、静謐で、それでいて歌心に溢れた感情表現を各セクションが競うように尽くしている。これは素晴らしい音世界。こういう感情的な暗さを表現するためにあのちょっと浅めの2楽章があったのか、と思わせるくらいだ。それにしてもレニフィルは減点のしようがない完璧さである。やはりムラヴィンスキーとはどこか違う、これは主観もあるかもしれないが、ムラヴィンスキーよりも現代的であり、なおかつテンポ以外の部分での「感情の幅」というものがより大きい気がする(ムラヴィンスキーのほうが起伏は大きいと感じるものの)。微妙なニュアンスのつけ方とかになってくるのだろう。その積み重ねが印象の大きな差となって出てきているわけである。とにかく美しい演奏だ。

4楽章は案外遅いテンポで始まり、ちょっとだけ弛緩を感じる、特にブラス。ノリはしかしすぐに定着してきて流れが構成され始めると分厚い弦楽陣の力強い表現がぐいぐいと音楽を押し上げていく。フルートの音色がいい。最初の「かりそめの勝利」にいたる道筋はすんなりとしているが、かなり気分は高揚っせられる。勝利の崩壊を示すティンパニ・イワノフの連打の生生しさを聞くに録音の勝利の気もしなくもないが、ムラヴィンスキーよりやっぱり新鮮に聞こえる。娯楽的な要素はないはずなのだが娯楽性を感じるのは、いいことと言っていいだろう。静寂があたりを覆ってくると、ヴァイオリンのpの過度に緊張感がなく、でも絶対乱れないという恐ろしい音で、気持ちのよい流れが形作られていく。音楽は偉大な盛り上がりを見せ始め、大きな本当のクライマックスまでの道のりはじつに自然で、扇情的だ、特に最後のコーダに至るまでのリタルダンドの凄さ(急激にかかるタイプではありません!!設計上大きくかけられていくリタルダンド)、真のクライマックスにふさわしい勝利の表現にはもはや何の言葉もいらない。この指揮者はフィナーレが本当に巧い指揮者だ!ブラヴォー嵐。半分はレニフィルに向けてのものだろうけど、ヤンソンスの技術にも拍手を贈りたい。○。それにしてもaltusの海外向けサイトがぜんぜん更新されないのはやはり状況が厳しいのだろうか。世界中でいちばんマニアックな日本のファン向けのタイトルでは・・・。日本では結局キングが扱っているので磐石なのだが。

父ヤンソンス盤と推定される盤が他にも出たことがあるが、断定されていないので未聴。

○ハワード・ミッチェル指揮ナショナル交響楽団(RCA)

ステレオ。軽量級の演奏で割合とさっさと進むが、早めのテンポは好み。オケはうまい。味が有るという意味ではなく、技術的に。この人もテクニシャンだが、奇をてらわないので余りファンの付くタイプではないな。ただ、3楽章までは非常にスムーズに聞けた。朝からこの曲を聴きとおせるってのはそうそうないことで、まずは○ですなあ。ただ、終楽章が遅すぎる。それがなければもっといいのにね。でもどっちみち、個性派ではないので、そつなく聞きこなせる、という意味でしか評価をつけようがないかな。

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(bbc,img)1963/2/22live・CD

カップリングの運命と違って無茶はまるのがおもしろい。直球勝負のトスカニーニぽい演奏ぶりだが3楽章はしっとりしたバルビらしい悲歌が聞き取れる。予想の裏ぎらなさ(盛り上がりかた)が安心して聴ける反面職人性が出てしまっているようでバルビらしさがないと思うが、ハレ管ともども攻撃的に攻め立てるさまはおもしろくないと言ったらうそになる。録音は古いがかなり耐用度(何度も繰り返し聴ける)の高い秀演奏。
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ショスタコーヴィチ 交響曲第5番その1 (2012/3までのまとめ)

2012年04月10日 | Weblog
交響曲第5番「革命」(1937)

<20世紀交響曲の代表格であり古今東西いたるところで演奏され続けてきた曲である。ショスタコーヴィチが当局に対する防波堤として書いたとの伝説もあり、いかにも”狙った”箇所が随所に見い出されるものの、クライマックスが終楽章前半にきてしまったような謎めいた構成(有名な「証言」を信ずれば”擬似”クライマックスということになるのだが)、全楽章の諸処に顔を出すやつれた諦観など、影絵のようにぼうと浮かび上がる作曲家の素顔に、背筋が寒くなる。この時代この国でマーラーへのオマージュを書き続けたことも恐ろしい。かりそめのモダニズムから脱皮し自己に誠実な音楽を書き始めた矢先、当局との衝突にあったショスタコーヴィチ。マクベス夫人や4番交響曲での恐ろしい経験が乖離する二重人格的作風を産み出した。それは少しどっちつかずというか、”どちら側”から聞いても中途半端・・・というより未完成・・・に聞こえてしまうこともある。5番はこの感が強い。物凄く抽象的な言い方をすると、包括するものは大きいはずなのに、それを全て出し尽くすことなく尻切れにばっさり切り落とした、だから龍頭がずらっと並んでいても、裏返すと退化した手足が申し訳に突き出ているだけで、たまに不格好に大きな足や、無数に枝別れした尾が垂れ下がったりもして、・・・奇形。・・・19世紀末から20世紀の音楽の流れとして、怪奇趣味というのは確かにある。モダニズムやダダ、おおざっぱだが「現代音楽」そのものも普通の人間にとってはとても奇ッ怪な音楽だ。しかし、ショスタコーヴィチのそれは、自ら進んで奇形化した頭でっかちのオンガクとは少し違う。これは、・・・「公害」の結果だ。>

ホーレンシュタイン指揮ウィーン交響楽団(VOX)

ホーレンシュタインは同じウィーン響・VOXでマーラーやブルックナーの中仲渋い名盤を作っている。ではショスタコは?といえば、余り成功していないと言わざるを得ない。何を言いたいのか甚だ不明瞭である。ホーレンシュタインの棒はウィーンの風土によって何の影響も受けていない。朴とつとし、とても流麗とはいえないぎくしゃくした流れはザンデルリンクにも似て表現主義的ですらあり、ブルックナーなどでは強みになるけれども、この曲に関しては、今一つ中途半端になってしまった感がある。

同曲の要求する音がウィーンの艶めかしさとは程遠い所にある事も、同演奏への違和感を昂じさせる。奇妙に音の軽い終楽章も又聞きづらい。が、ショスタコーヴィチがムラヴィンスキーを「何もわかっていない」と酷評した「という」テンポ表現、盛り上がるところでの劇的なアッチェランドが、無い。前半に山が無い。そのため最後まで平板な演奏になってしまう感は否めないが、ショスタコーヴィチの「真意」を見抜いた読みの深さと贔屓目にいえるかもしれない。・・・真意に括弧を付けたのは、これすらも果たして作曲家の本心だったのか、今となっては確かめるすべがないからだ。仮面は1枚とは限らない。

○ホーレンシュタイン指揮ベネズエラ交響楽団(放送)1954/2/18live

フルヴェン先生も振った名門だが終楽章こそ綻びが目立つもののおおむね充実した演奏を提示してくれている。ホーレンシュタインは前半楽章は速めのテンポで音符を短く切り上げる方法が特徴的でありリズムが強化されている。3楽章は地味だが終楽章は実直な中から大きな盛り上がりを引き出す。ショスタコの書法は冒頭のようにフーガを導入するなど目を引く部分はあるのだが基本単純で、直線的な旋律表現に頼るところが多い。ホーレンシュタインは勘所をよく押さえていて変に構造性を抉り出すようなことをしないから聴き易い。録音は悪いが迫力はある。○。

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◎ロジンスキ指揮ロイヤル・フィル(westminster)
◎ロジンスキ指揮クリーヴランド交響楽団(lys)1942/2/22

ロジンスキの定番。オケに漲る緊張感、充実した響きそして情熱的な棒は、 どちらの盤でもかなりのカタルシスを与える。常識的解釈という言葉が妥当かどうかわからないが、古典作品のように構築的に表現された演奏であり、いうなればベートーヴェン的交響曲の表現だ。 何か深読みをしている奇異な演奏ではなく、伸び縮みするルバーティッシモな演奏でもない。ただ即物とも又違う(多分3楽章など少しいじってもいる)。空回りする熱気ではなく、 深い情感を伴っている。全編オケの共感が胸に迫るほどに白熱して届いてくる。クリーヴランド盤2楽章の躍動、3楽章の弦楽器の歌は5番演奏史に残るものだろう。 4楽章はややテンポを落とし、踏みしめるような表現が意外でもあり、緊張感が和らいだ感もある。それでもロイヤル・フィルにくらべてこちらのほうが オケの総合力は強いような気もする。只チェロが弱く感じたのは多分録音のせいだ。トータルなバランスはロイヤル・フィルに分がある。どちらも捨て難い。

ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(ARCHIPEL)1946/2/24LIVE

物凄く音が悪い。そうとうの覚悟が必要な録音。演奏はまったくもって直球勝負。こんな速さ、無茶だ。即物的演奏とかいう言い方自体すらもう越えてしまっている。速いうえにさらに走る。ブラスはやりやすいだろうが弦は大慌てだ。まったく揺れずこの速さというのはもう思い入れとかいっさい無しに「早くうちに帰りてえ~」と思っているとしか思えない(?)。間違っても初心者向きではないです。当然のことながらライブ録音。

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ボルサムスキー指揮ベルリン放送交響楽団(LE CHANT DU MONDE/LYS)CD

奇盤で有名な盤だが思ったより意外と実直。但し4楽章は意味のわからない急激なテンポ操作がしばしば織り混ざり独特だ。その結果はオケの当惑ぶりが想像できる粗雑な仕上り。最後にいったん音量を落として壮烈なクレッシェンドをかけるやりかたはあるていど成功している。全曲中、2楽章がよくできているほうだろう。とにかく意外に正統な部分の目立つ印象だった。イタリア盤で一度CD化している。

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ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ICONE)1984LIVE

○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル (DREAMLIFE:DVD)1973レニングラード・ライヴ,2003年発売

○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル (NHK,Altus,KING)1973/5/26東京文化会館ライヴ,2000年7月発売

両端楽章が素晴らしい演奏というのはたくさんある。ムラヴィンスキー盤でも、終楽章などロシアン・ディスクの極度に集中力の高いライヴのほうがカタルシスを感じやすいだろうし、1楽章冒頭の軋んだイキみぶりには少々ひいてしまう(多分録音が生々しすぎるせいだろうが)。だがこのライヴ、中間楽章が何物にも代え難い光彩を放っている。2楽章の斬り込むようなリズムはデジタル・クリアな録音と実にバランス良く噛み合って、ガシガシと踊る。増して印象的なのは3楽章、崇高な祈りの音楽、ムラヴィンスキーらしい清廉な響きの中に、実に意外ともいえる「情感」が息づいている。同ライヴ全般に、「運命のメトロノーム」は微妙にしかし確実に揺れて、旋律とその流れも自然に浮き立つようで、ムラヴィンスキーにしてはかなり抒情性が感じられるものとなっているが、 3楽章のそれは殊更迫ってくるものがある。痛切な響きは決して悲鳴の泣き声にはならない。佇み沈黙する叫び。ピアニッシモの密やかで繊細なハーモニーは、葬送の黙祷に凪いだ教会伽藍を思い起こす。終盤、マーラー性を排したムラヴィンスキーの、最もマーラー的な響きを聞いた気がする。旋律性が消え響きだけが空を流れるような場面、ピアニシシモの光の中にマーラーの10番やフランツ・シュミット4番のような諦念を感じずにはおれなかった。この世界、 2楽章の激烈なリズム性とのコントラスト、終楽章のいきなりのプレスト攻撃(ライナーにもあるが、あっというまに加速しそのまま突き進む)とのコントラストが少し「ありすぎる」ようにも思える。しかし同盤、個性という点で従来知られていた録音より突き進んだ感があり、聞いて決して損はしない。パートソロで思ったより突出しない低弦や、ひきずるようにテンポをずらす金管ソロ楽器など、ここまで音がディジタルに鮮明でなければ聞こえなかったような瑕疵が聞かれても、屁でもない。突き刺すようにクリアな音に溺れよう。

ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(le chant de monde,PRAGA)1967

ムラヴィンスキーの演奏はまず安心して聞ける。いつもどおりの解釈、いつもどおりの演奏。完成度は高い。ただ、この録音は音が悪い。・・・ということで余り上位には置けません。疑義あり。

ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1966

○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(DREAMLIFE/RUSSIAN DISC)1965/11/24live

うーん・・・確かに素晴らしい名演である。録音が問題だ。ドリームライフがリマスタリングしなおして出したわけがわかる。ムラヴィンにしては振幅が大きく珍しく3楽章で感情移入してしまった。最初、「ああ、リマスター過程でモノラル還元したときに紡錘型に小さく彫刻されこじんまりしてしまった音だなあ」と思ったのだが(あくまでドリームライフ盤ね)中間楽章からブラスと打楽器の低音の出方がハンパなく重く広がりがあり、ムラヴィンにそういう「重量級の側面もある」というイメージを「再喚起」させたいんだなあと思う一方、「確かにこの音響バランスだと違う」と思う。スヴェトラとかそのへんに通じるのである。つまりこれもあきらかにロシアであり、決してトスカニーニではないのである。オケの力も西欧風でなく明らかにロシアであることを再度確認できた。かなり盛り上がるし、集中力も何か違う。これはレベルの違う演奏である。ムラヴィンの中では相対的にどうだかわからないが。録音はいくらリマスターしても結局モノラルのCDの音でしかないので、最初はもっといい音で聴くべし。○。

ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA/BMG)1938末~39初

ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(DOREMI/BMG/MELODIYA)1938/3/27-4/3・CD

ムラヴィンスキーの初録音にして同曲の世界初録音というもの。初演より5ヶ月しかたっていない湯気の立つような録音だ。貴重な古いSPからの板起こしである。BMGで日本盤CDの特典として世に出たが、今はDOREMIレーベルから他の古い録音と併せて発売されている。これがなぜ特典盤として売値を付けられなかったのかは聞けばわかる。雑音の洪水、ぎくしゃくした音楽、薄くてまとまりのないオケ、乱れる音線。これはムラヴィンスキーの名誉に掛けて発売すべきではなかったものと思う。全てが全て録音のせいとは言えない。手探り感がかなり強く、音楽が流れていかない箇所が目立つ。若きムラヴィンスキーの苦悩が現われているようだ。後年の充実した演奏とは掛け離れた「バラケ感」が強く解釈的にも工夫が感じられない。ちなみにレニングラード・フィルの首席指揮者の座を勝ち取るのは同年9月のコンクールでまさにこの曲を振って直後のことである。マスターが残っておらず国内生産された数少ないSPをもとに復元された同曲最初期の録音、参考記録としての価値はある。無印。

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クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc)1948/3/16live

知る限りクーセヴィツキー唯一の録音で興味深かった。しかしどうも粗い。ライヴだからしょうがないのだが、弦楽器などに雑味を強く感じる。両端楽章の異様な速さは何か目的があるのかなんにも考えていないのか、独特だが成功しているとは思えない(特に終楽章、拍手は盛大だが)。なにかやみくもに焦燥感に駆られたような感じがする。3楽章はなかなか深みを出してきているが、なにか足りない気もしないでもない。全体を覆いつくす暗い色調は録音のせいかもしれないが、一種のカタルシスを求めて聴く曲なのに、余りに素早く駆け抜けて終わる終楽章はどうも気になる。うーん、お勧めではない。

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○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(BRILLIANT)1957/4/12LIVE・CD

ゴステレラジオ・ファウンデーションの正規音源によるガウク・ライヴ録音集成より。廉価盤なりの軽さが感じられやや残響付加気味の音場の小さい録音だが聴きやすい。ガウクはドラマチックである。性急で力強い同時代西欧で流行ったスタイルにスピードや発音は近いものがあるが、もっと主情的で、男らしいロマンチシズムが感傷におぼれることなく支配している。弛緩することはまずなく、その点でムラヴィンに近い感もあるが、あそこまで抽象化しないため、その親しみ易さがゆえに素人はのめりこみやすい。だが、この演奏には更に悲愴感が強い。けして重く引きずることはないが、強く慟哭するような表現の交じる1楽章、暗い攻撃性の支配する2楽章、悲しみに対する何故という問い掛けをひたすら歌い続ける3楽章、ライヴゆえか異常なテンポで突き進み崩壊しながら「見せ掛けの頂上」へアッチェルしていき、しかし苦難から大団円へというそのあとも楽想を余り描き分けず、暗い情熱が強い内圧となって弛むことなく音楽を持ち上げるのみの4楽章、戸惑い気味の拍手は曲に対してのものであるにしても、単純でない、ガウクなりの時代への思いがかなり出ているように思う。アンチェルよりはムラヴィンであり、コンドラシンよりはスヴェトラであり、音は悪いがひとつ見識として聴ける。○。

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スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA・VICTOR/ZYX)1977/8・CD

ステレオなのはいいが分離が良すぎて気持ち悪い。そのせいかアンサンブルがバラバラに動いていてまとまらないような印象を受ける。スヴェトラーノフの録音にしばしば聞かれるスカスカ感をここでも感じてしまうのだ。録音のクリアさが更にその感を強くさせる。終楽章などどこに盛り上がりどころを持ってきているつもりなのか、意図がよく見えない。そんな設計上の疑問も感じる一方、ただ、3楽章の深淵を覗き見るような恐ろしい音楽には感銘を受けた。晩年、静寂の中にその芸術の神髄を込めたスヴェトラーノフ、この時代にして既にピアノの音楽を意識して作っている。全般に悪くはないが良くもない。そういうところ。ZYXはCDです。

○スヴェトラーノフ指揮LSO(vibrato:cd-r/bbc,medici)1978/8/28エジンバラLIVE・CD

懐かしい音楽だ。忘れられつつあるこの孤高のカリスマ指揮者、やはり独特の風格をもち、最後の巨匠系指揮者であり、その芸風は「ロシアの大陸を思わせる雄大でドラマティックな指揮」などと総括できない理知的な計算に基づく音響感覚の上に設計された音楽であった。この演奏は既出ではないか?LSOがまるでUSSRsoのような音をはなつ。弦の揃わなさ薄さ個人技誇示系の表出性と強い発音からなる独特の音やパーカス、ブラスのぶっ放し方、木管の超絶技巧を存分に発揮させるテンポ設定、このあたりがオケ起因によるものではなく、あくまでスヴェトラという人の設計に基づいてあらわれてきたものであり、それはやはりバンスタのような即興性に基づくものであったのではなく、予定調和であったのだろう。終楽章のまるで歌舞伎の見得を切るようなドラマティックな表現のもとには聴衆もフラブラを余儀なくされ、このように内面から沸き立つ熱狂的な歓喜のブラヴォを呼び覚ます指揮者というのは、スヴェトラが最後だったろう。ガウクやラフリンやサモスードやハイキンといった「純ロシア系指揮者」、フェドやロジェスト先生のような同時代の指揮者と比べても、今これを聞いて、晩年の芸風を思わせる鋭敏な音響感覚にもとづく静謐な音楽を描いた3楽章など聴くにつけても、この人は独特であり、孤高であった。ロシア人指揮者の典型などとゆめゆめ言うなかれ、ムラヴィンやコンドラシンはロシアというより西欧的な芸風を持っていたし、ガウクの系譜は即興的なものに基づく芸風であり、スヴェトラは前者の傾向にあった中に独自の「大げさな表現」を持ち込んだ。これはアンサンブルの乱れからとても最上位には置けない演奏ではあるものの、多分今はもう聞けないたぐいの演奏である。○。

○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト(放送?)交響楽団(LUCKY BALL:CD-R)1983/10/20LIVE・CD

邪悪な表現のうまいスベトラならではのものがある。1楽章や4楽章の攻撃性ったらない。録音は篭りがちで特に弦楽器が遠くブラスやパーカスに潰されがちなのは痛い。そんな録音のせいか荒さが目立つような気がしなくもなく、2楽章にはそんな粗野なアンサンブルがささくれ立った印象を与える。ハープが大きく入って独自の美麗さを発しており耳に留まった。3楽章も美しい響きがサーというノイズで大分台なしになっている。だが緊張感は伝わってくる。客席のノイズが殆ど入らないのだ。その場その場の美しさに従事し全体として何が言いたいのか今一つ伝わってこないが、明るい高音域中心のハーモニーはいかにもスベトラらしい楽観性を感じさせる。4楽章は思ったほどではないがドガシャーンと盛り上がる。ペットが外しているが後愛嬌。弦楽器の刻みに乗ってブラスにより吹きあげられる最後の盛り上がりが遅いテンポで雄大に、強引に?築かれるのは予想通りだが効果大。ブラウ゛ォが一斉に叫ばれる。スベトラにしてはやや半端な感じもするが○。

スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団(CANYON)1992/6・CD

ソヴィエト・ロシア系指揮者によってやりつくされた曲であるが、この演奏で最も耳を惹いたのが終楽章だった。前半、胸のすくような走句が一旦頂点へ向けて駆け上がるところ、敢えてそれほど盛り上がりを作らず、じわじわと盛り上がる終盤のクライマックスへの大きな流れを造り上げている。前半部分を「証言」でいうところの「強制された歓喜」と位置づけ、人間性の回復という真の歓喜への経過点としているかのようだ。弦楽器、とくにヴァイオリンセクションの薄さが目立ち、オケ全体的にやや悪いコンディションにあるように感じるが、それでもスヴェトラーノフの真情の篭った演奏になっており、注目すべきものを持っている。

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○コンドラシン指揮ミュンヘン・フィル(VIBRATO:CD-R)LIVE

モノラルでエアチェック状態は悪くないが録音は悪いというか遠く篭っている。ノイズもある。演奏は紛れも無く超即物的コンドラシンスタイルで冒頭からつんのめり気味の異様な速さである。軽快に聞こえかねないほどだが妙に粘り深刻なよりは聞きやすく個人的には好きだ。スケルツォはそれに比べれば普通のテンポ。水際立った音のキレとリズム感はコンドラシンらしい厳しくりっせられたものだ。ミュンヘンの一糸乱れぬ好演が光る。ソロに瑕疵はみられるがこの曲でこの厳しさでソロのこけない実演のほうが珍しいのである。アダージオはドライなコンドラシンにとって鬼門のように個人的には思う。わりと常識的な演奏に落ちる。美しく淋しく深刻なさまは描けるのだが例えばバンスタのような歌謡性や迫力がなく、ソヴィエトスタイルの典型的なやり方を踏襲しているがゆえに個性の印象が薄い。全体設計の中ではそれで充分なのかもしれないが。雄大に烈しい発音で始まるフィナーレはわりと落ち着いたテンポから徐々にアッチェルしてゆきヴァイオリンがばらけだして激烈な最初の頂点にいたる。強制された歓喜それ自体より直後の太鼓の破滅の乱打が深刻で印象的だ。念を押すような珍しいテンポルバートがコンドラシンの言いたいことを音楽で示している。わりと普通の緩徐部から再現部は徐々に徐々に注意深く表現を荒げていく。少し注意深すぎるような気もするがじつに大きな造形だ。コーダは二度テンポを上げることなく雄大に壮麗な勝利の凱歌をあげる。設計がすばらしく上手い。ブラヴォもむべなるかな。初心者向きではないが古典好きにもアピールするであろうロマンに流されないしっかりした構造の演奏。○。

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○ミトロプーロス指揮NYP(SONY/CEDAR,THEOREMA)1952/12/1STUDIO・CD

これはなかなかの名演である。音が飛んだり裏返ったりする部分があり興をそぐが、全体の充実度にはいささかの傷にもなっていない。物凄く特徴的な解釈である、とか技術的に無茶苦茶巧い、とかいうたぐいのものではないが、非常に集中力が高く、確信に満ちた強靭な棒と力強い表現力には感服する。この曲に飽きてしまって久しい私は、久し振りにこの曲を通して聴いて、とても満足した。2、4楽章の充実した演奏というのを物凄く久し振りに聞いた気がする。ミトロプーロスの恣意性についても言及しておくべきだろうが、まあ、本質を損なう事にはなっていないから、省略します。終楽章はあほみたいに歓喜で終わったりしかめっ面で変な解釈を施したりすることなく、ま正面から取り組み、明暗のコントラストをつけずに一気に登り詰め、終わる。ミトプーは明るくない。「くすんだ解釈」を施すことが多い。これもそのひとつだ。でも晦渋にならない手綱さばきの巧さがミトプーの本領。聴いて損はしません。○。

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○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(sony)1959/10/20

○バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(sony)1979/7/3&4東京文化会館live

後記ウィーン盤のほぼ直後にあたるライヴである。名演の誉れ高いものだ。前進力があり、熱気あふれる演奏ぶりであり、その点ウィーン・フィルのものとは聴感がことなっている。知らず知らず引き込まれ、気がつくと全曲ききとおしている、それだけの説得力のある演奏だ。(ライナーにも同じ事が書いてあった(笑)。)この人の演奏には「物語」がある。ストラヴィンスキーのような作曲家には噴飯ものだろうが、音楽がひとつの悲劇的な物語を語っており、その語り口に引き寄せられる。ウィーン盤同様やはり弱音部のそこはかとなく哀しい音楽にとくに惹かれる。3楽章の美しい音楽にはなにか失われてしまったものたちへの哀悼の祈りを感じる。バーンスタインはウィーンとの演奏よりニューヨークとの演奏の方が板についているように思う。丁々発止の動きが魅力的だ。録音の素晴らしさもあいまって、これは確かにバンスタの「革命」白眉の演奏といえよう。

○バーンスタイン指揮NYP(orfeo)ザルツブルグ1959/8/16live・CD

モノラルで音はそれほどよくない。同時期得意とした曲の、手兵によるライヴ。集中力が音の迫力となって最後まで突き進む感じは壮年期のバンスタらしい。技術的ほつれは少ない。ソロ楽器もおしなべて巧いが終楽章、気分に任せてどんどんアッチェランドしていくようなところでは弦楽器に少々乱れもみられる。聴きものはやはり三楽章だろう。ロマンティックなマーラーとはまた違った静かな感傷が印象的である。スタジオ録音や他のもっといい音の録音と比べてとりたてて聴くべきとは言わないが、マニアならどうぞ。聴衆反応は穏やか。3楽章終わりで何か叫ぶ声が聴こえる。ブーイングなのかブラヴォなのか判別できないけど、内容的には後者だと思う。

バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(SYMPOSIUM)1945/1/28

横浜のタワーレコードはなかなか掘り出し物が有るし、詳しい店員がいるようで各平置きCDに細かい紹介文がつけてあって楽しかった。対して横浜HMVは広さのわりに出点数が少なく(平置きばっかり)駄目になってしまった。詳しい店員といえば昔はお茶の水ディスクユニオンだったが(昔新宿ディスクユニオンがあったころ、べらぼうに詳しい店員がいたが、今はどうしているのだろう)、クラシック館を移動してからなんだかちょっと店的にダメになったような気がする。とくに新譜の売り場がひどい。でも中古屋としての所蔵点数は膨大で、LPも圧倒的に多いし、貴重な店ではある。渋谷タワーも細かい紹介文で知られ、ひいきにしていたところだったが、さいきん文章が悪ノリがすぎてかえって購買意欲を削いでいる。ただ、点数は抜群である。渋谷HMVはだんだんと充実していってるかんじだが、紹介文は全店舗共通の通り一遍のもの。値段は今やHMVのほうが安いかも?今はなき渋谷WAVEに六本木WAVE、特に六本木はマニアック路線一直線だっただけになくなったときは非常に残念だった。銀座山野楽器はちょっと面白いものがあることも希にあるが、それほど多くない。銀座HMVは平置きの安売り中心の店になっている。新宿ヴァージンは穴場で、マニアックな品揃えで魅せる。対しタワーは売り場こそ広いものの、それほど充実度が高くない。店員もあまり詳しくない。タイムズスクエアのHMVのほうが狭いもののどちらかというと買い易い。池袋HMVは独自路線を歩んでいたが、最近ちょっと低迷か?大御所、秋葉原石丸電気はべらぼうに安かったりして嬉しいが、品の回転が速すぎて古い盤が残らない。昔は古い盤を探しに石丸へ行く、というくらい所蔵点数が多かったのだが、今や全く別指向の店になった。他の店にふつうに売っているちょっと前のCDが、二店とも売り切れていたりするのでびっくりする。ただ、ここはCD-Rを扱っているので非常に貴重である。あと、店員が親切。CDに紹介文こそほとんど挙げられてないものの、この店は十二分に存在価値がある。(以上2003年時点の話、現在はかなり縮小変更されている)

店のことをつらつら書いてしまったが、
冒頭の横浜タワーに戻って、そこで手に入れたのがこのシンポジウム盤である。シンポジウムだから音はレコードからそのまま録音した如き悪いものであるが、音楽の魅力は十分に伝わってくる。若きバーンスタインの覇気溢れる演奏には後年に比べれば個性的なものは少ないものの、全体的に速めに進む音楽の耳心地は非常に良く、その力強い推進力に身をまかせるのも一興といったところ。ただ、この演奏のころ戦争はまだ終わっていなかったわけで、この曲に託された想いに想像をめぐらせてみるべきでもあろう。1楽章のどことなく悲痛な叫びには生々しさがあり恐ろしい感じすらするが、4楽章のあまりに楽天的なフィナーレへと続くところがアメリカ的だ。後年のものにくらべこの演奏のほうを高く評価する人もいる。(2003/2/12記)

○バーンスタイン指揮VPO(sardina records:CD-R/FIRST CLASSICS)1979/5/27ライヴ

精妙で落ち着いた演奏。ドラマティックな盛り上がりも柔らかく透明な音色でまとめられ、ライヴにしては非常に安定した印象を受ける。技巧的にも完璧といってよく、まるでロンドンの有名オーケストラを聞くようだ。緩徐部における「荘重な」表現は没入型指揮者としてとらえられることの多いバーンスタインのイメージを覆し、過去のNYP正規盤のようなエキセントリックな面も消滅し、崇高な祈りの感情を感じる。特に3楽章の沈潜する表現は彼のマーラーとは異なる静謐と威厳に満ちている。全般、爆発的な迫力は望めないが、深味のある演奏だ。最上級の賛辞を贈られても、おかしくはない。個人的に 2楽章の表現がマーラーなどにみられる「レントラー舞曲」的に重いところが後年のバーンスタインのスタイルを象徴していて面白かった。26日盤というものがLIVE CLASSICSなどで出ていたが偽演とのこと。(A.ヤンソンスらしい)

バーンスタイン指揮VPO(DA:CD-R)1979ウィーン音楽祭live

イマイチ。録音が撚れすぎている。かすれがひどいし、ピッチも安定しない。VPOというよりNYPみたいな弦も気になる。管楽器群はあきらかにウィーンの音をしているが弦が機能性は高いがライヴでは雑味の多く色の無いNYPであるかのようだ。とくに4楽章のバラケ具合は問題だろう。またバンスタにしては意外と落ち着いていると言うか、客観的すぎる。比較的遅いインテンポというか、無個性的なのである。とりたてて印象に残らない演奏、ただ、3楽章だけはいつもどおり美しい挽歌になっている。だからバンスタではあるのだろう。 1979/5/27(26)と同一演奏かは不明。

○バーンスタイン指揮フランス国立管弦楽団(KAPPELLMEISTER:CD-R)1976LIVE

かなり質の悪いエアチェックもので最初隠し録りかと思った。「膝の温もりが伝わってきそうな録音」と書きそうになった。一楽章では酷い混信もあり聞きづらい。しかし、やっぱりバンスタはわかりやすい。。この曲にこの年で今更面白みを感じるとは思わなかった。音のキレよく骨ばった音楽をかなでるのではなく、生暖かい肉のまだついている音楽、まさにマーラー側に思い切り引き寄せたような厚ぼったくも魅力的な響きに旋律の抒情性を最大限引き出したロマンティックな革命、オケもフランスがどうこういうものはなくバンスタのハミングにしっかり肉を付けている。勿論ドイツやロシアでは得られないすっきりした響きが(コンマスソロなど技術的綻びはあるにしても)バンスタの脂を上手くあぶり落としている点も聞き所ではあり、イギリスオケのようなニュートラルな無難さがない所もまた人間臭さを感じるのだ。いや、飽きないですねこの人の革命は、三楽章がなかったとしても。ムラヴィンだいすき派やチェリは偉大派には受けないやり方だろうが、この分厚い響きにえんえんと続く歌心には、マニアではなく一般人を引き付けるわかりやすい感情の滑らかな起伏がある。豊かな感受性は淋しくも希望のかけらと憧れをもって轟く三楽章で遺憾無く発揮され、マーラー好きのパリジャンの心を鷲掴みにする。ショスタコの大規模曲には速筆ゆえに構造の簡素さや各声部剥き出しの薄さがつきまとう。弱いオケがそのまま取り組んでしまうとちっともピンと来ない浅い曲に聞こえてしまいがちである。私などはそういうところで入り込めない部分があるのだが、演奏陣によってここまで分厚く塗り上げられると否応なく引き込まれざるを得ないのである。浅薄なまでに速いスピードで煽られる四楽章にしても旋律はつねに明らかであり響きの重心は低く厚味を保っている。コードを小節単位でただ各楽器に割り振っただけの余りに単純なスコアも粘着質の強いフレージングを施し構造的な弱みをカバーしている。それにしても弦楽器そうとうプルト多いな。旋律の抑揚も完全に歌謡的だが、元々カッコイイので演歌にはならない。打楽器要素が強調されているのもダレを抑えゴージャスぶりを発揮するのに役立っている。バンスタのカラオケ声がときどきうるさい。アグレッシブなのはいいのだが、マイクバランスが悪く指揮台直下で聞いているような感じなので、足踏み共々気を散らされてしまう。でもまあこの異常な突撃怒涛のクライマックスが聞けただけでも聴いた甲斐があった。○。

○バーンスタイン指揮ORTF(VON-Z:CD-R)1966/11/30LIVE

きわめてクリアなエアチェック音源でカペルマイスターの76年とされるものと比べてもはるかに楽しめる。バンスタは粗い。雑味をも味とした典型の人で、あたえた影響はけしていいことばかりではない。変に厳しさのない勢いや起伏だけのアンサンブルをこうじるトップ指揮者はバンスタ前にはそんなにいなかったのではないか。逆にバンスタは唯一無比のアバウトさを感情のほとばしりと聴かせる指揮者だったのだ、とこの解釈の行き届いた、しかし雑音も多い演奏を聴きながら思った。バンスタははっきり、ショスタコ適性があり、作曲家の内面に踏み込めたからこそどんなに曲から遠いオケでもここまでやりきることができたのだ。録音が僅かな混信を除けばほぼ満点なので◎をつけたいがいかんせん、それゆえ聞こえてしまう雑味が気になったので○。3楽章なんて自作じゃないかというくらいないきおいだ。しかも晩年のようなフォルムの崩れはない。

~三楽章アダージオ

○バーンスタイン指揮ロンドン交響楽団(GNP:CD-R)1975/8/13LIVE

ショスタコーヴィチ追悼のために特別に演奏された75年8月のライヴ記録。あたかもこれ一曲で完成された悲歌シンフォニーであるかのように、深く、広く、哀しくひびく演奏。すすり泣くような冒頭から、ロンドンのオケとしては精一杯の悲しみの叫びまで、バーンスタインの歌は続く。とはいえ録音のせいか盛り上がりどころでいくぶん物足りなさを感じる部分もなきにしもあらずだが、静かな場面の意味深さはこの盤でもよく伝わってくる。非常に美しい演奏だ。そういえばバーンスタインが亡くなったときメータが演奏したのは、マーラーの3番終楽章、慈愛に満ちたあたたかい曲だった。そのとき遠くロシアではスヴェトラーノフが同じくマーラーの9番を追悼演奏したという。追悼演奏をする側もいつしか追悼演奏をされる側になる。しばし無常を想う。

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(ふたたび全曲)

シルヴェストリ指揮ウィーン・フィル(emi)1962

ライナーには「非常にスマート」とかかれているが、整然というより雑然といったほうがいいような部分もある演奏。3楽章は精妙な音楽を聞かせており本盤のききどころと言ってもよいが、弦のアンサンブルが崩れたように聞こえる箇所が有る。またヴァイオリンが薄くてまるでウィーン響?と思わせるようなところさえある。終楽章は割合と恣意的なテンポ操作が行われており、それまでの「そっけない系」の解釈とは少々異なってはいるが、わざとらしい。シルヴェストリという指揮者を知るにはいささか分が悪い盤である。雑味の多さにライヴかと思ったらスタジオ録音。・・・なんとまあ。

マキシム・ショスタコーヴィチ指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA)

比較的オーソドックスな演奏で、とくに没入することもなく、かといって客観的でもなく、いたって平凡な解釈である。ただ、終楽章だけがちょっと違った。まるで父ショスタコーヴィチがヴォルコフの「証言」で「なんにもわかっちゃいない」とムラヴィンスキーを批判した、その批判されるような解釈をはっきりと行っているのである。最初の盛り上がりで急に恣意的にテンポを落としているのがもっともわかりやすいが、それ以外でも娯楽作品を扱うようなテンポの伸び縮みが見られる。それは自由にルバートしているわけではなく、予めはっきり指示されてのことであるようだ。作為的に盛り上がりを作っているところが逆に萎えさせる。無印。この盤はLPではいろいろと出ているがCDは不明。

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○ストコフスキ指揮チェコ・フィル(PRELUDIO)1961LIVE

3楽章が圧倒的に素晴らしい。チェコ・フィルの美しい弦により寂しげな歌が歌われている。心に染み入る感傷的な歌だ。これだけでも○ひとつを与えるのに躊躇はない。ストコフスキは譜面操作を行う指揮者だが、終楽章以外は特におかしな解釈は聞かれない。終楽章はテンポがゆっくりめのインテンポであるところが意外だが、いくつかオケ(とくにブラス)がとちっている箇所が有り、ひょっとしたらそれはとちっているのではなくそういう解釈なのかもしれないが、失敗だったとしたらちょっと残念ではある。終楽章のヴァイオリンが何本かとても艶めかしい音でポルタメントばりばりで弾いているのが聞こえ面白い。モノラル。

ストコフスキ指揮ニューヨーク・スタジアム交響楽団(ニューヨーク・フィル)(EVEREST)1959/1初出

「オーケストラの少女」DVD化記念に買ってみた(あっちはチャイ5ですが)。
クリアな録音が仇!ヴァイオリンパートが薄すぎる。ストコフスキのいくぶん緩い指揮がここでは雑味を呼んでいる。それらの欠点までもクリアにされてしまった!ストコフスキの解釈はそれなりの見識のもとに施されているし他では聞けないものだが、正直古いモノラル録音のほうが聴き易かった。

○ストコフスキ指揮NYP(DA:CD-R他)1962/3/4live

ストレートな演奏でスコアの弱さも強さも露呈するやり方をしている。旋律によって横に流されがちで、構造的にはただ二本の線が絡み合うだけのような簡素な曲なだけに、部分的な補強はなされるもののそのまま、3楽章はその方法で印象的だが、全般には旋律が強すぎる感じもする(ちなみにスコアをいじってはいるようだが強奏部の打楽器補強や低弦のアーティキュレーション強調など音量的配慮を前提にしたもので「改変」とまで言えるかどうかはびみょう)。ただ、揺れない。基本速いインテンポで押せ押せをやっており、4楽章などラインスドルフ的な即物性を感じる。この楽章で変な起伏をつけないところは他の演奏でもそうだがストコの見識というか、設計上の配慮か。突っ走るコーダで録音が乱れるのは惜しい。最後だけシンバルを轟かせた「ストコフスキ・クレッシェンド」。録音はやや篭ったモノラル。雑音は少ない。○。 CD化された模様。

○ストコフスキ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R他)1965/3/12LIVE

比較的有名な放送音源でストコフスキの革命では素晴らしくよい録音。開放的なアンサンブルだが決定的な崩れはなく、ブラスとパーカスを強調し分厚い弦楽器のうねりで響きを盛り上げていく。確かにBSOの音だがフィラ管のように華々しく聞こえるのはさすがだ。大きな表現の中で非常に煽情的なテンポ設定、特徴的なアーティキュレーション付けはいずれも別録に聴かれる解釈とほぼ同じだが、細かくは弦にオールドスタイルなポルタメントを導入したりなど、ミュンシュの繰ったボストンSOの力量と特性が、少しきしんではいるけれど、遺憾無く発揮されているといっていい出来。アタッカで度肝を抜く異常なクレッシェンドで幕あける終楽章、テンションを途切れさせず(かなりあざとい表現ではあるが)大ブラヴォを煽る結末はききものだ。ソリストのレベルも大きく影響している。中間楽章の木管が素晴らしく力強いのが印象的。編成のせいもあろう響きが低くやや重い、それに引きずられるようにテンポも遅くなる、両端楽章では気になるところではあるが、けして単調でないこと、リズムのキレが素晴らしくよいことでカバーされる。ステレオ。○。ストコフスキはこの曲を好んでいたようだ。

○ストコフスキ指揮ボストン交響楽団(SCC:CD-R)1965/8/15live

お盆の中日にこの曲をやる意味を考えると、、いや関係ないか。インホールで(クリアだが)よくはない録音。しかし水際立ったキレのよさに分厚く重いひびき、他オケとのものに比べ精緻さをそなえたまるでミュンシュのような迫力を提示、ボストンSOにしては雑味を感じる向きもあるかもしれないが、ストコフスキにしては極めて固くしっかりした演奏である。急くような前のめりのテンポ取りで音符を短く切り詰めた表現が印象的な前半楽章、ボストンの弦の面目躍如たる雄渾なアダージオ、いくぶん潤いが足りないが直裁な解釈を忠実に、弛むことなく弾ききったフィナーレ、管打を増強し極端に引き延ばされクレッシェンドをかけられた終止音のド迫力、盛大なフラブラ気味の客席反応。他録と似ているがいずれ感銘をうけざるをえない。一楽章終わりに拍手が入り仕切り直し、フィナーレはアタッカ。○。

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R他)1972/5/7LIVE

新しいわりに音は悪い。手兵だけあって軽く明るく、美しいひびきにしなやかな表現は板についたものがあり、他客演録音と比べるとストコフスキらしさがより出ているように思う。三楽章のむせ返るような弦楽合奏、ねっとりした木管ソロの競演、ストコフスキの独壇場だ。曲の響きの重さに引きずられることもそれほどない。個性的な変化付けやデフォルメも、横の流れの上に有機的に紡がれ不自然さがそれほどない。これもストコフスキらしさだがややラフさが気になるし、技巧的にはとりわけ優れているわけではなく、深刻さを求める向きには甘い演奏に聞こえるかもしれないが、スケルツォの即興に流れるような前のめりなテンポなど、ライブ感は楽しめる。フィナーレがやや弱く作為的に聞こえてしまうのは楽団の疲れのせいか。ホール残響が強いので、真実はまた別かも。なにせブラヴォが凄まじ過ぎる。○。

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チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(EISEN)1986/2/6LIVE

音が余りに悪すぎる!あきらかにラジオ放送のエアチェック。このライヴ4枚組みは1600円強で非常に安いが、非常に状態が悪い。「革命」でいえば、ピッチが高い!海賊盤にありがちなピッチを上げて収録曲数を増やすというやり方を思い起こさせる。そして、演奏もはっきりいってあまりよくない。四角四面の音楽、構築性を重視するあまり曲の流れがよどみがち。ハーモニー重視のやりかたは一理あるが、この盤は状態が悪すぎて肝心の響きの美しさがデッドだ。ショスタコはけっこう単純なスコアを書く。楽器ひとつにえんえんと旋律を演奏させたりする。だからこういった細かい音が聞き取れない録音だと、旋律が暗雲の中に消失、なんじゃこりゃ、わけわかめ。無印。

○チェリビダッケ指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(aulide:cd-r/ARKADIA)1955/2/12(21?)live・CD

素晴らしく盛り上がるライヴで、正直録音さえよければ◎にしてもよかったと想うくらいだ。しっかり独自の解釈を創り上げ、まるでベルリン・フィル時代のそのままの芸風でまい進してゆく若々しい演奏振りには長髪を振り乱しながら全楽器のミスを見逃さない極めて専制君主的な指揮ぶりが聴いて取れる。だからこんなオケでもまるきりドイツの音を出す。磨き抜かれ縦にびっしり揃えられた音の群れが、怒涛のようにしかし颯爽とショスタコのまだぬくもりの残る代表作を、独自の世界観の中にドライヴしてゆく。情にはけっして流されない、トスカニーニですら流されすぎていると言わんばかりの非常に律せられた予め彫刻されたものの表現ではあるのだが、後年のただ響きのみが残り横の時間の感覚を失った一種非音楽的なところがまったくなく、紛れも無くこの時代の非常に魅力的だった、カラヤンさえいなければどんな世界を展開していったのか尽きぬ妄想を抱かざるを得ない、たぶんこの人の革命の演奏ではいちばん巧くいっているし、一般向きだと想う。個人的に気に入った。特にこの楽章のここが、ということはないが(1楽章など独自の間断などきかれるが)。

○チェリビダッケ指揮スウェーデン放送交響楽団(VIBRATO:CD-R)1967LIVE

既にして運動性よりひびきを重視してはいるが、重々しい一楽章冒頭フーガ、ここからの簡素簡潔なオーケストレーション、ひたすらハーモニーの綾だけで描いていると言えば「コラール音楽を指向している」と読まれかねない。そうではない。確かにここにはロマンチックな感覚が通底している。数学的には引きずるような重いリズムやらテンポやらなんやら言えるだろうが表現にははっきりとした主観的なロマンチシズムが聞き取れ(三楽章の最も印象的な慟哭と感傷の世界にいたらなくても)チェリらしくないほどにドラマティックなのだ。これはAC盤ならではの悪い録音が逆にリアルな演奏の場を演出しているのもある。EMIのエンジニアが入れば「ひたすら鋭利にみがきあげられた響きだけで生気のない演奏」にでもなるのだろうが、ここでホワイトノイズを掻き分けてたちあらわれる荒々しい音楽性は、「録音芸術」という独立した概念を提唱する私にとっては「真実がどうであろうが」素晴らしく魅力的なものであり、このほうが演奏家の素顔をよく伝えるものたりえているのではないか、という幻想を抱かせるほどに面白いのだ。スケルツォ冒頭でベースがゴリゴリいわないのはこの人らしい抑制だがドイツ的な流れよさは心地いいほどだ、物足りなくはない。三はとにかく聞け。四は疾駆しないのが(私でさえ)物足りず、オケの弱さがすこし目立つが、刹那的に愉しむのではなく全体構成のなかに身をひたすなら、チェリの巨視的な解釈が見えてこよう。正しく音価をもたせ盛り上がってもけして切り詰めないところなどイマイチ乗り切れないが、これはムラヴィンを聴き過ぎた者の宿命だろう。むしろ弱音部を評価すべき解釈だ。総体として○。チェリの革命ではいちばん聞きやすい。

チェリビダッケ指揮スウェーデン国立放送交響楽団(WME:CD-R)1960'LIVE

録音がかなり悪い。復号化がうまくできていない圧縮音源のうえつぎはぎのようである。三楽章のあとに聴衆のざわめきが何故かクリアなステレオで挿入されるものの四楽章が始まるとモノラルの悪音に戻る。がっしりしたフォルムの厳しく客観的にりっせられた演奏というものは聞き取れるが、正直鑑賞するには厳しい状態であり、無理して聞き込むと今度はオケ側の演奏不備も目立つようになり、とくに四楽章は厳しい。演奏的に悪くはないのだが、これに特にこだわる必要はない。無印。チェリの革命には4枚ほど音盤があるが、イタリアの古いライヴは未知。 vibrato盤と同一演奏の可能性あり。
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