湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

アーン:ヴァイオリン・ソナタ

2017年01月27日 | Weblog
ソリアーノ(Vn)マリー・ダルレ(P)(meloclassic)1959/2/28パリ フランス放送スタジオ録音・CD

1926年、フォーレ没後2年の作品である。レイナルド・アーンといえばまずもって歌曲の作曲家であり、唯一著名なピアノ協奏曲も「人間の」歌謡性に貫かれた時代に取り残されたような作品。だがこの作品は演奏次第で変わるような脆弱な作品ではない。「人間の」歌謡性を感じさせる表現は終楽章など少し現れるが、はっきり感じられるのはフォーレの特に晩年の旋律や和声のエコーである。フォーレはアンサンブルにおいて独特のユニゾン表現など単純化を進めていったが、この曲に支配的な横の旋律や和声(とても慎ましやかではあるが)はそれに近い。フォーレは全盛期の技巧においてはアルペジオを多用するなど装飾的な表現を個性としていて、アーンはそれとは違うむしろ伝統的なヴァイオリン・ソナタの模範的表現を(ピアノ伴奏においても)とってはいる。対位法を駆使する場面など円熟した技法に目を見張る。自動車のエンジンを主題とする(このあたりの世俗性がアーンらしい)2楽章のスケルツォは特殊な聴感を与える時代なりの清新さをもった聴きどころで、ここははっきりと違う。けれども3楽章に落ち着くと、そこにはやはりフォーレの影の感じられる美しい旋律が立ち上り、最後に循環主題に戻って終わるさまも世俗性は感じられず、なかなかの佳品ぶりである。ソリアーノは表現が強靭で影が無い。またゆるやかな情緒も篭めないから、アーンのメロディの世俗性が隠れているところはあるかもしれない。でも技巧的にすぐれたソリストであるからこそ作曲家の鮮やかな手腕が浮き彫りになる。初期で終わってしまったイメージをもたれるかもしれないが、アーンはアカデミックな教育を受けたれっきとした純音楽の作曲家でもある。メロディ頼りの部分は飽きてしまう可能性もあるけれど、そのメロディに力があることは認めねばならない。録音はモノラルで良くも悪くもないがしっかり聴こえる。
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フォーレ:ピアノ三重奏曲

2017年01月27日 | Weblog
トリオ・ド・フランス(ゴーティエ(v)レヴィ(c)ジョワ(p))(pretoria/FORGOTTEN RECORDS)1958

乱暴に言えばラヴェルのトリオ後に敢えてフランクのヴァイオリンソナタの様式に則って仕上げたような作品で、最晩年の簡潔な作風に拠り音の数自体がすくない。3楽章では少し細かな動きと晦渋さが交じるが、すべての楽章は明確な旋律に貫かれ、フォーレ特有の浮遊する和声感覚も、音域が高めで推移することで保たれているが、半音階的な複雑さより明らかな変化のさまを清新に示す表現に収斂されている。そして楽団が非常にやりやすいようだ。ラヴェルでは荒々しくならざるを得なかったようなトリッキーなものがないから、却って音楽性の真価を問えるというもので、その意味でいくと同曲に要求されるものを的確に描き出していると言える。音色の統一感、ピアノと弦のバランスも良い。録音さえよければ、この音色で聴くのはとても心地よかっただろう。
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バルトーク:組曲「中国の不思議な役人」

2017年01月26日 | Weblog
マルティノン指揮ORTF(warner,icon,ina)1971/6/24シャンゼリゼ劇場live(1971/10/31放送)・CD

これもina音源で、ina.fr配信のものと同じかもしれない。比較的新しい録音のためライヴであってもめくるめくドギツイ色彩とパラードのような至極諧謔的な雰囲気、ストラヴィンスキー火の鳥の遠いエコーのような(野蛮主義であってもハルサイからは遠い)、やはり劇音楽であったことを匂わせる筋書きめいたものに沿った不可思議な音楽がよく浮き彫りにされている。マルティノンのような人は新古典主義の音楽より、こういった複雑な音楽を鮮やかに捌き拡げるほうが向いているように思う。スクリアビンのように幻想的で、えげつなさすら感じさせる重層的な響きは、つねに焦燥感を抱えながらもどこかしら楽しませる要素があり、それはやっぱり鮮やかな指揮と録音によるところが大きいし、オケもよく演じきった、この明るく美麗な音色でやってくれると土俗的なくぐもりが払拭されてとてもいい。管楽器群がとにかく、よくやっている。客席からはブーのような声が聴こえるがこの曲なら仕方ない。
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ルーセル:交響曲第3番

2017年01月26日 | Weblog
マルティノン指揮ORTF(warner,icon,ina)1970/6/21シャンゼリゼ劇場live・CD

実は、このマルティノン後期録音集ボックスを知ったのが最近で、バラバラ集まっていたフランス秘曲CD、eratoからEMIの録音が網羅されているばかりかina所蔵のライヴ音源(しかもina.fr配信の音源と違うもの!)等初音盤化トラックも多くて、14枚2000円台とはなにごと!と思った。昨今古いモノラル音源や余りに名の通った指揮者の音源ボックス叩き売りは多いが(そしてその多くがEMIからワーナーに流れたものだったりするが)、マルティノンクラスの指揮者でこれをやられると、今までの投資なんかどうでもよくなって、聴いてない音源をひたすら再生させ続ける日々になる。つい最近もプレートルで。。このライヴ、データ上は初出だが、ina配信のものは放送日が記載され演奏日とは限らないので、ダブっているかもしれない。もっともあちらはストリーム配信、もしくはmp3なので耳にはこちらのほうが優しい。

と言って、正直これはちょっと打楽器のドガシャーンで誤魔化しているようにも思う。オケに弛緩が否めず、集中力を欠いているかのように聴こえるところがある。これをスケールがでかくなった結果と取るか、統率力の問題と取るか、解釈の問題ととるか。そのすべてだろうか。でも、ina配信で聴いてない方には、このルーセルの弟子が同曲に籠められた意図、特にバレエ音楽的な要素や、前衛的な響きや陶酔的な表現を強調することによって師の歴史的位置を改めて示し直したものとして、薦められる。娯楽作品というだけではない、この曲にはこれだけ情報がこめられているんだ、というのをついでにユーチューブ的なところで何年か前のプロムスライヴで視覚的にも確かめて(あちらBBCsoなのに緩いがルーセルの効果的なオケ(とくにブラス)の使い方がよくわかる)、楽しんで欲しい。最後の妙に性急な終わり方はマルティノン独自のもの。一声ブラヴォが入る。
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ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲

2017年01月26日 | Weblog
ミュンシュ指揮ORTF(ConcertHall/GIDE/ESR/scribendum/FNAC)1968/2パリ(放送)・CD

FNACはinaが保管していたであろう稀少音源をいきなり廉価で変な詰め合わせで出したレーベルですぐ消えた。データも詳らかでないものが多く、これも何か他の盤と同じものであろう(ディスコグラフィーに従ったデータを記載する)。最初何も見ずにこれがかかって、何だこの押し付けがましい牧神は、と思ったらミュンシュだった。しかもボストンかと思ったらORTF。フランス国立放送管弦楽団をこんな機能的に、力強く使いこなすのはミュンシュしかいない、そういうことだった。環境雑音はあるがライヴではないとのこと。
Comments (2)
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ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ

2017年01月26日 | Weblog
◯シェリング(Vn)シュレーター(P)(meloclassic)1957/4/15フランクフルト放送スタジオ録音・CD

スタジオ録音だが環境雑音がある。一発録りだろう、しかし壮年期シェリングの表現力に圧倒された。まったく、これはこう弾けば良いのだ、とヴィルトゥオーゾらしさを見せつける。力強く、しかしピアノとの微細なやり取りも疎かにせず、「こんな音の少ない曲どうやったら届くんだ?」という疑問を、「音を太くすれば良いのだ!」とまあ、そんな単純な話でもないのだが、無伴奏ソナタでもやるように、これは独壇場である。たぶん、同曲の演奏としては特異なものであろうが、この説得力は同曲が苦手な向きも納得させるものがある。透明感と線の細さが特徴的な後年のシェリングと同じ人とは思えない素晴らしい記録である。特異と言ったが、和音も音線もまったく加工されているわけではなく、ドビュッシーそのものである。
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ドビュッシー:弦楽四重奏曲

2017年01月26日 | Weblog
パレナン四重奏団(ensayo)1970'・LP

一部ではスペイン録音で、EMIの録音とは違うとされている。正直違いはわからない。だが私の思い入れのぶん、いつも落ち着いたテンポで現代的な表現をなすこの団体に、部分部分に情緒的な揺れや起伏の感じられる演奏にも聴こえる。2楽章ではどうしても落ち着きが気になるが、3楽章はこの演奏の白眉たる美しく感動的な緩徐楽章に仕上がっている。両端楽章ではカルヴェを思わせるソリスティックな動きが僅かではあるが聴き取れるし、また、音色のそろった楽団と思わせながらも3楽章冒頭など実はけっこう違っているのがわかるのも面白い。ensayoのフランス音楽シリーズはドビュッシーでは他にスペインの奏者によるピアノ曲集、さらにラヴェル(これもパレナン)、ストラヴィンスキーがあるが、ラヴェルなど今すぐでも手に入るような代物なのに、これは10年かかった。やっと昨日、スペインから届いた。どういうわけか、高級中古店の人もこの盤は稀と言っていたが、取り立てて凄い演奏ではないのはプレミア盤の常。特筆できるのは併録のスペインの奏者によるチェロソナタの存在か。いずれとっくの昔にCD化しているかもしれないが、数少ないWant Listから一枚減った。
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☆スクリアビン:ピアノ・ソナタ第5番

2017年01月26日 | スクリアビン
○ソフロニツキー(P)(Arlecchino,MELODIYA)1955/1/14LIVE・CD

ソフロニツキーの録音はかつては復刻が進まず、LPがなかなか入ってこなかったこともありえらくマニアの間で希少価値を問われ人気があったが、今は復刻が増えすぎて(存在自体ありえないと思わせたステレオ・ライヴ録音すら出)マニアだった私も網羅することをやめてしまった。モノラルの古い録音がだんだんと売れなくなってきたのか、再び話題を振りまく類の演奏家ではなくなってきている感もあるが、この演奏など聴くと、残響が加えられ音質が改善されてはいても、基本的にデッドな響きの中で、ペダルを殆ど活用せずにひたすら激しく打鍵するさまは独特の即物的なスリルがあり、打鍵が荒すぎて音に雑味が混ざることも厭わず力強く突進し、突然尻切れで終わる(ひょっとすると最終音を叩いたとたん立ち上がってるかも)のは楽しい。アメリカのバリ弾きピアニストとも違った土俗的な深いものも感じさせる、泥臭さが解釈的には洗練されたものとあいまって、10年前にはまず一押しにしていた演奏だが、今聴くとちょっと、華麗と言うより呪術的なノリを感じさせるロマン性と前衛性のハザマで、絶妙のカッコのいい盛り上がりを作る単一楽章の、起承転結を無視して(スクリアビンは晩年を除き理知的な形式感覚を大事にしていた作曲家である)弾き切った感があるので、○に留めておく。ただやはり作曲家の娘婿であるこの大ピアニストの力量は認めざるを得ないと言えよう。聴くにつけピアニストとしての盛期が過ぎていると感じられることも考慮して。
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☆ウォルトン:交響曲第1番

2017年01月26日 | イギリス
◎プレヴィン指揮LSO(RCA)1966/8/26,27ロンドン、キングスウェイホール・CD

作曲家墨付きの凄演だ。力ずくで捻じ伏せるように、腕利きのLSOをぎりぎりと締め上げて爆発的な推進力をもって聴かせていく。部分においてはサージェント盤はすぐれているが全体においてはこちらが好きだ、と作曲家が評しているのもわかる、部分部分よりも大づかみにぐいっと流れを作り進めて行くさまが清清しい。とくに叩きつけるような怒りを速いスピードにのせた1楽章が素晴らしい。しかし部分よりも全体、というそのままであろう、これだけあればいいというたぐいの盤ではないが、これだけは揃えておきたい盤である。クラシックの音楽家としてはまだ駆け出しだったはずのプレヴィンが一切の妥協なく集中力を注いだ結果がこのまとまり。まとまらない曲で有名なこの曲がここまでまとまっている。ベストセラーさもありなん、この非凡さはまだその名を知らなかった作曲家の心をとらえのちに交流を深めたようである。◎。
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マーラー:交響曲第3番

2017年01月26日 | Weblog
ラーション(A)スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団他(WME)1999live

スヴェトラーノフはマーラーをレパートリーとしていて、手兵国立響を率いて九番を演った頃は「日本人に馴染みのないマーラーを教えてやる」(1990年代にもかかわらず!)というような調子で、バーンスタインを尊敬していたということからも、また晩年N響で7番などをやったこともあるように、大曲志向などという言葉にとどまらない好感を持っていたのだろう。壮年期の力感や破天荒な表現は退行し、この曲の最後もいつもの「引き伸ばし」はするが音量や表現の起伏は付けられていない。だが円熟した解釈を常に明瞭な発声で表現させていくさまはマーラー指揮者と言ってもいいくらいしっかりしたもので、地に足の付いた演奏である。牙の抜けたロシア国立とのチクルスしか正規の全集が残っていないのは残念で(最初の九番の評も良くなかった)、全集くらいでないと演奏されない三番が第二の手兵と言えそうなスウェーデンの手練れ楽団とのコンビで音盤化されたのは歓迎されるべきことだ。じっさいバランスの良さ、解釈の浸透ぶりはロシアのものとは比べ物にならない。自身の指揮方法の変化や穏健な解釈への変化(相対的にはけして穏健ではない)があったにせよ、マニアックではなくニュートラルに聴けるスヴェトラーノフというのはそれだけで真価を問えるもので価値がある。この曲のほとんどの魅力は両端楽章にこめられているが、一楽章は期待に違わぬハッキリした演奏でいちいち発音の頭が強く、わかりやすい。シェルヒェンをちょっと思い出させるが歌心というか横の流れも程よく、晩年陥った響きへの過度なこだわりもない。終楽章でオケがバテたのかうねるような感情表現までいたらず、平凡な印象なのは残念。少年合唱の音程が少し。。全般に聴く価値あり。
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グリーグ:ペール・ギュント第一組曲〜Ⅲ、Ⅳ

2017年01月25日 | Weblog
ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(ODEON)SP

恐らく第一組曲全曲録れているだろう、ひょっとしてモイーズが吹いたかもしれない「朝」が無いのは如何にも惜しい。四曲とも極めて有名で、世俗感と清潔感の同居する、国民楽派と次世代の間に位置する「辺縁音楽」である。アニトラの踊りはいかにもピエルネにふさわしい。グリーグの古い中にも特徴的な和声進行を鮮やかに浮き彫りにする。すこし弦楽の縦線が合っていないような感がするのは気のせいか、これは次の、山の魔王の宮殿にて、でも感じられる。高弦が低音のピチカートより前に、つんのめるようなテンポ感。でも弾けるような瑞々しさは民族主義の臭みを取り除く。魔王の宮殿はムソルグスキー的な超有名な低音旋律を聴かせる。78回転盤ではなかなか捉えづらい重心の低い音をよく捕まえていると思う。回転するような同じ旋律の繰り返しが大円舞に至るのはラ・ヴァルス的でもあるな、と思った。まあ、あっさりした演奏でもある。
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☆フランツ・シュミット:交響曲第4番

2017年01月25日 | ドイツ・オーストリア
○ウェルザー・メスト指揮ウィーン・フィル(aulide:CD-R)1998live

なぜメジャーにならないのか不思議なフランツ・シュミットのシンフォニーだが(ブルックナーを凝縮しブラームスのような理知性とマーラーのような歌謡性を持ち込んだウィーン風味たっぷりの作風、といったらいいのか)、楽天的でのどかな雰囲気が持ち味でありそういったところが「世紀末」を越えた現代人には余り響かないのかもしれない・・・この4番を除いては。なき妹に向けた嘆きは両端部のトランペットソロにより表現され、ワグナーふうの濃厚な響きを半音階的にうねらせながら息の長く暗さを帯びた旋律を接いでいく。だが決して晦渋ではなく、印象的な美しい旋律ばかりである。スケルツォはまさにブルックナー=マーラーの影響を感じさせるがレントラーのような鈍重なものではなく俊敏できびきびと動く。同年のシェーンベルクにくらべ追求は甘いがこういった小技がとても緻密にこめられている。だから難しさもあろう。メストのVPOデビューは4年前この曲でありLPOと正規録音を行ったのもその頃である。この演奏はしかし円熟などしておらず、咳き込むようなテンポと機械的なまでの精緻さをもったドライヴぶり、ラトルを熱くしたような、小ぶりでしっとりした情趣がないながらも駆け抜ける足取りの軽やかさと確かさが印象的だ。そこにかつての姿を思い出させるウィーン・フィルの赤銅色のひびき伸びやかなフレージングに感動をおぼえる。両者の相性だろう。解釈的にはライヴ的な崩れがありながらもそこがいいという見方もできる。物凄くお勧めではないが一度聴いていい演奏。録音は悪い。マイク一本でステレオ的な拡がりが皆無の放送エアチェックもの。○。
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☆チャイコフスキー:弦楽四重奏曲第3番

2017年01月25日 | Weblog
○パスカル四重奏団(CHAMBER MUSIC SOCIETY他)

チャイコフスキーの最後のカルテット作品。モスクワ音楽院のラウブ教授の思い出に捧げられた内省的で構築的な作品だ。フランス往年の名アンサンブル、パスカル四重奏団がやるとひときわ厳しく思索的な雰囲気に満ちて聞こえる。交響曲第4番の音楽に近いものを感じるが、より渋い味わいがある(おおむね同時期の作品)。主題が余り浮き立ってこないのもこの作品の特徴で、素直な1番、劇的な2番にくらべやや目立たないゆえんとなっているが、時折見せる人懐こいフレーズがひときわ耳を惹くものとなっている。1楽章の厳しい音楽はベートーヴェンを思わせるが、揺らぐ調性感にはあきらかにチャイコ独自の音響感覚を聴き取る事ができる。冒頭はグラズノフのような暗い和音の持続による序奏からこれまた暗いロシア歌曲のうたわれる主部へとつながっていく。暗い主題だが後半長調に転じ救いを持たせる。展開部では古風な曲想がいっそう暗さを引き立てる。盛り上がりどころは1番の1楽章を思わせる書法。パスカルの演奏はここに至っても至極安定しており実に聞き易い。調性のゆらぐさまが手に取るようにわかる演奏だ。これまたチャイコ定番の絡み合うような上り詰めかたが聞かれるが、パスカルのフレージングは突き刺すように激しい。全面に展開される半音階的な動きも明晰で、木の葉が舞うように軽やかで聴き易い。第二主題の夢見るような美しさはチャイコの神髄。しかし長い。。シンフォニー4番もそうだったか。2楽章はチャイコフスキーらしいちょこまかしたスケルツォ。1番から引き継がれた独特な書法はなかなか耳を楽しませる。奇矯さはロシアの伝統。3楽章は重く古風な悲歌に「フィレンツェの思い出」を思い起こす甘い第二主題の絡んだ楽章(「フィレンツェ」は5年後の作品)。4楽章は調性的に重いところもあるが、バレエの終幕を思わせる派手な序奏から始まるとても引き締まった音楽だ。チャイコフスキー流ロシア民謡の魅力をしっかりとした構築的な曲想の中で楽しめる。フィナーレにふさわしい雰囲気だ。第二主題の展開する様には弦セレのような情緒もある。パスカルの演奏は音色こそ渋いが技巧と情熱の高度な融合が充実した聞きごたえをあたえる。壮麗な終幕はこの曲が管弦楽的な構想のもとに書かれたものであることを改めて認識させる。録音マイナスで○ひとつ。,
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☆マーラー:交響曲第9番

2017年01月25日 | マーラー
○ドラティ指揮ベルリン放送交響楽団("0""0""0"CLASSICS:CD-R/WEITBLICK)1984/5/30LIVE・CD

2009年CD化。かなり厳しく律せられた演奏で驚くほど完成度が高い。何も特異なことをせずに力強く率直な解釈を施しているだけなのにこの音楽の何とマーラーであることか。オケの力も一方であることは確かで、今のラトルのオケにはこの音は出せないだろう。1楽章の音楽そのものが自ずから語り出すような何気ない、しかし生身の人間の苦悩と平安がいっそうリアルに伝わってくる演奏ぶりは、何度聞き、弾いてみたかわからない耳飽いたこの楽章がそれでも限りなく魅力的であることに改めて気付かせてくれた。繊細でしっとりした情感には欠けるかもしれない。響きの美しさや正確さを求めるのはこの時代の指揮者にはお門違い。だけれども論理ではないのだ。未曾有の苦難に塗れた時代をタクト一本で生き抜いてきた指揮者の生きざまがここに滲み出ている。マーラーに余り熱心ではなかった人だけれどもこれだけの演奏ができるというのは並ならぬ。中間楽章となると意見の別れるところだろうが(私は遅めのテンポはアンサンブルが乱れるので余り好きではない)、引き締まり統制のとれた
厳しい演奏であることに変わりはない。一音一音が強く突き刺さり、叩きつけるような発音は一時期のクレンペラーを想起する。もっともリズム感のよさにおいては全く上をいくが。3楽章中間部のドラマはリアルに感情を刺激する。楽想変化がスムーズで、テンポ差が小さいせいか緩徐部から抜けるあたりがとても自然にキマっている。テンポもデュナーミクも揺らさない直球の人だけれども4楽章の静かな旋律のニュアンス付けはヴァイオリンを始めとする旋律楽器の思い入れの余った音とあいまって美しい。内声の隅までしっかり弾かせるタイプの指揮者ゆえどうしても音楽がリアルになるきらいがあるが、それでもここでは歌わざるを得なかったのだ。テンポがとにかく前へ前へ向かい異様に速い場所もあるが、そんな演奏ぶりにはワルターの有名なウィーン・ライヴを思い出させるものがあり、同時代性を感じさせずにはおかない。思いでをかたるようなハープに載って単純な木管アンサンブルがひとしきり流れる場面の哀しさ、そのあとの奔流のような弦の流れ込みにはもう少し深刻さが欲しかったがそれでも充分にこれはマラ9だ。没入型の演奏ではなく、暗くはないけど、何か訴えるものがあり心にずしんと響いてくる。最後の美しさといったらない。最近ありがちな透明で金属的な美しさではない。温かみの中に生々しい感情の押し殺されたような呟き、これは涅槃の音楽ではない、「人間の音楽」だ。

長い沈黙のあとのブラヴォもうなづける佳演。
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ラヴェル:ツィガーヌ

2017年01月24日 | Weblog
グリュミオー(Vn)ヴァイスマン指揮トリノRAI交響楽団(ANDROMEDA他)1962/2/2トリノlive・CD

巧い。グリュミオーの音は一部すこしこの曲には重い感もあるが色は綺麗で技巧的にはすこぶる安定し、危うさの微塵もない。スピードや曲芸的な表現に陥らず、ただやってやろう感は伝わる演奏で安心して聴ける。オケの音色はカラフルだが反応が遅く、重くもあり、グリュミオーの厚い音とあいまってむしろ東欧的な民族音楽色が濃厚になっている。これは良いのか悪いのか。あと、ANDROMEDA盤は元がモノラル板なのにステレオ起こしされているので左右に揺れて非常に聞きづらい。モノラル再生設定で聴くことをお勧めする。
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